3 闇の彼方
小説を書ければそれでいいと思っていた。いつかきっと傑作がかけるし、書店に並ぶ。印税で食べていける。それが段々と目標が下がって行き、今では副業としてささやかな収入になればいいと思うほどになっていった。
最低だと思うときもある。しかし満は最近小説のことを忘れるようになっていった。前までは努めて、仕事中に降り注ぐアイデアを打ち消すようにしていた。そうしないとまたパソコンの前に立ち、キーボードに手を置きたくなるからだ。しかし、どうアイデアがあろうとキーボードを打つ手は止まってしまう。何も書けない。アイデアがあろうと手がキーを叩く気になれない。
怖かった。もう小説のことは忘れないと人生取り返しがつかないことになる。それが怖かった。
物書きとしてやって行くつもりだった頃はバイトで食いつないでいた。週五日、六時間のシフトだ。見入りは少なかった。ほしいものも買えなかったが車以外は無欲な彼は引きこもって何もなくても、小説さえ書ければいいと我慢していた。ライターズブロック、それに伴い彼女ができたときに満は小説の世界に片足を突っ込んでいたが、それを引っ込め、すっぱりとやめることを決意した。
最初は抵抗しかなかった。会社の歯車になるなんて嫌だった。定時ですら八時間、休憩も入れて九時間も拘束されるなんて。大学を出たときに二年間社会人をしていたがそのときの経験で一般的な仕事などろくなものではないと感じてしまった。再び会社員になる。残業もあるし、土曜日出勤もときとしてある。しかしそれも次第になれていくといつしか満は会社を楽しいとさえ感じ初めていた。自分の能力が通用し、職場仲間も増えて行く。人間関係は疲れるものの、社会人としてやっていけるのではないかと思った。時折降り注ぐアイデアも単なる妄想として最近は片付け始めていた。
しかし、電車の中で満は涙を流していた。それが何の涙なのか、満はわからなかった。ただ激しい思いが体の中にくすぶっており、それが何なのか満自身わからなかった。
いつものように仕事を終え、職場仲間と飲んだ後に一人で飲みなおそうと思った。珍しいことだ。一人で飲むなら、なるべく静かなところがいいなと満はいつもの駅で降りると家には向かわず、飲み屋街のほうへ向かい、裏通りへと入っていった。それからよさそうな寂しげな飲み屋を見つけた。隠れ家的な空気が少しあり、それが満には心地よかった。場所は個室で、それもまたよかった。てっきりカウンターで飲むことになるだろうと思っていたからだ。
まずはビール。それから日本酒。焼酎の水割り。ゆっくりと飲んで行く。一人で飲むというのは家以外ではあまりしないのだが、案外楽しいものだなと満は思った。
恋人にメールで一人で飲んでいると伝える。一緒にいってあげようかと返信がきたが、彼女は今頃仕事帰りで疲れているはず。今日はいいと送っておく。
一緒になれたらいいなとは思う。そろそろ同棲しようかと思っている。彼女もそれには賛成してくれるだろうと思う。
外に出る頃には随分気持ちよくなっていた。至福の時間だったといえる。たまには一人も悪くないものだな。二十九の年齢を重ね、満はそう思った。
「こんばんは、満さん」
下の名前を唐突に呼ばれたので思わず満は振り返った。そこには黒いハットを目深にかぶった男がいた。男は初老の年齢くらいだろうか。不適な笑みを浮かべている。
「誰です?」
周りには満と男以外誰もいない。名前を呼んだのだ。自分に用があるのだろうがなぜ名前を知っている?
