第四十九話
5月6日 10時05分
バルアス共和国北部レデロン地方
レデロン飛行場
南部がニホンとの戦争に巻き込まれ大忙しなのに対し、ここ北部は未だ平和な状況を保っていた。
レデロン地方には標高5320mを誇るバルアス最高峰のトルニカ山が聳え、バルアス共和国に併合される以前の多くの歴史的建造物はここレデロンの過去を物語っている。
30年前……突如として周辺国への侵攻を開始した軍事大国バルアス共和国。人口はレデロン王国の6倍。軍事力で圧倒的に不利なレデロンは、開戦当初バルアスに対して多大な出血を強いることに成功する。だがバルアスがその他の小国を併合した後に戦力の過半をレデロンに向けると状況は一変する。
辛うじて維持していた防衛線は悉く崩壊、海では自軍の数倍の戦力を前にして艦隊は壊滅、空の戦いではバルアスの新鋭機の前にほぼ全ての稼働機を喪失する事態となった。
窮地に追い込まれた当時の政府はバルアス共和国に降伏することを決断、併合されバルアス共和国の一地方として現在に至っている。
「皮肉なものだな。今、共和国は窮地に追い込まれ滅びが目前に迫っている」
リョセフは輸送機の窓から見えるレデロン地方を眺めながら呟く。
「閣下、まもなく着陸いたします」
「うむ」
輸送機はレデロン飛行場の滑走路に滑り込む。2基のレシプロエンジンは徐々にその回転数を落とし、やがて完全に停止した。
「里帰りは10年ぶりか。何も変わっとらんな」
輸送機から降り立ったリョセフは感慨深げに言った。新調された灰色の軍服には真新しい中将の階級章が輝きを放っており、彼が最近昇進したことを示していた。
「お前たちは飛行場の兵舎で休むがよい。ここからは私一人で行動する」
付き従っていた側近にそう言い放つと一人歩き始める。
飛行場の敷地を出ると白い車が目に入る。農業に従事する者が愛用する、汎用性が高く、それも廉価で入手できる小型車だった。
「まだあの車に乗っていたか。物持ちがいいのかケチなのか」
リョセフは10年ぶりに見る実家の車を見て苦笑いした。
「父さん!」
声のした方を見るとそこには一人の女が立っていた。特徴的な赤毛、茶色がかった瞳、それらはレデロン地方に多い人種の特徴であった。
「メイリーか。見ない間に大きくなったな」
実家に残してきた娘を見て彼は率直な感想を述べた。
「もう! 久しぶりに会うのに言うことはそれだけ?」
「すまんすまん。お前も20歳か、彼氏の一人や二人できたんか?」
「余計なお世話! 早く乗って。おばあちゃん待ってるから」
「はっはっはっ! そう怒るなよ」
リョセフが乗り込むと車はすぐに動き出した。
「婆さんは元気か?」
「うーん、まぁ元気かな。最近食べる量減ってきたけど」
「そうか。元気そうで何よりだ」
「ねぇ父さん、戦争ってどうなってるの?」
車は飛行場から離れ、山道を走る。
「戦争か、お前たちは気にしなくてもいい。戦争は軍人に任せておけ」
「まぁいいけど。いつまでいるの?」
「明日の朝には戻らねばならん」
「そっか……」
リョセフは横目で娘を見た。その顔はどこか寂しげである。
「お前が10歳になるまではタレスに住んでいたよな。どうだ、戻りたいと思うか?」
「嫌だなぁ。あそこの人達なんか雰囲気嫌なんだ」
「妻と離婚したのはそんな理由だったかな。あいつどうしてるんだ」
「お母さんたまに見るよ。他の男連れてるとこ」
「そりゃそうだろうな。再婚していてもおかしくない」
いつの間にか道の両脇には大草原が広がり、道も狭い一本道がひたすら続いてるように見える。リョセフはその風景を静かに眺める。
「父さん。何見てるの?」
「変わってないな。俺が士官学校に入校したとき、この道を一人で飛行場まで歩いたことを思い出した」
リョセフは外を見ながら言った。
