第三十話
9月16日 19時43分
大日本帝国
神奈川県横浜市
小雨が降りしきるなか、一人の男がある場所を目指して街灯に照らされた道を足早に歩いていく。途中立ち止まり手元の携帯電話を確認すると再び歩き出す男……その向かう先に一つの看板が見えてきた。日本料理『山河亭』という看板だった。
その門をくぐり、入口へ向かう彼の前に大柄な男が立ちはだかった。
「合言葉を言え」
何も知らない者が聞けば震え上がりそうなほど低く、恐怖を感じさせる声。しかし、今しがた到着した彼は臆することなく答えた。
「ベルリンは晴天なり」
しばし流れる沈黙の空気……大柄な男が口を開いた。
「入れ」
そう言うと背を向けて入口へ歩き出す大柄な男。
「あんたが最後だ。中では皆、首を長くして待っておるぞ」
「お待たせして申し訳ない。見張りの方は頼みましたよ?」
「言われずとも分かっておるわ」
大柄な男は拳を握り彼の前に突き出す。
「それは心強い」
そう言って彼は店内に入っていく。指定された二階の一番奥の部屋。その前まで来て立ち止まり、そしてノックをしようとした矢先……
「入りたまえ」
おそらく見張りの男が到着の連絡をしたのだろう。
「失礼します」
扉を開けると、座敷に座りテーブルを囲む三人の男がいた。それは一般人の会食と言うにはあまりにも異質で、少なくともそこにいる男達が普通の人間ではないことが嫌でも伝わってくる。
「紹介するよ。陸軍大佐の牧山 達夫くんだ」
「どうも、牧山です」
「そこに座ってくれ。さぁ、牧山くんも来たことだ。我々も自己紹介といきましょう。まず私から、元陸軍中将、源 耕一郎です」
「陸軍大将の矢沢 要一だ。言わなくとも知っておるだろうがな」
「海軍少将の高岡 誠司です。統合司令部海軍部の参謀をやっております」
「ここに今、源会の重鎮が集まったわけです。まずは乾杯といきませんかな?」
源はテーブルの上に置いてあった酒を手に取ると、上に掲げた。集まった男達もそれに同調する。
「皇国の未来に!」
一杯目を一気に飲み干す四人の男達……
「源よ、貴様にしては洒落たことを言うではないか」
「矢沢、それが士官学校同期へ対して言うことか?」
「ふっ、まぁ昔はそんな奴ではなかったからな。貴様も変わったよ」
「懐かしいもんだ。牧山くん、例の資料は手に入れたか?」
「もちろん。写すのも持ってくるのも大変でしたよ」
そう言って彼が取り出したのは、まだ公表されていない作戦計画であった。統合司令部陸軍部の作戦部に属する牧山だからこそ入手できたものだ。もちろん、持出厳禁であるためその写しである。
「陸軍さんの作戦計画ですか」
高岡は懐から眼鏡を取り出しそれを眺める。
「しかし源、大帝国……いや、新大日本帝国共栄圏とは大袈裟ではないか? 皇国が安泰ならばバルアス共和国を屈服させる必要はあるまい」
矢沢は幾分戸惑いながら源に語りかける。
「矢沢、これはあちらさんが売ってきた喧嘩だ。相手が降参しない限り、我々の計画は止まらん」
「だがな源よ、そのために陸軍の大兵力を偽りの作戦に投入できると思うか? 下手をすれば一生を牢獄で過ごすことになるぞ。協力者はかなり少数派だ。そもそも源会の当初の目的は退役軍人の民間への就職斡旋や一時保護だったではないか」
「最初はそうだったよ。だが近頃はなんだ? 大日本帝国の絶対的な安泰を望むようになってきたんだ。相手を屈服させなければ再び戦争が起きるだろう? 中途半端はだめだ」
「前にも言ったが私は賛成できん。悪いが降りるよ。昔のような源会ならいいが、私は軍人だ。命令あらばそれに従うのみ」
「それは残念だ。俺も考え直したほうが良いのか?」
「よく考えてみろ。貴様の計画で痛い目を見るのは軍人だぞ? 場合によっては非国民と呼ばれるかもしれん。それを気の毒だと思う気持ちがあるならば考え直してくれ。それに陛下は……」
彼らは一斉に立ち上がり姿勢を正す。
「陛下はそんなことは望んでおられない! 栄えある帝国軍の歴史に泥を塗ることになるぞ!?」