「私をご存知ないですかな?」
満はぞくりとした。この男は何者だろう。自分を脅そうとする輩なのだろうか。だが脅される理由は無い。
「依然お会いしました?」
「会いましたとも。もっとも、あなたは書くだけ。私はそのたびに形づくられてきましたが。──今日は忠告にきたのです。完結しない物語が迷走を始めています。それに影響を受けるのはあなたと近しき人物だけだ。物語は最後まで書き上げるべきですな」
男は去っていった。
物語。男が何をいいたいのかはいまいちわからないが、満は死神の男の物語を思い出した。それは、デスサイズというタイトルの話。正真正銘の死神であるハットをかぶった男が、死神としての仕事を全うしようとするも対立する天使に阻止されて上手くいかないという話だ。酒に呑まれてできた産物であり、嫌いな話の一つだった。
その死神である笹本に似ていた。笹本拓郎。喋り方も自分が想像したとおりだ。
酒を飲みすぎたようだ。満は家に帰った。
恋人と楽しく電話し、それからショッピングをした。そんなこんなで一月は過ぎ去り、いよいよ彼女から求婚され、満は承諾した。もう三十近い。定職にもついているし、結婚にためらいはなかった。
「満はあたしがいないと駄目なんだから」
そんなことをいって無邪気に笑う高橋つぐみだがかなり照れてはいるようだ。
結婚か。早く結婚して子供をもうけたいと思っていた。もう三十手前。小説で稼いで嫁と子供を沢山生むという計画は変わり、会社員になった。予定というのは変わるのが普通だ。これはこれで悪くないはず。
自分に言い聞かせているのだろうか? どことなく感じる不満は、ないものねだりのようなものなのだろう。全て自分の好きにできる人生なんてありえないのだろう。
とにかく、彼女との結婚は何よりも大事だ。彼女のために、これからの新しい生活のために懸命にがんばらなくてはならない。たとえそれが、自分にとっての本当の満足ではないにしてもだ。仕事は楽しくやろうとすれば楽しいものなのだろう。
結婚して数週間が経った。タバコが切れたのでコンビニに行こうと思い立つ。妻に断り、夜の住宅街を歩く。コンビニまでは五百メートル程度だ。大した距離ではない。
肌寒い季節だった。もうすぐ本格的な寒波がやってくるだろう。くたびれたスウェットを見て、もうじき買い換えないとなと思う。
結婚生活は悪くない。まだ子供もいないからわからないが、同棲生活のときよりも強い結びつきがあるような気がする。幸せだ。
ひたひたという足音が聞こえてくる。
その音に聞き覚えがあるような気がする。
満は走り、それから止まった。何を慌てているのだろう。再び歩き出す。
やはり妙だ。足音がする。普通の足音ではない気がする。振り返る。
誰もいない。足音なんてどこからも聞こえない。
気のせいだ。気のせいなのだろう。満は首を振った。
おかしい。確かに音がした。振り返ったとたんに、音も、気配も急にしなくなった。
満は歩き出した。やはり、足音が聞こえる。こちらについてきている!
振り返る。どうせまた誰もいないのだろうと予測する。やはり、誰もいなく、足音も消えた。
気配がしたのだ。確実に何かがいるという。だが誰もいない。おかしい。
歩き出す! 足音が聞こえる! 満は今度こそと振り返った。
いない。何もいない。
再び歩き出す。そして満は足音と共に、ぞくりとした嫌な感覚を覚えて振り返った。引っかかったことがあり、その引っかかりはかなり大きなものかもしれないという予感があった。そして満は振り返ったことを後悔した。
振り返ったとたん、満は狂気を湛えた女の顔を見た。目を見開き、ナイフを振り下ろさんばかりの女だ。
絶叫する前に冷静に満は走り、コンビニまで一気に駆けた。
あれは何だったのだろう。帰りは怖いので遠回りをした。妻には随分遅かったから心配したといわれた。散歩が気持ちよかったと言い訳した。
眠る間際に満は先ほどの女のことで、奇妙な関連を見つけた。
自分の小説だ。
暗がりの中、背後からナイフで襲い掛かる必死の形相の女。それは自分が作った酩酊の夜という書きかけの小説内に出てくる。恋人に捨てられ、その恋人の新しい女に嫉妬して殺そうとするという話だ。結局元恋人の彼女は殺されてしまうのだが、実は殺した相手は元恋人の妹だったというオチがついている。
馬鹿らしい。大体自分は女ではないのだし、殺される理由も無い。そもそもあれは小説の中の話なのだ。
