番外編〜〜あるスパイの1日〜〜
ちょっと息抜きです。
7月15日
広島県呉市
長門ミュージアム
呉駅から海の方へ歩いていけば、嫌でも目に入る巨大な艦影。記念艦として呉にその巨体を落ち着けた長門は、今でもその威厳を保ち続けている。
バルアス共和国陸軍情報部に属するスパイ、マルセス・ダレイシスは、タリアニア経由で日本入国を果たしていた。
「この国は一体どうなっておる……」
マルセスはとてつもない存在感を放つ巨艦の前で呆然と立ち尽くす。
思えばニホンに来てから驚きの連続であった。
「超巨大建造物に道路網にシンカンセン……そして軍事力」
何かを思い出すように目を閉じる……
偽造の身分証がタリアニアで通用したことに安堵したマルセスは、ニホン行きの船便があると聞き港へと向かう。
タリアニアの街はタレスより遥かに都会であり、さらにそれがニホンの助力によって構築されたものだと聞いていた。
「大きい街だな。これが本当にニホンの力で……」
しばらく歩くと港に辿り着く。よく整備された港湾と多数の大型船が並ぶその光景は、タレスのそれより大規模なものだ。
「あの、ニホン行きの船はどこから?」
近くの男に尋ねる。
「それなら週に1往復あるよ。あと1時間後に出港だね。戦時だからって物騒な軍艦も一緒だよ」
「そうなのか? 今からでも乗れるだろうか」
「あぁ、それならあそこのチケット売り場へ行くといい」
「そりゃどうも」
男と別れたマルセスはチケット売り場へ行き、窓口の前に立つ。
「今日のニホン行きのチケットをくれ」
「お支払いはニホン円かタリアニアドルどちらで?」
「タリアニアドルで頼む」
「では125ドルです」
「なかなか高いな」
「1週間の航海中は食事も寝る場所も困ることはありません。そう考えればお安いですよ? あとパスポートはお持ちで?」
「パスポート?」
「ニホンに入国するにはパスポートが必要です。市民証明があればすぐ作れますが」
「ここにある。作ってくれ」
そう言って偽造した市民証明を差し出す。
「わかりました。しばらくお待ちください」
5分ほどで仮のパスポートが発行され、マルセスは巨大な貨客船に乗り込む。
「大きいな……これがニホンの船か」
全長300m、総トン数12万tの貨客船を見上げると、バルアス共和国のどの船よりも巨大であることがわかる。沖合いには護衛の艦船だろうか……駆逐艦らしき影が見える。
マルセスは船室へと入っていく。そこには既に多くの人が集まり、出港のときを待っていた。
「共用とは聞いていたが……これじゃ寝る場所を確保するだけで終わってしまうな」
ある程度は広さがあるものの、ただ絨毯を敷いただけの簡易な船室だ。この場の全員が寝れば、足の踏み場もないことは容易に想像できた。
「あの船旅は長かった……シンカンセンは速すぎた……」
ひとしきり回想したマルセスは目を開ける。目の前には相変わらず巨艦が居座っていた。
「よし、艦内の見学といこうか」
マルセスは巨艦への入口を兼ねたミュージアムへとむかう。その中は様々な展示物が整然と並んでおり、軍に所属するマルセスを刺激するには十分すぎた。
まず最初に目に入ってくる巨大な筒状の鉄の塊……
「これは?」
すかさず説明文を読む。幸い、ニホン語とタリアニア語で表記されているため、タリアニア語を習得したマルセスでも読める。
「バトルシップムツの41cm主砲の砲身だと……」
改めて鉄の塊を見る。
「これが戦艦というものか。共和国とは歩んできた歴史が違うのだな」
続いて目に入ったのは巨大なジオラマだ。海の上に多数の艦船模型が並び、どうやら海戦の模様を表現しているものらしい。
「太平洋戦争に於ける最大規模の海戦……マリアナ沖海戦か」
そのジオラマ上には長門と思われる模型もある。しかしそれ以上に存在感を醸し出す軍艦があった……
「あれはヤマトというのか」
近くの案内板にはこう表記されていた。『ヤマト、ムサシは米アイオワ級戦艦4隻を相手取り、これを撃退した。ナガト以下ヤマシロ、フソウ、イセ、ヒュウガはその他の戦艦群と撃ち合い、ニューメキシコ、サウスダコタ、ノースカロライナを撃沈する。しかしヤマシロ、フソウを失うこととなった。早朝からは空母部隊同士の戦いが行われた……』
「こんな戦いが半世紀以上も昔に行われたのか?」
マルセスはニホンという国が持つ軍事力を実感し、冷や汗を流していた。
「いよいよナガトに乗艦だな」
マルセスは建物2階から伸びるスロープを渡り、長門の艦首に降り立つ。
「塔のように高い艦橋は測距儀を高い位置に置くためか?」
高くそびえ立つ艦橋を見上げ、それとなく呟いてみる。
巨大な主砲塔から伸びるこれまた巨大な砲身……バルアス海軍からすれば規格外どころの話ではない。
主砲付近には長門の要目が記載された案内板が立てられている。
「基準排水量39120t……桁違いだな。我が国にこのような構想が生まれなかったのが不思議だ」
バルアス共和国では巨大な主砲を巨大な船体に載せるという考えが生まれなかった。それを持つ国がなかったことと、巡洋艦を主力とした機動性重視の艦隊整備を行ってきたからだ。
「そして軍艦に戦闘機を載せるというのも信じられん……帰ったら大臣に具申してみるか。いや、具申したところで設計には時間が掛かるし、建造にも相当掛かるだろうな」
マルセスはミュージアムで見た小沢艦隊の布陣を思い浮かべる。
「だが実現すれば、主砲よりも遠くまで攻撃できる……今後の軍事計画としては最適だな」
「おい、あんた」
不意に声を掛けられ後ろを振り向くと、老人が立っている。
「あんた、タリアニアから来たんか?」
「はぁ、そうですが」
「ちょうどいい、ワシの話を聞いていけ。ワシは1945年4月、こいつに乗組員として配属された。まさかあの戦争の行方を左右する海戦に参加するとは思わんかったが……」
「あなたはこの戦艦に?」
「そうじゃ。一時期は世界最強のビッグ7の一角じゃった……偉大な艦じゃの」
「その手は……」
「あぁこれか? 敵戦艦の砲弾が命中した時じゃ、離れていたのに破片に右腕を持っていかれた」
老人は肘から先を失った右腕を見ながら呟いた。
「そうでしたか……」
「だがこの長門はサウスダコタとノースカロライナを相手に奮戦した。そして2隻を撃沈することができた」
「この艦には数々の武勲がある……素晴らしいことですな」
マルセスはこの巨艦が活躍した遠い昔に思いを馳せる。異世界から来たニホンは、バルアス共和国より長い歴史を持ち、世界を巻き込んだ大戦を生き抜いてきた……
――我々は負ける、だが負けることで新たな共和国の歴史が産まれる――
「武蔵を見てくるといい」
「えっ?」
「長崎でモスボール状態で保存されておる。そのうち記念艦にでもなるだろうが……武蔵、帝国海軍の切り札である大和型二番艦」
「是非とも」
ついさっき、ミュージアムの模型で見た長門を凌駕する巨艦……それを生で見ることができると知ってマルセスの腹は決まった。