第五十六話
大変遅くなり申し訳ありません。
5月11日 7時10分
ブレミアノ郊外 共和国陸軍司令部壕
電球の灯りに照らされた狭い部屋の中、リョセフは椅子に腰掛けて1枚の写真を眺めていた。
立派な軍馬に跨がる若き日の父親の写真だ。
「これで全てが変わる……!」
時折襲ってくる地面を揺るがす震動によって、吊り下げられた電球は揺れ、天井から砂埃が舞い落ちる。それがニホン軍の攻撃によるものだということを誰もが知っていた。
30分前、ニホン軍の砲兵による砲撃が再開され、強固に構築されたトーチカや塹壕陣地を破壊し、そこにいた兵士を次々に無力化していく。そんな中、師団長のネイド中将が戦死した。至近に着弾した砲弾は、彼に痛みを感じさせることなく死に至らしめたのであろう。
「王国の運命が変わる、そして共和国の未来も」
そう言ってリョセフは立ち上がる。
「ニホンよ、お前達が最後の相手で良かった。最早何も未練はない。存分に戦おうではないか!」
傍らに置かれた拳銃とサーベルを手に取り、リョセフは外に向かう。その軍服に縫い付けられた階級章は外され、彼の階級は傍目から見れば判然としない。しかし第26師団の将兵達は彼の顔を見るだけで、それが参謀の男であることを認識する。
「参謀殿、ここはもうだめです。後退を!」
「その必要はない。これで最後なのだからな」
そう言ってきた将校の言葉を一蹴し、リョセフは司令部の外へ出た。
「リョセフ閣下!」
副官のノリス中佐が駆け寄ってくる。
「ニホン軍の攻勢は激しさを増しています。今が頃合いかと……」
「うむ」
ノリス中佐の言葉を聞いたリョセフは、電信隊の天幕へと歩みを進め、その中へ足を踏み入れた。
「少し借りるぞ」
直立不動で敬礼をする通信兵にそう言うと、電文を総司令部に送るために準備を始める。
バリエラ南東海域
共和国海軍駆逐艦ヘナン
「閣下。あと二時間もすれば、速力5ノット程で航行可能かと」
「煙突の排煙は上手くいきそうか?」
ゲイル大将は報告に来た部下に聞く。
「は、ですがボイラーの蒸気圧が上がらないため、速力は期待できないでしょう。それに必要な蒸気圧を得られたとしても、左舷側タービンの不具合が直らなければ速力を上げることはできません」
「そうか、仕方あるまい。通信設備が復旧後、直ちに北部艦隊全艦に救援要請を送れ。本国の奴らが来てしまう前に」
ゲイルは落ち着いた表情で言うが、その心の内は穏やかではなかった。救援要請をしたところで間に合わないことは理解している。彼らの運命は、ニホン海軍に拿捕されるか共和国海軍上層部によって拘束されるかの、どちらかであることをゲイルは悟っていた。
「ゲイル閣下、どうかされましたか?」
その心中を知ってか知らずか、彼を気遣う言葉をかける部下に、大丈夫とだけ言い残し、一人司令官室に戻るゲイル。
「こちらを追跡する船があった。あれは北部艦隊の船ではない。気付いてないとでも思っていたのか?」
レスターの追跡を開始した頃、静かにこちらを追跡する船……まるで存在そのものを消しているかのような。
「次に見たときは消えていた。あれはいったい……」
今まで見たどんな船よりも異質な存在。
「レーダーは正常、目視でも」
「閣下、どうされたのですか? まるで幽霊船でも見たような顔をされていますよ」
考え込むゲイルの横に立つ男が言った。
「艦長か、すまんな」
「いえいえ、幽霊船といえばロベイル海の伝承ですが……」
「うむ。300年前、950人の乗組員と共に忽然と姿を消した戦列艦モッドーネ号か」
ゲイルはかつてのレデロン王国、王立艦隊に属した戦列艦の名を口にする。
「出港以来見たものはいない……らしいですが、嵐の中で古めかしい帆船を見たという声が時々上がる。静かな夜、凪いだ無風の海面を進む帆船を見たという声も聞きます」
「海の男の間では不幸の象徴とも、海の守り神とも言われる。海軍内では既に沈んだものとされ除籍されてはいるが、今でも何処かの海を航行している噂されているな」