しかし、自分が想像したものと想像通りというのは、妙に気味の悪いものだ。
小説の中の存在が自分を敵対し、襲い掛かってくる。ふと、そんなアイデアを思いついた。
首を振る。自分はもう作家でもなければアマチュアライターでもない。創作は捨てた。今は会社員だ。楽しくやっている。そして、これからもだ。結婚だってするんだ。
「幸せにしてやらないと」
隣で寝ているつぐみの頭をそっとなでた。
最近サイクリングにこりだした満は休日に暇さえあれば自転車をこいで長距離を走っている。百キロ走ることも珍しくなくなったが、つぐみはその間一人なのでかなり不平を言われる。だから車で彼女の気晴らしもしてやる。休日はどこへいっても混んでるなと満は思う。小説家のときは平日にどこかへいくことが多く、人がうるさい休日は気分転換にビジネスホテルなどで缶詰をしていた。ネットカフェなどを利用したこともあるが、タイピング音は隣の客に聞こえるだろうし、周囲を完全にシャットアウトできるわけでもないので逆にストレスがたまった。自室でやるのが一番なのだが集中力が途切れるときもあるのだ。息抜きに場所を変えることもある。
昔は稼いでいたのかなと、自転車をこぎながらふと思う。月に四十万ほど散財してもなんとかやっていた。今の給料が三十万に満たないから、前のほうがいい暮らしをしていたわけだ。それも落ち目にならない手前のことだが。
ボトルのドリンクを飲む。今日もだいぶ暑い。
空を見上げるとワイバーンが空中を飛んでいる。ご機嫌な様子だ。
自転車を止める。もう一度空を見上げる。
紫色の不気味な生き物が空を飛んでいた。
パソコンの中のファイルや書籍化された本を徹底的に探ってみる。ワイバーンという単語がすぐに思いついたのは、確かに書きかけのファンタジー小説にそんなものを登場させたからだ。
ファンタジーといっても、空想と妄想をごっちゃにしてしまういかれた女が主人公で、授業を受けながらも窓の外を飛ぶワイバーンのことを考え、自分がそれに乗りこんで荒廃しつつある世界を救うという設定を繰り広げるものだ。しかしだんだんと現実と非現実の境が曖昧になってきて……。という展開だったはずだ。
あった。パソコンのマイドキュメントに、昔使っていた一太郎で書いたファイルが見つかった。妄想少女というひねりのないタイトル。
読み進める。速読ができる満は軽い本ならすぐに読んでしまえる。ワイバーンのくだりまできた。確かにワイバーンは登場する。色も紫色だ。
しかしこれは自分の幻覚だろう。現に、他の通行人などはあんなに大きな翼竜が飛んでいたのに気づきもしなかった。
由々しき事態だ。つまりこれ……自分はだんだんと妄想を見始めているということじゃないか。狂い始めていると。
チャイムが鳴った。今はつぐみはいない。買い物に出ているのだ。嫌な予感がした。
インターフォンをとった。
「どちら様でしょうか」
「私ですよ。死神です」
笹本拓郎。
「笹本か」
「察しがいいですな」
笹本はふぉふぉふぉという笑い声を上げた。
ふざけやがって。
玄関を開けた。黒ずくめの男が立っている。
「こんにちは」
「よぉ。上がるか?」
「いいですよ。忠告だけしにきただけですから。もう我々の仲間には遭遇したようですな。まだ生きているということはやはり仲間たちはあなたをやってしまうよりは、完結させて自分たちの存在意義を確かめたいようだ。どうです? 意地悪しないで彼らを救ってあげてくれませんか」
「俺に何ができる」
「簡単です。小説を書き上げればいい。あなたが中途半端に書き上げたが、その中には命が宿ったもの。真剣に書いたが断念した物語群をです。適当に書き終えては駄目です。真剣ではないと。彼らを解放し、自分の存在の意味を教えてあげるのがあなたの役割です」
どうも現実味がないな。下手な小説にでてくる現実感のない登場人物のように、どこか薄っぺらい。これが自分の小説のキャラクターなら、と満は自嘲する。
「もう小説家業は終わったんだ。そいつらにいっておけよ。俺を炊きつけようとしても無駄だって」
「後悔しますよ」
扉は閉まる。捨て台詞のような台詞が怖かった。
いまさら終わった物語なんてものに興味が持てるか。
