第五十九話
5月15日 3時15分
大日本帝国
千島列島 占守島演習場
ロシア陸軍サハリン守備隊に属する兵士たちは、暗闇に紛れて日本軍が守る占守島の一地点に上陸することに成功していた。
『急ぎ橋頭堡を確保せよ!』
司令部からの命令を実行するべく迅速に動く兵士ら……彼らが次々と上陸する味方と共に内陸部へと進軍しようとした時、一瞬にして形勢が逆転する。
埋められた訓練用地雷を踏み、ワイヤーに足をとられ、動きが停滞したところに撃ち込まれる機銃……沖にある揚陸艦から戦況を見守っていた戦場統制官は驚愕の表情を浮かべた。
モニターに次々と表示される兵士らの状態……左足欠損戦闘不能、頭部損傷即死、胸部貫通銃創即死、頚部損傷即死……
「くそっ! これで4敗目だ」
指揮官がデスクを叩き毒づく。日本軍との演習は定期的に行われており、相手は南樺太や千島列島を守備範囲とする帝国陸軍第98師団に属する占守島守備隊であった。
「急げ! 全員やられるぞ!」
小隊長が叫ぶ。
「姿勢を低くしろ」
彼らは日本軍が巧妙に構築したキルゾーンをなんとか避けることに成功し、敵に痛打を浴びせるために前進する。
「フフフ、他の奴らはやられたが俺達はそうはいかないぞ。何回も日本軍にやられてるロシア軍ではない」
小隊長が不敵な笑みを浮かべて囁いた。
だがその笑みは次の瞬間には脆くも崩れ去ることになる。
彼の耳に響く不快な音……戦況表示端末に目をやるとそこには自身の小隊が、全員戦死の判定を受けていることを虚しく表示していた。
『君の小隊は全滅した。その場で待機せよ』
統制官の声を聞き、彼は視線を上げる。そして目の前に現れた予想外のものに彼ならずとも驚く。全身を黒の野戦服に身を包み、黒い戦闘帽、その表情を一切知ることのできないガスマスク……そこから覗く目はロシア兵を不気味に見つめる。
戦闘帽に縫い付けられた星の帽章だけが、謎の集団が日本軍であることを示していた。
「ま、まさか」
小隊長には心当たりがあった……彼らが何者であるのか。しかしその詳細までは一切不明。
「おい」
黒い集団から一人が近付いてくる。持っている小銃は日本軍の主力小銃ではあるが、まるで別物かのような改造が施されていた。
小隊長の目の前に来た黒い男は静かな口調で声を発した。
「ここで見たことは一切他言無用」
流暢なロシア語だった。短い言葉ではあったが小隊長はそれだけで理解する。
「だが、なぜここに」
暗闇に消えて行く日本軍の部隊を見送りながら呟く。
「彼らの陸軍に存在すると言われる特殊部隊……第421歩兵中隊」
噂でしか聞いたことのない、実在するかすら怪しい部隊の名であった。
「即応連隊の中から選抜された兵士、それも厳しい選抜試験に合格した猛者を集めた部隊だと聞いたことがある。人員は僅か170人だが、その戦闘力は計り知れない」
転移によって帝国とロシアの緊張した関係は改善した。日本軍との関係が親密化するにつれて奇妙な噂も彼等の耳に届くようになる。元々が仮想敵である中国、ロシアとの戦闘を想定して日本海側や北海道に主力を重点的に配し、有事ともなれば数時間以内に朝鮮半島への派兵を可能にする体制が敷かれていた。
そして南樺太には例の421歩兵中隊が配置されており、仮に戦争が始まればいち早くロシアの指揮命令系統を破壊、北側のロシア軍を無力化し、主力である第7師団と第98師団を北進させる計画まであったという。だが、これはあくまでも噂でしかなかった。実際そういう配置がされていたかどうかは、今となっては謎だ。
全身黒ずくめの男の背後に近付く影があった。
「首尾はどうか」
黒ずくめの男は背後に見向きもせず言葉を放つ。
「海軍のS特務機関の調査によると、北樺太には例の国のスパイが潜り込んでいる可能性が高いと」