「はい。沈没したという証拠は何も見つかっていません。年月が経つにつれ、幽霊船に仕立てあげられたという訳です」
「しかし、こんな明るい時間に姿を見せるようなものではあるまい」
ゲイルは海を眺めながら言った。
「それより、タレスの連中がこちらの動向を探っていたのではないか? 我々を捕らえるために艦隊を寄越してくるぞ」
「はぁ、レーダーが故障しているために目視に頼らなければなりません。当海域にはこのヘナンとレスター、そしてニホン海軍の艦隊だけかと」
「そうだといいんだが……」
艦長の言葉は、ゲイルの感じていた不安を払拭するものにはならない。今も正体不明な敵に監視されているのだと思えば、落ち着くこともできなかった。
巡洋艦レスターは、ニホン海軍の軍艦キイと合流すべく海上を突き進んでいた。キイの上部構造物を肉眼で視認できる程の距離に近付いている。
「巨大な船だ」
傍らで誰かが呟く声をメイヤー大尉は聞いた気がした。そしてメイヤー自信も徐々に明らかになるキイの威容を黙って見つめる。水平線からキイの全容が姿を現すのにそれほど時間は必要ではなかった。
共和国は巡洋艦戦力を主力とみなし、それらを諸外国への威圧に用いる。実際、過去の統一戦争においてレデロン王国以外の二国をねじ伏せたのは巡洋艦だった。二度の海戦に勝利し、敵艦隊を壊滅させた共和国は沖合に多数の巡洋艦を並べ、その全ての砲門を国家元首の居座る居城に向けたうえでの交渉は見事に成功する。
だが、彼らの前にその全容を明らかにした巨艦は、共和国の常識を打ち砕くには十分すぎる破壊力を持っていた。全身を暗い灰色に塗装し、一見スマートなその横幅はそれでもレスターの倍以上ある。そして何より見たこともない巨砲……あれが一度火を吹けば、地上は無惨に掘り返され、海を行く軍艦は一発で深刻なダメージを負うだろう。それくらいのことは容易に想像できた。
「なんて大きさだ。あれが噂に聞く10万トンクラスの巨艦か」
ヤマトを凌駕する巨艦であることはメイヤーの目から見ても明らかであった。洋上に浮かぶ鋼鉄の要塞は先程よりもレスターとの距離を縮める。目測で2kmといったところか。
「レッゲルス閣下」
「うむ、なんという威圧感。我が国の砲艦外交というものが根底から覆される……これが現実だ」
レッゲルスはレスターの10倍の排水量を誇るニホンの巨艦を見た。重厚な存在感と威圧的な雰囲気を醸し出すキイを見ても、彼は冷静だ。
「キイより入電! これは」
「見せてみろ」
メイヤーは通信兵が持ってきた電文を受け取り、内容に目を通す。
「ニホンの勢力圏に向かうことになりそうです。閣下、よろしいのでしょうか?」
「最初からそのつもりだったがな」
「マーカル諸島……カール大陸東方に位置する島です。ニホンが制空権と制海権を保持する完全な敵地ですよ」
「ニホンは何と言ってきてるのだ?」
「貴国交渉団の受け入れはマーカル諸島にて行う。と言ってきております」
「ならば、理由を聞いておかねば」
レッゲルスは通信兵に返信を促すと、通信兵は駆け足で艦橋から出ていった。
「ニホンの勢力圏に向かうことに抵抗はないが、ここで出来ない理由でもあるのか」
「キイより返信! 当海域は危険である。貴艦と交渉団の安全確保が第一であり、受け入れは帝国の根拠地で行うことが妥当と判断された。これは本艦の意思に非ず、GF長官ならびに帝国外務省の意思である」
戻ってきた通信兵の報告を聞く。
「なるほどな。ニホン側もこちらとの交渉には賛成ということか。共和国臨時政府の外交担当として向かうとしよう」
レッゲルスは誰にも聞き取れない声で呟いた。「これよりマーカル諸島に向かう! キイ後方2000につけ!」
艦長の声だけが艦橋内に響く。
「これでよし」
リョセフは陸軍総司令部と政府組織に向けて電文を発した。
「30年続いた一国による大陸支配はこれで終わりを迎える。あとは……頼んだぞ」
リョセフが振り返った先、若い通信兵が彼を黙って見ている。
「感謝する。任務に戻れ」