つぐみと、公園デートにきた。つぐみはおっとりとした女性で、普通の女ほど喋らないが無口ではない。喋るときは喋る。今日も昼間のレストランでは最近あった面白いことをぺらぺらと喋っていた。つぐみが楽しげに喋ると満まで楽しい気分になる。結婚してよかったと満は思う。
「子供はいるからね」
つぐみがそういったことがある。
「着床してるって?」
つぐみはふふっと笑った。
「あたしと満さんの愛の結晶が宿ってるんだよ」
満は嬉しさの反面、戸惑いを覚えた。仕事は順調。結婚もした。子宝にも恵まれた。だけど、どうしてこうも空虚な気分になるのだろう。
それでも妻に子供ができたことを素直に喜ぶ。嬉しい。父親になるのは憧れだった。自分もなれるんだ。
「これからは色々忙しくなるかもね」つぐみは嬉しそうにそういった。
大学を中退したとき、これといってやることも定まっておらず、仕方なく工場でバイトを始めた。人生に絶望していた。なぜこんなことをしているのだろう。毎日が楽しくなかった。友人と遊ばないで仕事以外は引きこもる日々が続いた。
小説を書いていたときだけが安らいでいた。小説は自分を変えてくれる。そんなふうに思える。小説で賞をとり、立派に小説家業をしている頃は精神も安定し、何もかもが楽しいものに思えた。
だんだんと小説が書けなくなっていったときに焦りを感じた。きっとよくなる。そういう思いも空しく、小説はどんどん書けなくなる。書いても途中で書けなくなり、放置してしまうものも多かった。
そしてとうとう、書こうとする意思もなくなった。すべてがなくなった。会社員になり、つぐみと出会った。彼女はどこぞの金持ちの娘らしいが、勘当されたらしい。結婚も籍を入れるだけにしてくれとのことだった。式を挙げるのなどどちらでもよかったのでそのことを聞き入れた。
古典文学に傾倒し、それからスティーヴン・キングなどの現代作家を読み漁った。その頃は同じ文学を愛する友人と一緒に毎晩小説の話に華を咲かせていた。今ではどうしてあそこまで盛り上がれたのだろうと不思議に思う。大学にいってよかったと心から思った。
「お前はどういう作家になりたいの?」
すでに短編を発表していた友人は酩酊しながらそう聞いてきた。
「そりゃあ、キングみたいな小説さ。ホラーが中心かな。シャイニングばりの館ホラーとか、キャリーみたいな超能力ものとか、いいね。ザ・スタンドみたいな世界崩壊ものだって書いてみたいよ」
「無理だね。お前のホラーはせいぜい自分の住んでる団地の、周囲二十メートル程度で起きることくらいだろうな」
「それでもいいや。そんな狭い世界で起こるホラー的なものを書いてみたい。閉鎖空間的なものってそれだけで俺は興奮するんだ。キングの霧みたいな雰囲気ものもいいなぁ」
「キングばっかりかよ」
「いや、色々読んだよ。マキャモン、クーンツ、マシスン、ポール・ウィルスン。だけどキングが一番印象に残ってるってだけさ」
「知らないし、どれもホラー作家のようなものばかりだな。俺は日本作家も海外作家も等しく好きだけどな。だけど一番好きなのは自分の書いた小説かな」
ビールを飲む。だいぶ酔っ払ってきた。いい気分だった。満は友人の書いた小説のことはあまり好きになれない。いかにも日本人作家といった文体で、海外作家に傾倒していた満とは合わない。一度海外文学の世界にどっぷりとはまってみるといいのに。世界は広く、そして人の心の深くにはどうしたって壊れない、美しいものがあるということがわかるのに。
「今は何を書いているんだ?」さして興味は無いが、尋ねてみた。
友人はビールを煽ると、言い出すべきかどうか迷ったような様子になった。
「そうだなぁ。三十代後半の人気作家が主人公なんだ。彼の書いた小説が現実的に現れて、彼を襲いだすんだ」
「それはキングのダーク・ハーフのパクリ?」
首を振る。
「作品のキャラそのものじゃない。作品の世界が襲ってくるんだ。つまり、主人公は本の世界に取り込まれちゃうんだよな」
友人の小説を読んでおけばと今になって思う。完成したとはきいたが、さして興味は無かった。実際、友人の小説など愚にもつかない駄作だと思っていた。
今の状況を説明するために、彼に相談してみようか。しかしもう数年前から交際を絶っている。理由は、互いに尊敬できないから。むしろ見下す理由しか挙げられなくなった。そんな相手だ。いまさら連絡してもまともな相談などにはお互い乗れないだろう。
ならどうすればいい。考える。
真剣に書いたが断念したもの?
