後ろから前から…
朝の駅のホームは相も変わらずサラリーマンやOL、学生たちで溢れかえっている。
張り切って街を照らす太陽とは対照的に、一部の固まって奇声をあげる学生たちを除けば、一見すると誰も無口で憂鬱そうな表情を隠さずにボーっと突っ立っていた。
かく言う俺もその中のひとりだ。新調したばかりのスーツに薄い鞄を下げて、見るともなしに反対側のホームを眺めていた。
時計を見ながらいつもより三分早く着いたな……と、ため息をついた。一分の待ち時間もやたら長く感じ、苛立ちを覚えるのだ。
それがきっかけだったのかは定かでないが、ここでいつもの朝にちょっとした変化が訪れる。たまには別の車両に乗ってみようと考えたのだ。
そうして俺は前から五両目後方のドアの列を離れて、さらに後ろの車両へと歩き出した。
少し立ち位置を変えるとなんだか駅の風景も変わるようだ。居並ぶ人々の顔をチラチラと見ながら歩を進めて行くと、はっと目に付く女性を見つけて足が止まった。
(こんな美女がいたとは……)
眼鏡をかけ、知的な雰囲気をスーツに包んだスレンダーな美女が、まばゆいばかりの光彩を放ちながらそこに立っていた。
満員電車のなか、オヤジどもに取り囲まれて目的の駅まで行くのが幸せか、それとも美女を側に置いて行くのが幸せかは問うまでもないだろう。
俺は迷わずその列へと列ぶことにした。
やがて塗装をケチったかのような金属肌を剥き出しにした電車がホームに滑り込んできた。ここからが男の闘いだ。
周りの野郎どももおそらくは同じ考えを持っているに違いない。遠慮や謙虚な気持ちは捨て去らねば勝利は有り得ないのである。
ドアが開く。もちろんこんな駅で降りる奴など皆無に等しい。一斉にドアへと殺到するライバルたち。
目標をロックオン!
しかし、俺とターゲットの間には、何人ものオヤジどもが割って入ろうとしているではないか。
(させるかあっ!)
血しぶきが上がり、火花は山々を照らし、谷は吠える(イメージです)。俺は迫り来る敵をちぎっては投げちぎっては投げ、血震いしながらメガネを目指す(あくまでイメージです)。
前方のオヤジの脇に腕をねじ込むと、左に押しやりながら体を割って入れた。
(まだだ……もう一人!)
今度は背の高いオヤジを右に押しやろうとしたが、なかなか動かない。ぴったりと眼鏡美人をマークしてまるでストーカーのようだ。
(くっ……この変態オヤジめが……)
『敵を知り己を知れば百戦危うからず』
ふと頭に浮かんだのは中国の故事だ。なるほど奴は体が大きく力が強い……
(だが、足元はどうかな?)
ここで俺が繰り出したのは『膝カックン』だ。己の膝を相手の膝裏にぶつけてバランスを崩すという世にも恐ろしい格闘界でもおなじみの必殺技だった。
不意をつかれた男の体がバランスを崩す。このタイミングを逃してはならない。俺は人波に押されるフリをして男をリング外へ押しやった。
(やった!)
歓喜の表情を浮かべる俺の目の前にはあの眼鏡美人の後ろ姿が……
(な、なんですとーっ!)
後ろ向きではない、こちらを向いて正面同士の密着スタイルではないか!
思わぬ展開に動揺が隠せない俺とは対照的に、何事もなかったかのように素知らぬ顔で電車は動き始めた。
その直後である。眼鏡美人と密着するというシチュエーションに反応した心臓がフル回転しだすと、大量の血液を下半身の一点に送り込み始めたのだ。
(い、いかん!)
俺が慌てたのも無理はない。眼鏡美人は両手でバッグを前方に提げているのだ。そしてその手はモロにマイ・シークレットゾーンに押し付けられているではないか。
かたや俺の両手は無理に突撃した為に捻れて他人の間に挟まり、元に戻せないでいるのだ。
(痴漢に間違われる!)
この恐怖が頭を支配する。こんな所で人生を終わりにするわけにはいかない。俺はまだまだ若いんだ。
しかしその意志とは反対に、どこまでもマックスを目指そうとする、場の空気が読めない我が息子。
特番の警察の取材でよく痴漢で捕まっているオヤジがいる。
『何にもしてねえよ!』
と叫びながら、顔となぜか股間にモザイク入れられたみっともない姿を晒す性犯罪者……
(冗談じゃねえ!)
俺は唇を噛みしめると神経を逸らすべく眼鏡美人から視線を外し、上を見上げる。
(こ……これは?)
と、そこにあったのは艶めかしい肢体を露わにした、ほし●あきちゃんを載せたゴシップ誌の吊り広告ではないか!
「エイ、エイ、おぱーい(* ̄▽ ̄)ノ♪」
ちがーう(`□`;)!