暗闇から現れた男は淡々と報告する。彼もまた全身黒ずくめであった。
「やはり……北樺太も我が帝国の領土であればこのようなことは起きなかった」
ガスマスク越しにも分かる、その眼光の鋭さ……男は再び口を開く。
「参謀殿は何か言ってたか?」
それを聞いた背後の男は彼の真横に移動し、そして小声で呟く。
「は、北樺太に潜入し、消せとのことです。くれぐれもロシア側に気付かれぬようにと。S特務機関との接触もこれを避けよとの命であります」
「また1つ仕事が増えたか」
一言静かに呟くと、彼らは暗闇へと消えていった。まるで最初から存在していなかったかのように。
同時刻
オホーツク海某所
突如、海面を引き裂く黒い影、生物とは思えない無機質な黒……
現れたその黒い物体の内部にある機関が目覚める。ディーゼルエンジンの排煙を後部付近から吐き出し、ゆっくりと動き出す。
潜水艦であった。セイル側面にはイ520の文字があり、それが帝国海軍の潜水艦であることが分かる。
伊号510型……帝国海軍の通常動力型潜水艦として建造され、数の上では伊号600型に次ぐ建造数を誇る。
かつては主力潜水艦として広大な勢力圏を持つ帝国の海を守っていたが、現在では専ら日本近海での哨戒任務を主に担う。
かつて、この伊520はパラオを根拠地として活動していた。パラオが完全独立を果たした際も留まり続け、帝国海軍の艦として最後に日本本土に向けて旅立った過去がある。
「水上目標探知、海防艦16号です」
暗闇に浮かぶ艦影……伊520と並走する小柄な艦に見張員達が目を向ける。
「16号より入電、速やかに移送作業を開始せよ」
目に見えて速力を落とした海防艦16号、それに合わせて伊520も減速し、やがて両艦とも完全に停止した。
「よし、積み荷を」
伊520の艦長が指示を出すと、乗員達が人の背丈程もある緑色の袋を担ぎ上げ、ゴムボートに積み込んだ。その袋はまるで生き物のように蠢く……
「貴様! おとなしくせんか!」
この艦上に場違いなスーツ姿の男が、袋に一発蹴りを入れた。
「行くぞ」
数人の男がゴムボートに乗り込み、海防艦16号に向かう。
「16号より入電! ロシア海軍のソヴレメンヌイ級が接近中! 積み荷の収容を急げ」
ゴムボートの上の男達は、急速潜航に転じる伊520を敬礼で見送り、彼らもまた先を急いだ。
「ロシア艦との距離、9千!」
海防艦16号の狭い艦橋に報告の声が響き渡る。
「積み荷の収容完了まで30秒です。離脱の準備を」
艦長は窓から収容作業を見守る……甲板の乗組員達は彼の期待通り、あっという間にゴムボートの収容を完了した。
「最大戦速にて離脱する」
「最大戦速!」
高鳴るガスタービンの鼓動、沿岸警備や領海侵犯船舶に対抗するために高出力の機関を備えた海防艦は、即座に加速を始める。
艦橋に設置された計器の針は瞬く間に30ノットを超えた。
「ぐっ……!」
スーツ姿の男達は甲板上で急激な加速に、倒れそうになるところを踏ん張り、手摺に捕まることで堪える。
「面舵一杯」
「面舵一杯、ヨーソロー」
舵の反応は良好、高い機動性を誇る海防艦だからこそ、最小の旋回半径で接近するロシア艦に背を向けた。
「ロシア艦、遠ざかります! 距離1万5千」
ロシア艦は追尾する気配すら見せない。転移以降この微妙な海域での、こうした光景は日常茶飯事であるためだ。
一部戦力しかないロシア海軍に対して、圧倒的な戦力を誇る帝国海軍に喧嘩を売ることは得策ではない。後で日本政府に軽く抗議をするのみであった。
「積み荷を機関科倉庫に運べ」
数人の水兵が袋を担ぎ上げ、艦内に運び込んだ。
機関科倉庫に集まった男達は床に置かれた袋に近付き、それを開封する。