「ふーん。さ、着いたよ」
「あぁ」
リョセフは車から降りると自らの生家を見やる。広大な敷地にポツンと建つ2階建ての屋敷。彼の幼少期にはその3倍はあろうかという巨大な屋敷が建っていた。そう、降伏してバルアスに併合されるまでは。
彼の家は古くから軍人の家系であり、かつては王室お抱えの近衛騎士団団長を任された者もいた。
「何? 久しぶりに帰ってきて感動した?」
今やこの家には母と娘を残すのみ。
「すまんな。つい昔を思い出してな」
リョセフは歩き始める。
彼は屋敷の中へ入ると2階へ足を進めた。とある部屋の前で立ち止まると、ドアをノックする。
「おや、メイリーかい?」
「母上、私です。今戻って参りました」
「リョセフね……お入り」
「失礼します」
ドアを開けて中に入るリョセフ。薄暗い部屋、第一印象はそんな感じか……しかしそう思ったのは初めてではなかった。
「相変わらず、暗くしているのですね」
そう言って室内を見回す。壁や机の上には若い男の写真、若い男女の写真が飾られている。もちろん自分のものではなかった。
写真の男はいずれも軍服姿であり、それがバルアス共和国の軍服ではないことは明らかであった。リョセフが幼少期に見た父の姿がそこに存在した。
「懐かしいものです。あの日のことが昨日のことのように感じられる」
「その話は無しだよ。久しぶりに帰ってきたんだから何も考えず、ゆっくりしていきなさい」
ベッドから起き上がった老婆は優しい口調でリョセフに言う。彼の母親である。
「母上……」
「言わなくとも分かる。それ以上は言わんでおくれ」
「はい。では父のところへ行ってきます」
屋敷の裏手から歩いて20分程、そこに父の墓はあった。
「王国暦627年収穫の月10日、ダニエレ・ド・リョセフ大佐、獄中に死す……」
リョセフは墓石に刻まれた文字を読む。バルアス共和国の暦に改められる以前、まだ王国暦が使用されていた時期の墓であることが分かる。戦後、彼の父は共和国憲兵隊に拘束された。理由は戦中に得た捕虜に対する虐殺及び拷問命令容疑。だがそんな事実はどこにも存在しなかった。当時のバルアス共和国は戦犯を裁くために様々な『事実』を捏造した。
リョセフ自身がそれを知ったのは父が死亡してからずっと後になってからだ。
「父上、これで良かったのでしょうか。バルアス共和国は今やこの惨状……最初は私の第二の祖国として、忠誠を誓っておりましたが。この戦争は共和国に対する復讐の機会には最適なのです。あなたの無念を晴らすための復讐だ」
軍事裁判において出た判決は死刑……だが父は共和国に殺されるくらいならと、自ら死を選んだ。
「あのときニホンが……もっと早くニホンが現れてくれれば……いや、今さらそんなことを言ってもな」
腰に下げたサーベルを取り外し、父の墓標の前に置いた。
「これは最早必要のない物です。あなたにお預けします。私は、戦友と共に戦い、そちらへ行くつもりでおります」
彼は墓の前で一礼するとその場を立ち去った。
屋敷に戻ると母が待っていた。息子の決意に気付いているのだろうか。
「母上、私の恩給は全てこちらの銀行の口座に移しております。やがてこの戦争も終わる……金はあなたと娘に残します。どうか有効に使ってもらいたい」
「まったく、親不孝な息子だわい」
「もうこの地には戻ってこれぬものと確信しております。戦争が終わったら娘の結婚相手を探してほしい、相手は軍人以外がいいだろうな……」
「ふん、何から何まで押し付けよって。まぁいいじゃろう。心配するでない」
「私が死んだら悪役になるのか。だがこれも父のためだ。共和国に多大な出血を強いて、国力を低下させ、併合された地方を独立させる。どんな結果が待ち受けているか分からんが、共和国は確実に衰退する。そう信じられる何かがある」