完全に裏目である。火に油、過食症に食い放題、風俗前にユンケルだ。
もう股間は六甲の山々ほどにそびえ立ち、おいしい水まで絞り出さんばかりではないか。
しかしここで俺はあることに気付いた。確かに股間はデンジャラスな状態ではあるが、決して意図してやっているわけではない。しかも触っているのはむしろ相手のほうなのだ。嫌ならば向こうが手をどかせば良いだけの話ではないか!
そういうことならばこの状況を楽しんで良いのではないだろうか?
1バイトの頭脳でそのような結論に達した俺は、ようやく周りを見渡す余裕が出てきた。すると、何やらケツがやけに熱くなっていることに気が付いた。
(ん……なんだ?)
じんわりと尻を湯たんぽで温められているような感覚。そしてねっとりと貼り付いてくるような感触。
と、そのとき湯たんぽがぬるりと蠢いた。
(え? え? もしかしてこれって……ケツ触られてるのか!)
今度は後ろに神経が集中した。男のケツをまさぐるなど、これは噂には聞いていたが『痴漢』ならぬ『痴女』に違いない。
いや、前の眼鏡美人も一向に手をずらさないところを見ると同じ類なのかも知れないのだ。
前から後ろから……こんな電車なら毎日乗っていたい♪
そんな妄想をしていると、後ろの痴女が気になるものである。俺はこれでもかと首を回し、後ろをチラリと確認する。そしてそこに見たものは……
(誰だ、このハゲオヤジ( ̄□ ̄;)!)
そう、ツルツルに禿上がった頭とは対照的に濃い眉毛のオヤジがニヤニヤしながらそこにいたのだ。あまつさえ目が合うと悪びれる風もなく黄色い歯を見せてニヤリと笑った。
(もしかして……ホモの痴漢?)
頭の中はパニックだ。よもやホモの痴漢がいるなど考えも及ばなかったのである。悪寒が背中を走る。鳥肌が首まで上がってきた。
(どどど、どうしよう?)
硬直する俺を見透かしたかのように、オヤジの手は激しさを増した。
そこにはBL小説のような甘さなどひとかけらも存在しない。これが現実だ。十年くらい経てば『オジーンズ・ラブ』なるジャンルが存在するであろう。
(と、とにかく逃れなければ!)
俺はなんとか逃れようとケツをよじってはみたものの、そんなもの何の解決にもなりはしない。それどころか眼鏡美人に息子をぐいくいと押し付ける結果となってしまったのだ。
その時、見下ろしていた彼女の頭が動き、睨みつけるような表情で顔が向けられた。
(めっちゃ怒ってはるーっ( ̄□ ̄;)!)
このままでは俺は痴漢のレッテルを貼られてしまうだろう。いきなり手を掴まれて『このひと痴漢です!』などと叫ばれたらどうしよう?
すかさず俺もオヤジの手を掴んで『このひとも痴漢です!』と叫ぶのか?
出来ん!(-_-;)
シチュエーション的に一番恥ずかしいのはどう考えても俺だ。
例え罪を逃れたとしても、この電車を利用することなど出来はしない。
おそらく陰で『穂茂尻撫朗』や『ゲイ達者』などと勝手にあだ名され、下手すれば都市伝説にも成りかねない。
目の前が真っ暗になってゆく。それでも俺の息子は相変わらず場の空気を読まずに元気はつらつだった……
さらに激しさを増すオヤジの手。さらに激しさを増す俺の腰の動き。さらに激しさを増す彼女の怒りの表情。
その激しい水面下の沈黙がついに破られた。
「ちょっと、何してるんですか?」
眼鏡の奥のまなじりを裂いて、彼女の一言がついに出たのだ。
心臓ドッキーンである。
この時とっさに考えたのは責任逃れだ。こうなりゃもうヤケクソである。俺はすかさず彼女の言葉を伝言ゲームのように後ろへ送った。
「ちょっと、何してるんですか?」
そのさまを見た彼女が言葉を続ける。
「いい加減にしてください」
「いい加減にしてください」
ここで彼女は苛立ちを感じたのか、少しトーンを上げた。
「大声だしますよ」
「大声だしますよ」
そこまで言うと、今度はオヤジがつぶやいた。
「ホントは好きなクセに」
俺は反射的に前に向き直り、その言葉を繋いでいた。
「ホントは好きなクセに……あ('▽'?)」
烈火のごとく怒った眼鏡美人。車内のガラスが震えるほどの大声を張り上げた。
「痴漢でーす!」
次の瞬間いきなり羽交い締めにされた。振り向くとそのハゲオヤジだ。
「コイツですね!」
「オメエだろが!(`□`;)」
かくして俺は人生の落伍者となりはてたのだ。
『気を付けよう、眼鏡美人とホモオヤジ』