「確かにロシア人のような風貌だな。だが、肝心のロシア語を話すことができない。あんたはあの国のスパイなんだろう?」
袋の中にあって、口を塞がれた外国人がスーツ姿の男達を睨む。
「タリアニアでもバルアス共和国でもない」
そう言って口を塞ぐテープを引き剥がす。
「レスタニア王国……だったかな?」
外国人の瞳が大きく見開かれた。そしてそれが事実であることを認めることになる。
「帝国の情報網を甘く見てもらっては困るな。気付かれないとでも思ったか?」
その言葉を聞いた外国人……レスタニア王国のスパイは次の瞬間には歪んだ笑みを浮かべていた。
「何がおかしい!」
「これで終わったと思うなよ? この星の全ては王国のためにある。バルアスもニホンも、偉大なる王国の一部なのだからな」
レスタニア人の男の言葉を誰もが黙って聞く。だがその表情には一切の戸惑いも見られなかった。
「我が帝国は……どんなことがあろうと独立国だ。どんな国の支配下にも入らない。強大な敵が現れようとな」
スーツ姿の男は冷めた目でレスタニア人を見つめる。
「既にタリアニアには仲間が複数潜入している。ニホンの動きは王国に筒抜けさ」
それを聞いた男達はニヤリと笑った。
「どうしたんだ? 諦めがついたのか?」
「諦めだと? 笑わせるな、あんたの仲間は今頃捕まってるだろうよ」
タリアニア某所
薄暗い部屋の中、それほど広いとは感じられない空間に、椅子が一つ置かれていた。そしてその椅子にはスキンヘッドの大柄な男が縛りつけられ、力なく項垂れている。
「もう一度聞こう、仲間はあと何人いる」
左腕に憲兵の腕章を付けた男が静かに問い掛けた。だが、スキンヘッドの男から答えは返ってこない。
「ちっ、寝てるのか。こいつを起こせ!」
そう言うと、部下がたっぷり水の入ったバケツを持って駆け寄ってくる。
「起きろ!」
バケツの水を全て浴びせて憲兵は怒鳴った。
「仲間の居場所を吐け」
憲兵は声を荒らげて問いただす。
「誰が教えるものか……ニホンはもう終わりだ。王国はお前らを打ち倒し、この世界に恒久の平和を作り出す」
スキンヘッドの男は自信に満ちた表情で語る。
「それは大層な夢物語ではないか。だが、1940年代レベルの軍しか持たない国がどう足掻いたところで皇国の安泰は揺るがぬ!」
憲兵の気迫に圧され、スキンヘッドの男は黙り込んだ。
「貴様の国の軍がどれ程の規模か言ってみろ。装備は全て前時代的、我が皇国の近代化された兵器の前では貴様らの軍など旧式兵器の集まりに過ぎん!」
さらに勢いを増す憲兵は男に足早に近寄ると、その顎を鷲掴みにし、上を向かせた。
「レスタニア王国だか何だか知らんがな、大日本帝国は、貴様らの国を簡単に捻り潰すことができる力を持っているのだ」
憲兵はそう言って男を突き放す。
「こいつを牢にぶち込んでおけ!」
「ダイニッポン帝国とやらは、余程の自信過剰らしい。王国の力の前に跪く日が来るというのに」
立ち止まってスキンヘッドの男の言葉を聞く憲兵の顔は、どこまでも無表情だった。
バルアス共和国西方3000km付近海域
帝国海軍潜水艦伊617、極限まで突き詰められたその静粛性は今現在の状況において、遺憾なく発揮されていた。
「国籍不明潜水艦、深度80m、速力9ノットで東に向かっています」
艦長は黙ってその報告を聞く。
接触は4時間前、哨戒任務に就いていた伊617は不審な潜水艦を発見する。当初は味方潜水艦ではないかと勘繰ってはみたものの、酷い騒音とその低速から国籍不明潜水艦とされ、追尾を始めて今に至る。
「ん? 艦長、排水音です。浮上する模様!」
「潜望鏡深度まで浮上する。どこの国の潜水艦か探る必要があるだろう」
艦長は言った。近頃よく耳にする、ある国の名前……レスタニア王国。その国の潜水艦である可能性が高い。