机の中から、埃をかぶったUSBメモリを引っ張り出す。それをパソコンに繫げた。エディターを開いてメモリのデーターを表示する。
書きかけの小説が数個あった。全部で六つだろうか。残っているものが六つだがそのまま削除してしまったものもある。
これまでのことを思い出す。あの男のいうとおりなら、小説を書き上げてしまえば妙な存在は見えなくなるし、変なものに襲われたりもしなくなるはず。
とりあえず、酩酊の夜というタイトルの書きかけの小説から取り掛かる。ほとんど終わりに近づいている。どうしてこれが書き終えられなかったのか。単純だ。話がくだらないからだ。オチも弱い。それでも、今見れば悪くないなと思えてきた。今なら少しは改良できる。そうすれば、大丈夫だ。
書き終えるのに朝までかかった。これから仕事だというのは実際かなりのストレスだが、達成感があった。
──これはどうすればいいだろうか。もう小説家ではないのだ。これを書き上げても、世間に公表するわけにはいかない。
本当にそうだろうか。立派な小説だ。傑作ではないし、佳作でもない。だが、悪くは無い。軽い文体でそれなりのホラー性とミステリー。暇つぶしにはもってこいだ。毎週放映の二時間のサスペンスドラマなどを見るよりは有意義に過ごせる内容だ。間違いない。
これは……電子書籍化してしまおう。前までは短編小説を電子書籍として公表してきた。小遣い稼ぎにはなったが、あまり割りに合わなかったのでやらなかった。
前と同じペンネームで、書籍化する。これでいい。反響はあるだろうか? 気になるところだ。
満はいまさらながら驚いた。
小説が書ける。
これはすばらしいことだった。以前なら小説を書こうものならすぐにでもとてつもない不快感が襲ってきて、キーボードを打とうとする手が止まってしまうものだった。さっきは、そんなことがまったくなかった。
不思議なものだ。これが祝っていいことなのかわからない。というのも、希望が出てしまうからだ。中途半端な希望なら、ないほうがいい。まともにプロ作家として復帰できないなら趣味レベルに抑えたほうがいいし、そもそも小説など書かないほうがいい。今の自分には家庭がある。生まれてくる子供もいる。不安定な作家家業に再びチャレンジする気にはなれない。
本当だろうか?
わからない。
ともかく、これで不気味な女──名前は蔵石真子──の突然な襲撃を受けることはなくなったという解釈でいいのだろうか。別に何も変化がないので、そう頭で受け止めることしかできないが。
数日後に再び笹本拓郎が現れたとき、満はジョナサン・キャロルの何かの小説のことを思い出していた。なぜその作品が気になったかはわからないが、確か最後に赤頭巾ちゃんが出てくる話だ。そのことを思い出して満は背筋をぞくりとさせたのだが、理由はいまいち自分でもわかっていなかった。
拓郎は散歩中に現れたのだが、二人が挨拶する前に住宅の上から突然一つ目の怪物が現れ、道路を叩き潰した。
これは幻覚だろうか。道路は確かに割れている。だが現れた一つ目の巨人は自分の、やはり書きかけの作品に出てくる怪物だ。大きい。民家より大きい姿だが、人型をなしている。皮膚は赤く、筋肉隆々だ。
これは書きかけの小説である妄想少女に出てくる、ファイアーマウンテンの山頂で悪さをたくらむ一つ目巨人だ。炎の山に住むから、炎に強いし、炎を吐く……。
一つ目巨人の口から恐ろしい炎が突如満を襲ったとき、満は飛び上がらんばかりに驚いてその場から退散した。
後で思うと笑えるのは、笹本拓郎も満と同じかそれ以上の悲鳴を上げて同じように逃げ走ったことだ。
「お前らはあいつらと同類なのかと思ったよ」
鉄橋が近くにある川原で満は笑いを禁じえないでいた。