「ニホンとの戦争が、あんたを変えたのかい? 昔はそんなこと考えてもいなかったろう」
「最初は本気で勝てると思っていた。海軍が負けて上陸作戦が失敗してから危機感を感じるようになって、逆に本土に上陸されたとき敗北を確信した。だが私は最初の姿勢を崩すようなことはできなかった! そしてある時から共和国への復讐の機会が来たことを感じた」
リョセフは立ち上がった。
「深夜に発ちたい。娘に気付かれるわけにはいかんからな……」
そう言って彼は少年時代を過ごした自室に入る。束の間の休息をとるために。
15時40分
大日本帝国
岡山県某所
岡崎太一は胸まで水に浸かりながら歩いていた。
川の水は程よく冷たい。行軍・野戦演習……陸軍の主要な演習のひとつで、演習場までは小隊、もしくは班単位で移動し、防御側と戦闘演習を行う。もちろんどれ程の戦力が待ち受けているかなど知らされていない。
深い中国山地の森が周囲に広がっている。岡崎は立ち止まって山を見上げた……そして崖際を走る国道に目をやると、セーラー服を着た女学生の集団が目に入った。
「おっ、女学生……!」
すると向こうも岡崎達に気付いたのかこちらに笑顔を向けてきた。
「あ! 兵隊さんがいるよ」
女学生達は岡崎達に手を振る。
「平和だ……」
「貴様何をしておるかぁ!」
戦闘帽越しに伝わる軍曹の拳は鋼鉄のようであった。
「も、申し訳ありません軍曹殿!」
「グズグズするな! 行くぞ」
しばらく川の中を進んでいた一行は山の中へと踏み込んでいく。出発から既に9時間、肩に食い込む背嚢の重みが大きな負担に感じられる。手に持った小銃を何度も落としそうになりながら岡崎は歩いた。
「ようし、小休止5分!」
軍曹が叫ぶと同時に地面に座り込む。昨日雨が降ったせいだろうか、座った瞬間に水が染み込んでくるのを感じる。
「まぁいいか。どうせ濡れとるし」
そう言って水筒の水を飲む。眼下には山間を縫うようにして敷かれた国鉄伯備線の線路が見え、線路上を走る特別急行やくもがジョイント音を響かせながら遠ざかっていく。
「あれはどっちに向かってるんか……米子か? 岡山か? 相変わらず方向音痴だな」
「予備役の間に随分と娑婆の垢が付いてしまったようだな」
隣を見ると軍曹が同じように眼下を見下ろしながら立っていた。
「まぁ、この国が平和な証拠だな」
「軍曹殿!」
「戦争が終われば日常生活に戻れる。だが、今は兵士であることを忘れるな」
「はい!」
「どうだ? 今は戦時だが、学校で授業が行われ、列車はいつも通りに走り、国民の大部分が平時と変わらぬ日常を送っている。それが当たり前だと思うかもしれんが、凄いことなんだ。おっ、そろそろ終わりだな。よし、出発だ!」
彼らは立ち上がると、演習場を目指して再び歩き始めた。
5月7日 2時05分
バルアス共和国
レデロン地方
リョセフ家
既に誰もが寝静まった頃、リョセフはベッドから起き上がった。
「そろそろ出るか」
素早く軍服を纏い、静かに部屋を出る。そして娘の部屋の前まで来て立ち止まる。
「寝ててくれよ」
そっとドアを開けて中に入る。娘は深い眠りについてるようだ。
「許せメイリー。私はもう行かねばならん……お前は幸せになれよ」
リョセフはポケットからペンダントを取り出すと娘の枕元に置いた。
「俺の形見だ。取っておけ」
彼はしばし娘の寝顔を見てからゆっくりと出ていった。
屋敷の門を出てまっすぐな道を一人歩くリョセフ。
「ははっ、士官学校へ入校したときもこうやって歩いたな。あぁ栄光の我が陸軍……!」
歩きながら軍歌を口ずさむ。
「敵を打ち砕き~~……我に屈せよ 正義は我にあり……」
彼は月明かりの下を飽きることなく歌い歩いた。最後に歩くこの道を記憶に刻み付けながら。