その言葉を聞いて男達は皆下を向き、何かを考えているようだ。大日本帝国の象徴にして代表、彼ら帝国軍人が守るべき絶対的な存在だ。それに背いたうえに大日本帝国軍の歴史に泥を塗ると言われれば誰だって押し黙ってしまう。
「矢沢、思い出したよ。陛下と国民を守るために軍人になったのだと……昔は嬉しかったもんだ。なんせ栄えある帝国陸軍の一員になれたのだからな。それが今では退役して悪巧みしかできないおっさんだ」
源は嘆くように言った。彼なりに思うところがあったのだろう。
「大事なことに気付いたようだな。退役していようが、軍人だったんだ。それを忘れるな」
「しかし源会はやめんぞ? まぁ我々の本来の取り組みをやろうと思っておる」
「ならば先日死んだ海軍の宮吉中佐のことを頼む。彼は一方的に悪者扱いされておる。同胞だった彼のことを思うなら……なんとかしてやってくれ」
矢沢は、トマホーク発射による反乱を起こしたと騒がれている宮吉中佐の名を出した。
「すぐにどうこうできる問題ではないが。できる限り努力しよう。いや、私が警察に出頭すればよいか」
「とにかく、我々の更迭は避けられんだろうな」
「いいや。貴様らは何もしとらん。責任は私が背負えばいいのだ。私もやっと正しき道理を思い出した」
そう言って彼は部屋から出ていく。
「源さん!」
牧山大佐が追いかけようとするが、源は手でそれを制した。
「巻き込んですまなかったな。君は正しき道を進め。私のような人間にはなるなよ?」
源は立ち尽くす牧山に背を向けると、暗い廊下の先に消えていった。その日の深夜、彼は警察に出頭した。源が消えた料亭の個室では残った三人がテーブルを囲み……
「矢沢大将、あなたがいなければ我々はとんでもないことに巻き込まれていました。源さんが説得に応じたのも、同期であるあなたの言葉があったからこそ」
高岡は矢沢に礼を言った。彼は最初から源を説得しようと考えていたのだ。
「礼には及ばんよ高岡少将。牧山大佐、君はどう思っていたんだ?」
「はっ! 私も源さんのやり方には疑問を感じておりました。未然に防げたのは幸いかと」
「奴も昔は志の高い男だった。よく陸軍大臣になるんだと言ってたもんだ」
「我々は全国の同志に連絡し、今後は戦死者遺族や宮吉中佐の遺族の援助を行おうと思っております。矢沢大将も軍務に励んでください」
「うむ。今日は飲もうではないか」
9月17日 10時32分
タリアニア
帝国陸軍情報部
安藤大佐は自らの机に向かい、内地の情報本部に提出する書類をまとめていた。そのなかにマルセス・ダレイシスについての情報も書かれ、彼に渡した情報や彼を脱出させたことも明記されていた。国のためとはいえ憲兵を騙したことには罪悪感がある。だがそれは紛れもない陸軍上層部からの指示でもあった。安藤はかつて上官から言われた言葉を思い出す。
「事情を知らない味方もいる。時に味方をも騙すのが諜報員の仕事だ。それによって被る不利益を恐れるな……か。まったく、よく言ったもんだ」
安藤は苦笑いを浮かべる。その言葉を思い出すとおかしくてたまらない。なんせ今の自分がそうだからだ。憲兵に拘束されても、自らの任を達成した今となってはどうでもいいことだ。あとはマルセスがバルアス共和国の上層部に情報を伝えてくれればいい。
彼は立ち上がると、情報部の建物を出る。衛兵の敬礼に対して答礼をし、彼は港を目指して歩き始めた。今日は内地へ向かう船便がある日だ。
バルアス共和国
首都タレス
大統領宮殿
会議場には既に軍関係者が多く集まり、会議の始まりを待ちわびていた。今日の会議は緊急のものであり、多くの者は急な呼び出しに戸惑いを隠せないといった感じだ。
「待たせてすまないな。今日集まってもらったのは情報部員が持ち帰った情報を諸君らに開示するためだ」
テルフェス・オルセン大統領は巨大な円卓の周囲を囲む関係者に向かい、静かだがはっきりとした口調で言い放つ。そして座っていた情報部のアナト大佐に目配せをした。
「陸軍情報部のアナト大佐です。先日、タリアニアより帰還したマルセス・ダレイシス少佐が持ち帰った情報についてお話ししたい」