「私は違う。あれらと同じ本の仲間ではあるが、共闘しているわけではない。私は単にあなた、我々の創造主である柳満殿に忠告をしにきただけだ。あなたが死のうと、私のようにすでに世にでた創作物は生き続ける。人々が忘れるまで。これは生んでくれた創造主に対するほんの恩返しに過ぎない。どうか、お気をつけて。……そうそう、酩酊の夜は無事に作品として世に出た。もうあの作品のキャラクターがあなたを襲うことはないでしょう。他の作品もこの調子で書き終えることです。そして世に出すことです。ではまた」
笹本は去って行く。彼に尋ねることはなかった。
あと五作品。断念こそしたが、本気で取り組んだ作品だ。その思いが、こうして形になって自分に憎悪として返ってきたのだろうか。そう思うと、その小説たちを書き上げてやりたくなる。モチベーションは上がりつつあった。
まずは妄想少女から書き終えよう。
妄想少女の完了には二週間の歳月がかかった。その間、満はゴブリンに襲われたり、ゾンビに囲まれてあやうく食べられそうになったり、魔法少女に襲われたりと色々な苦難にあったがなんとか生き延び、妄想少女を完成させることに成功した。
妄想少女は妄想と現実の区別がきちんとつくが、妄想癖の激しい女子高生小西ゆかりが主人公だ。彼女はあらゆる漫画を読み、あらゆる小説を読む。特にファンタジーが大のお気に入りで、暇なときはしょっちゅうその世界にトリップする。そして彼女は次第に自分の空想世界が自分の世界の一部分に入り込んでいることを知る。それから、彼女はその空想世界の怪物たちと戦う羽目になり、最終的に現実世界で空想世界の敵に対し無敵同様の強さを得られる剣を駆使して戦い、なんとか空想世界の怪物たちを撃退することに成功する。そんなお話だ。その中には友情や恋愛も入るし、知人の痛ましい死も入る。だが文体はかなりライトだ。中学生や高校生が気軽に読めるように作られなお大人も楽しめる。そんな作品だ。小西ゆかりの成長物語。本書の一番の目的はそれで、それはジュブナイルとしてはよくあるテーマであり、大事なものだ。
電子書籍化する。満足した。もう午後の三時。あと四時間ほどで出社しないといけない。今からの四時間は寝不足だろうが気持ちのいい睡眠となるだろうと満は思った。
ファンタジー世界の怪物に悩まされる心配はなくなった。ゆっくりとつぐみが淹れてくれたコーヒーを飲む。
「もうすぐ君との赤ちゃんができるんだな」
まだもう少し先だけどねとつぐみはいう。満は優しくつぐみのお腹を撫でた。まだ出ていないでしょとつぐみは笑う。ベッドに誘い、愛の営みを終える。つぐみの寝息が聞こえる中、満はつぐみとであった頃のことを思い出していた。あのときは小説を書いていて、そしてそれが日の目をみることはなく、悶々とした日々を送っていた。つぐみとの出会いは彼が日雇いのバイトをしていた頃のときだ。派遣社員を辞めてしばらくはそういう仕事をしていた。そのときの記憶は曖昧だが、つぐみとは偶然的に出会い、そして仲良くなり、恋仲になった。
初めてのデートは喫茶店だ。それから次に湖で白鳥ボートに乗った。そんな思い出を積み重ね、同じ屋根の下で住むまでにいたった。甘い甘い思い出だが、細部はところどころ覚えていないのは経験したことが多すぎるからだろう。
しかし解せない。どうして作品が自分を襲うなんてことがありえるのだろうか。歳月が経った今、どうしてこんな不可解なことが自分に起こりえるのか。
何かきっかけがあるのだろうか。
満の携帯電話が鳴った。今はもう午前一時だ。こんな時間に誰だろう。正気の沙汰ではない。画面を見て納得する。非常識な輩に違いないと思ったが、笹本だ。部屋を出て電話に応じる。
「何のようだ?」
「あと二つの物語があなたを邪魔しています。全てを書き終えるとあなたの障害はなくなりますが、そのとたんあなたにとって必要のある虚構もなくなってしまいます。よくよく注意してください」