そう言うと通信兵は敬礼をしてリョセフの前から姿を消した。
「閣下、終わりましたか?」
ノリス中佐が声を掛ける。
「よし、行こうか」
20時15分
「防衛線が次々に破られている。このままでは」
フレルは最早手が届きそうなくらいに近付いてきたニホン軍の軍勢を見て呟く。昼間、ニホン軍は勢いそのままに味方を飲み込んでいくかと思われたが、その攻勢は数時間に渡り一時的にストップしていた。しかし辺りを暗闇が覆い始めると状況は一変、再び進軍を開始したのだ。
「早く逃げてしまえばいいんだ」
近くに立っていたレオンが言う。
「お前ら、覚悟しろ。いよいよ総力を結集してニホン軍に対する反撃を行うことが決まった!」
声のした方を見ると、ジェイス軍曹が腕を組んで立っていた。
「リョセフ閣下自らが参加される。まさしく総反撃だ」
ジェイスは険しい表情で、二人にとっては死刑宣告ともとれる命令が下ったことを伝える。
「そ、それでは自殺をしろと言っているようなものです! 戦うことに拘らずとも、別の道が……」
フレルは愕然とした表情を浮かべながらジェイスに詰め寄る。ジェイスはそれを黙って見つめる。
「そうではないのですか? 軍曹、撤退なり降伏するなり方法はあります。無理に戦闘に参加する必要はないではありませんか!」
「できるものならそうしたい。だが、命令は絶対なんだ。覚悟を決めろ」
ジェイスはフレルと同じように立ち尽くす小隊の面々の前に立つ。
「武器をとれ」
別の部隊がニホン軍目指して駆け足で森の中に入っていく。暫くすると上空には照明弾が打ち上げられ、辺りを照らし出す。直後、複数の発砲音と共に砲弾の飛翔する音が響く。
「俺達も行くぞ!」
軍曹の声を聞き、もう流れに身を任せることしかできないフレルは小銃を手に取る。ふと視線を転じた先、この場所には不釣り合いな人物の顔を見出だす。
「あれはリョセフ参謀」
フレルの見たリョセフは、サーベルを手に持ち前線に向かうような雰囲気だ。
「参謀も参加するというのは本当か」
既に末端の兵ですら敗北を確信しているこの状況下で、あの参謀はまだ勝てると思っているのだろうか? 森の中に慎重に踏み込んでいくリョセフ参謀の後ろ姿を見てフレルは思った。
「頭を下げろ! すぐに見つかってしまうぞ!」
深い森に足を踏み入れた彼らに軍曹の怒号が飛ぶ。徐々に暗闇に順応してきたとはいえ、未だはっきりしない周囲の状況が不安を煽る。まだ手探りで足を進めるフレルの目に、唐突に光が飛び込んできた。
――ボンッ――
何かが爆発するような音……
「伏せろ!」
誰かが叫び地面に這いつくばった直後、フレルの頭上を弾丸が掠めた。
共和国陸軍総司令部
この時、司令部ではリョセフからの電文が届いたのを機に長時間に及ぶ会議が開かれていた。マーティン元帥の他、急遽出席することとなったアナト大佐、軍刑務所より出所したマルセス、そのた共和国三軍の主要メンバー達がここに集まっている。
「リョセフの言う機密書類であるが……奴は確実に処分したと」
「全てではなかろう。海軍のゲイル大将の件もある。奴の言うことを鵜呑みにするわけにはいかん」
「ゲイルはどうなった?」
「ゲイル大将が座乗する駆逐艦ヘナンですが、ニホン海軍の攻撃により大破しているようです。ですが、3時間前に北部艦隊の各艦に対し救援を求める旨の電文を発しています。まぁ北部艦隊は第34駆逐隊による厳重な監視下に置かれていますので動く心配は無いでしょう。ゲイル大将及びヘナン乗員らの拘束に向かっている巡洋艦クローフトは、まもなく到着する頃かと」
「ご苦労。ところで、我が国の領海内においてニホンの水中艦が目撃されている。接触については極力避けるよう願いたい」
マーティンが海軍関係者に対して言うと、彼らは心得たとばかりに頷く。
「リョセフが向かった戦線は絶望的なようだな。ブレミアノにニホン軍が足を踏み入れるのは時間の問題だ。アナト大佐……君は明日、ブレミアノに赴きニホン陸軍との交渉をやってもらいたい」
「しかし、まだあそこは戦闘が」