「それはニホンについての情報かな?」
海軍のマーティン元帥だ。彼はバルデラ島南方で駆逐艦が撃沈されるという事態をかなり重く見ていた。乗員の話だと大型巡洋艦が悠々と海上を進んでいたらしい。
「その通りです元帥閣下。マルセス少佐の持ち帰った情報をこれから御覧頂きましょう」
アナトは傍らに控える部下に目配せをした。部下はやや厚めの資料を集まった関係者に配っていく。
「まずは一枚目を見ていただきたい。ニホン海軍が現在大陸周辺に派遣している艦隊の陣容です」
どこからともなく唸る声が聞こえてきた。
「アナト大佐。これは真実なのか? 戦闘艦艇100隻以上、航空母艦は4隻から6隻に増えるだと? それはどれ程の戦力なんだ?」
空軍の関係者が驚愕の表情を浮かべながらアナトに問いかける。
「戦闘機が500機近くあると想像していただければよいかと」
「なんだそれは。冗談にも程があるぞ?」
「嘘か本当か……それは御自身で判断してください。ニホンは強大な海軍力で大陸周辺の防備を強化しています。今後、我が共和国の作戦計画に大きな障害となるでしょう」
「戦闘艦艇100隻とは……ニホンの本土には艦艇が残ってるのか?」
「はい。ニホン本土には防衛には事欠かない数の艦艇が残っているようです。それに彼らの空軍の対艦攻撃力の高さも特筆すべき点でしょう」
「ここに書いてある、本土の航空戦力1800機というのは戦闘機だけの数か?」
空軍のレムルス少将が聞いてくる。
「そのようです。爆撃機や輸送機は含まれておりません。ニホン本土に近付いても空軍に叩かれるのが分かります。それに陸上発射式の対艦ミサイルを保有しており、射程は我々の海軍が使用しているものより長い」
「話を変えて申し訳ない。この……ニホン本土から我が共和国を射程に捉えているミサイルとはなんだ!?」
防衛大臣のダレン・ディビスだ。彼もまた驚きを隠せないようだ。
「我々はニホンに感謝すべきかもしれません。射程10000kmを超える大型ミサイルがあるようです。弾頭には一般的な炸薬と、核と呼ばれる想像を絶する破壊力を持つ弾頭があるようです。10ページを御覧ください」
「核が使用された場合、タレスを一撃で吹き飛ばすだと!? そんな馬鹿な話があるか! たかがミサイル一発でこのタレスが壊滅するわけがない!」
「皆落ち着け。気持ちは分かるが、これはあくまでも情報だ。嘘の情報によって我が共和国を混乱させる意図もあるかもしれん。だが最後まで聞こうではないか」
テルフェス・オルセン大統領は騒がしくなってきた会議場の面々に話を聞くよう促す。彼もその話は信じたくないようだった。
「申し訳ありません大統領。少し取り乱してしまいました」
「次にニホン陸軍ですが……どうやら本格的な動員を始めたようです。計画では50万人が動員され、総兵力180万人に達します」
「なっ、50万人というと共和国陸軍の総兵力に匹敵するぞ!?」
「仰る通りです大臣。それによって各師団の充足率はほぼ100となるようです」
「それもほとんどが機械化されていると……あの国は悪魔の国か?」
「あぁ。これが事実か、それとも嘘か……それは別にして我々はもう一度計画を見直すべきかもしれん。一度始めた戦争だ。そう簡単には終わらんし、今終わらせてしまえば共和国の威信は地に落ちるだろう」
「大統領の仰る通りだ。我々は今一度戦争計画を見直し、ニホンに対して徹底抗戦の意思を明確に示すのだ! 歴史ある共和国の鉄の意思を!」
ダレン・ディビスが立ち上がり高らかと宣言する。
「そうだ。このような情報で我々が怖じ気づくとでも思ったか!? ニホンは恐れる相手ではない!」
「うむ。負けていたのはニホンが強いのではなく、我々が備えていなかったからだ!」
「統一戦争以来の勝利を我が共和国に! 共和国万歳!」
彼らは立ち上がった。だが彼らは知らなかった……いや、情報なら今目の前にあるが、彼らは信じようとしない。
大日本帝国がバルアス共和国占領を前提に動き始めたことを。