「何の話だかさっぱりわからん」
笹本は嫌な笑い方をした。
「結構。私の生活には直接関係の無いことだ。ですが、別にあなたは私の主。一応恩を返すまでです。最後の助け舟を出すと、その作品とは雨の夜と死の道ですね。では健闘を祈ります」
電話は切れた。
雨の夜。その作品は……思い出せない。
死の道は確か、その道を通ると呪われるという設定自体よくわからない話だ。主人公は夜の道を延々奇妙な化物につきまとわれる。最終的には無事家にたどり着くも、妻も子供も化物になっているという変なオチがついている。思い出すと頭が痛くなる。
死の道は自体は書き終えている。しかし、お蔵入りになっている。改稿してまた書籍化してしまおう。
しかしもう一つの雨の夜とは一体どんな作品だったのだろう。満は首をかしげた。
つぐみが悲鳴を上げたので満はすぐさまつぐみの部屋に駆けつけると、そこには一匹の巨大なハエのような化物がいた。
こんな化物はしらない。もう死の道は昨晩書籍化した。ではこれは雨の夜という作品に出てくる存在なのだろうか。
ハエの化物は二メートルほどあり、グロテスクそのものの醜悪な姿をとっている。満に気づくと羽を使って飛び、窓の外に逃げていった。
「何だあれは?」
「急に窓から飛んできたの」
つぐみは腰を抜かしたようで、床に尻をついたまま動けないでいる。
あれは、どういう化物なのだろう。満に気づいて逃げたのだろうが、あんなのが襲ってきたら対処のしようがない。
何か忘れている小説でもあるのだろうか。
思い出してみる。しばらく記憶をたどっていくと小説仲間であり友人でもある三浦彰浩との共作を思い出した。酒の席で思いついた話がきっかけだ。小説を一章交代制で書いていくというもの。これもキングとピーター・ストラウブの合作から着想を得ている。あの頃は大物作家の真似をすればいいと思っていたのだろうか。
その小説は結局世に出てはいない。そもそも友人は途中で小説を断念し、書籍を数千部売り上げる程度でその道は終了したのだ。
あれはどこにあっただろうか。もうフロッピーディスク時代の遺物だが、フロッピー時代はどこかにとってあるはずだ。
地下の倉庫を探してみることにした。
数時間探し、ようやくフロッピーディスクの山を見つけた。それらの中でそうだと思われるタイトルのものを発見し、早速古いパソコンを引っ張り出してフロッピーの中身を見た。そして思わずガッツポーズをした。これだ! タイトルは夜蝿。内容は不気味な洋館で人体実験を施された男が夜な夜な蝿男になり、友人である主人公がその蝿男を殺さずに救うという話だ。ザ・フライに似ているがこの小説に出てくる蝿男は基本的に性格の悪い男で、蝿になっても人間の状態でも悪事を働く。主人公はその醜さは性格を現しているということをはっきりと理解し、蝿男を容赦なく撃ち殺す。最終的にその贖罪として主人公も蝿男になるが、彼は国民のヒーローのようなものになる……フライマンとして。
酔っ払いのたわごとだ。私は頭を降った。信じられない。こんな駄作をよく書いたものだ。しかも二人揃ってだ。だが、これでつぐみを襲った正体不明の存在の謎が解けた。蝿男か。まったく。もう眠くなってきた。
夢の中で、まどろみの中、私はつぐみとの出会いのことを思い出していた。
彼女と私はとある合同コンパで知り合い、お互い一目惚れ、そのまま交際へと発展した。最初のデートは湖畔でピクニックだ。いきなりの割には随分落ち着いたデートだった。大して会話があったわけではないが、一緒にいるだけで楽しかった。つぐみも同じ気持ちだと思う。
数回のデートの後、私はつぐみにプロポーズし、つぐみは快諾してくれた。私たちはこれまで喧嘩もなく上手くいっているように思う。まったく喧嘩がないのも少々不安ではあるが。