「バルアス共和国には潜水艦がない。潜水艦を保有しているのは、あの国しかない。何を企んでいる……」
艦長は識別表を広げて、それを凝視する。徹底した偵察によって、レスタニア王国の海軍力はほぼ丸裸同然の状態であった。
識別表にはあらゆる種類の軍艦の艦影が並ぶ……レスタニア王国の潜水艦は、砲を一門装備しており、帝国海軍から見ればかなりの旧式艦だ。
艦長は潜望鏡を覗き込み、艦影を確かめる。
「間違いないな、あれはレスタニア王国の潜水艦だ。しかし何の目的で」
「艦長、司令部に報告は」
近くにいた副長が艦長に声を掛ける。
「よし、司令部に報告せよ。内容はこうだ。不明潜水艦はレスタニア王国の潜水艦で間違いなし、指示を求む」
「了解!」
再び潜望鏡に向き直り、レスタニア王国の潜水艦を観察する。水中よりも水上で速力が出やすい形状、装備された砲は10~14cm。
「あんな旧式艦で何をしようと……通常動力艦なのに補給はどうするつもりだ? 大きさからして航続距離はそれほど長いとは思えん」
次々に頭に浮かぶ疑問を口に出す艦長。潜望鏡越しに見える潜水艦は伊617と比べてかなり小さい。伊617が水中排水量1万トン近い大型潜水艦であることを除いても、目の前の潜水艦は小さかった。
「付近に補給艦でもいるのか?」
「司令部より返信! そのまま追尾を継続せよ。以上!」
「バルアス共和国は遠い。この潜水艦では時間が掛かりすぎるな」
金髪の大柄な男が暗い海の向こうを見つめながら言った。
「艦長、やっぱり外の空気はいいですな」
副長が汚い歯並びを見せつけるかのように口を開き、笑みを浮かべる。
「ニホン海軍の戦力を調べると言っても……またすぐに補給に戻らねばならん。王国海軍司令部は何を考えているんだ。この世界に来た新しい国なんぞ、こっちは興味ないというのに」
「では艦長、バルアス共和国に補給を頼むというのは?」
副長は再び笑みを浮かべて艦長に言った。
「そんな簡単にいくと思うか? バルアス共和国はニホンとの戦争でかなりの痛手を負っていると聞いた。そんな余裕はないと思うがね」
艦長は双眼鏡を覗きながら語る。
「ニホンって国はそんなに強い国ということですか? バルアス共和国といったらそこそこ軍事力のある国だと思っていたんですが」
「さぁな、王国が圧倒的だと司令部の連中は言ってたが……信用できん。まだこの目で見たことがない、よってすぐには判断できないが、バルアス以上の力を持っているかもしれん」
「しかし我が王国はバルアスよりも強大な軍を持っています。もっとも、バルアス側は我々と同等だと思っているようですが」
副長は王国の軍事力に絶対の自信を持っているようだ。
「相手を侮ってはいかんぞ? 下手をすれば王国もバルアスと同じ道を辿る可能性がある……さて、空気の入れ換えも終わったかな? そろそろ潜るとしようか」
彼らはこの時、水中から監視されていることに全く気付いていなかった。だがそれで彼らを責めることはできないだろう……水中に潜む恐ろしき追跡者は、とてつもなく獰猛であると同時に、信じられない程静かだから。
「レスタニア潜水艦、再び潜航。針路変わらず」
「それにしても騒がしい、どれだけ時代遅れの代物なんだ」
「所詮は旧式、俺達の敵ではないな」
伊617の艦内では、乗組員がレスタニア潜水艦の騒がしさに驚いていた。なんせ数年ぶりに潜水艦を追いかけているのだ、乗組員達の士気は高まるばかりである。
「その辺にしておけ、潜水艦乗りが騒いでどうする。久し振りの潜水艦相手に気分が高揚するのは分かるが、今は何をすべきか弁えてくれ」
副長の言葉で艦内は一気に静まり返る。その光景を見た艦長はニヤリと笑った。