アナトは立ち上がって現地の危険度を訴えた。
「心配無用、戦闘は朝までに落ち着き、ニホン軍による掃討が実施されると思う。それまでになんとか停戦に持っていきたい」
「は、出来る限りのことはやりましょう」
「マルセス少佐、君もアナト大佐と共にブレミアノに向かってくれ」
「は。閣下、一つお聞きしたいことが」
「うむ」
「リョセフ閣下は死ぬつもりなのでしょうか?」
マルセスは自らの胸中に渦巻く疑問を口に出した。
「おそらく……そうだろう。あの男がそう望んだ以上は、我々に止める権利はない。国に反旗を翻したとはいえ軍人だからな。相応しい最期を迎えさせてやりたい」
「そうですか」
マルセスの声は静かな室内に響き渡る。
ダステリア・ブレミアノ領境付近
「安田! 気を付けろ、本気で倒しにやって来るぞ」
小隊長の山口少尉が注意を促す。それだけ敵の気迫が伝わってきたというのか、それとも自身の経験からなのか。そこまでは分からなかった。
だが、安田自身も感じる嫌な空気が、第1即応連隊の面々に緊張を強いる。暗視装置がなければ一切の暗闇に包まれているであろう森。夜戦を経験しているとはいえ、暗闇に対する警戒は本能的にしてしまう。
「了解」
短い返答、暗視装置を通じて見える仲間の姿を確認しつつ、音をたてないように、それでいて俊敏に移動する。その時、同じ小隊の仲間が手で合図を送ってきた。
敵兵4人……どうする?
『任せろ』
イヤホンを通じて響き渡る山口少尉の声を聞いた直後、消音器が装着された89式小銃の抑制された銃声が耳に入る。
『よし、進め。敵を浸透させるな』
闇に乗じてこちらの陣地に浸透しようとするバルアス軍を、第1即応連隊と第76歩兵師団の両部隊はよく受け止めていた。近代装備に身を固め、兵力でも優勢な帝国陸軍部隊がバルアス陸軍の反撃を完全に封じ込めているのだ。
そう遠くない場所で照明弾が打ち上げられ、周囲を照らし出す。
「あれは、敵の照明弾か」
暗視装置を取り外しつつ、その方角に目を向ける安田。聞こえてくる銃声は味方のものだと分かった。
「敵は居場所を自ら露見させてしまったようだな」
『気を付けろ、近くにいる』
距離にして100m……見える範囲に6人程の敵兵が立っているのが見える。気付かれないように投擲された手榴弾が敵兵の近くで炸裂し、それが合図であるかのように響く銃声。
「倒したか……いや!」
敵を無力化したかと思ったがそうではないらしい。すぐに立ち上がって後退していく敵兵の背中に狙いを定めるも、それを撃つことはしなかった。
「無防備な背中を……二度と戻ってくるなよ」
安田は小さく呟く。
「はぁ……はぁ、ここまでか」
帝国陸軍第1即応連隊の比較的近くで倒れ伏す男がいた。軍服の腹の部分は赤く染まり、銃弾を受けた右足は最早立つことすら出来ない重症。
「もう思い残すことはないな、はは」
そう言って彼は横を見た。そこには頭を撃ち抜かれ、息絶えた副官のノリス中佐の姿。
「よくここまで来てくれた。感謝する」
ノリス中佐の骸に感謝の意を伝えるリョセフの耳に、複数の足音が聞こえてきた。
「……敵か、味方か、これは死神の足音なのか?」
「閣下! リョセフ閣下!」
近付いてきたのはどうやら一等兵のようだ。
「ひどい怪我ではありませんか! 早く衛生兵を」
若い一等兵は自分を助けようと必死になっている。数え切れない程の若者を死に追いやった自分を……
「私は助からん。早く行け」
「し、しかし」
「王国を……王国の独立を!」
「閣下!? 」
「レデロン王国の民の手で、王国の復活を……た、頼む、生き延びて祖国に帰れ」
リョセフは息も絶え絶えに絞り出す。眼前の一等兵はそれを呆然とした表情で聞いていたが、小さく頷いたあとその場を走り去った。
「ど、どうやら最期の時が来たらしい……」
薄れ行く意識の中で、脳裏には独立を果たした祖国の情景が浮かんでいる。
「は……ははは」
その情景を見てリョセフは笑みを浮かべ、そして二度と目を開けることはなかった。