起きると日は高かった。少し長く眠りすぎていた。階下に行きリビングのドアを開けるとつぐみが紅茶を飲んでいた。もうすでに私の朝食の用意はされてある。蝿男の脅威はもう去ったはず。私やつぐみを襲う存在はもういないはずだ。私は落ち着いて朝食をとった。
「散歩でも行こうか。お腹は平気?」
つぐみはいつものようにうなずいたので、私はそれ以上は言わなかった。
天気はよかった。公園を散歩するのには絶好の気分だ。スケボーをする少年たちがうるさいので奥へと行き、静かな芝生の広場のベンチに腰掛けた。犬にフリスビーをしている家族を眺めながら私たちは穏やかな気分だった。
「つぐみと出会ったときのことを思い出すよ」
「あたしと? どういう出会いだったっけ」
何をとぼけて──と思ったが、確かにあのときのことはどこか曖昧だ。しっかりしろ。コンパがきっかけで知り合ったのだろう。
おかしいことに気づいた。記憶は確かなのだが、その全てがぼやけて、不鮮明なものだった。なぜだろう。記憶は確かだ。いや、本当に確かなのか? この前に確認した記憶がまるで、設定か何かのような感覚。
そして二人は紆余曲折あって、夫婦になった。
「ねえ、思い出せた?」
私の動揺をあざ笑うかのようにつぐみが言う。
そうだ。私は動揺していた。つぐみとの出会いの記憶は実におぼろげで、夢の中で出会ったかのような、そんな錯覚に陥ってしまう。
おかしい。考えれれば考えるほど。つぐみとの出会いの記憶が曖昧だ。もっといえば、二人が結婚するまでの恋人としての記憶すらも。
なんだこれは?
つぐみはくすりと笑った。
「赤ちゃんだけは守りたいよね」
「それはどういう……」
つぐみは私の唇を塞いだ。つぐみの唇が離れたとき、私は甘美な思いと共に目の前の女性が見ず知らずの他人のように思えた。しかし、結婚してからの記憶は明細に残っている。
この鳥のような名前の女との馴れ初めはどうなっているんだ。
「私もあなたもね。だけどいいじゃない。本物が一つだけあってもいいと思うの。そのためにまだあたしはいることができるんだと思う」
私は眉をひそめた。
「何をいっているんだ?」
「帰ろう」
数ヵ月後、つぐみは元気な男の子を出産した。そして病院を出たのは私とその赤子だけだった。つぐみは涙を流して赤ん坊を抱いていた。そして私にも抱かせ、つぐみに戻そうとするとつぐみの姿は無かった。
狐に包まれたような気分だった。赤ん坊を看護士に預けて病院中を他の看護士と一緒に探したが、つぐみの姿はどこにもなかった。
私は途方にくれた。彼女がいないのに、赤ん坊だけが残された。
つぐみとの結婚してからの思い出。甘い日々。彼女は帰ってこない。まるで最初からいなかったかのように。
そして私は一つのデータを発見した。酔っ払いながら書いたものだ。ハエ男の後に電子書籍化したものだ。全て格安で提供され、そこそこ売れているというのが素晴らしい。タイトルは死神の末路だ。内容はどうだろう。
売れない小説家の男性が恋に落ちる。相手の女性の名前はつぐみ。しかし、彼女は不治の病を患っている。彼女を救いたい主人公だが、結局彼女は病死してしまう。二人は赤ん坊を生んで三人で仲良く暮らそうと約束していのただが。
全て理解した。その小説は短編だった。そして、私の友人の書いたものだった。
私はどうなる? そうだ。赤ん坊はどうなる? ゆりかごに眠る赤ん坊。母親の乳が飲めない私たちの子。つぐみもせめて子供が育ってから消えればよかった。
チャイムが押される。私は玄関へ向かった。死神が、ドアの向こう側にいた。
「ご心配なく。赤ん坊は我々が責任を持って育てます。さあ、あなたは元の世界に返ったらどうです?」
私の体は消えていく。
「あの子を頼む」
私はそういい残し、この世界から消えた。




