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雪がとけるまで

作者: 田山 白

こんな辺鄙なところですからね。

雪小屋代わりに訪れる人なんてのもいないんですけど、まあよかった。最初、扉が叩かれた時は熊か何かと私も怯えましたけど。ふふ。

遠慮せず、吹雪が止むまで屋敷で好きに過ごしてください。空いてる部屋はたくさんありますから。

え? 犬一匹と女一人なのに不用心、ですか? そうかも、しれませんが……。この屋敷には今、私とこの犬しか居ませんからね。雪の日は、少し寂しさが募るじゃありませんか。だから、いいかなって。

貴方も悪人には見えなかったし……、ああ、私を今すぐ殺すメリットもないでしょう? 世話をするには、一帯をよく知っている人間がいた方がいいもの。私一人、吹雪が終わってからでも、いつでもどうとでもできると思いますよ。

……ふふ、ね? ほら、貴方は呆れた顔をするけど、どうもしようとしていないでしょ?

なら、いいじゃないですか。


……そう、そうですね。なぜこんなところにいるのか、ですか。

身の上話なんて、決して楽しくはないと思うのですけど。……まあ、こんな雪山に、若い女一人が大きな館を構えていれば訳アリだと思いますものね。

いいですよ。暇つぶしに話を一つ。吹雪が止むまでにも満たないとは思いますけどね。




……まず、そうですね。

ここに来るまでの私は、幸福とは言えない家庭環境で育ちました。しがない男爵家の長女だったのですけれど、見栄っ張りな両親と、欲しがりの妹で……、共通していたのは物欲が異様に高いこと。

爵位なんて返してしまって、資産も全て売ってしまい、平民として暮らしましょうと何度か言ったのですけれどね、それは彼らにとって疎ましい言葉そのものだったらしくって。私は両親から邪険にされ、そんな姿は妹から嘲笑われるものでした。

それでも火の車になる家計に、私なりに出仕に出たり、諌めたりしたんですけど、やればやるほど溝は深まってしまって。最終的には親に売られてしまいました。


それで身一つで売られた先がこの屋敷。

居たのは、この犬一匹と、偏屈な車椅子の老人が一人。

会った早々、形式上の妻としての話をされました。契約書と一緒に。


前妻が亡くなって、自分ももう先は長くない。息子たちは独り立ちしている。妙に人のいいところのある家督を譲った長男は、自分と住もうと言ってきたけれど、冗談じゃなかったと。

長男の嫁に気を遣った車椅子生活など御免だったから、山奥に家を買って出てきた。万が一長男夫婦に見つかろうと、息子よりも年若い後妻を迎えたとなれば勝手に軽蔑してくれるだろうからと。

そんな理由で私は買われ、そして他人だから世話も享受しやすいからと使用人同然で「雇った」のだと。

……そんなことを。

初日からあちらの都合ばかりを一方的に、愛想のかけらもないような言動で淡々と説明されました。


私の人生ってなんなのだろうと呆然としました。まだ成人もしていない娘の頃ですよ?

家族に売られ、たどり着いた先は辺境の老人相手の後妻。おまけに私の上半身ほどもある大きな犬は、私を威嚇し唸ってばかりで、主人を守る。私が敵だというんです。ひどいもんじゃないですか。……ああ、もう、あの時は本当にそうだったでしょう? ……ふふ、吠えないの。


まあとにかく、……私は泣き喚いて、夫になった男に文句を言いましたが、男は煩わしそうにため息をつくばかり。

終いには聞いてられないとばかりに車椅子を翻して犬と一緒に私を置いて行きました。

私は泣いて、怒って、それから口を閉じて絶望しました。


二日間、そうやって過ごしてから、はたと我に帰ったように居心地の悪さを感じました。衣食住を与えられたにもかかわらず、他人の家で何もしていないことを、です。

すっかり私に興味を失った男――夫は、私に何も言いつけず、ただ屋敷内のどこかで一人生活しているようでした。

私は屋敷をうろついて、夫を探します。屋敷には、一人も使用人はいなかった。無駄な調度品は一つもなかった。

私はそれで、夫が本当にここを死ぬための家として用意して、ただの偶然でその看取り役として私が配置されたことに気付きました。


静かで死んだような家に言い知れぬ孤独と寂しさ、恐怖を感じながら歩いていると庭先でやっと夫を見つけました。

夫は、木についた僅かに膨らんだ蕾をぼんやり眺めておりました。その傍の犬は、私に気付いてすぐに唸る。それで、夫は私に気付いたようで振り返りました。

何を言おうかと私が考える間も無く、夫は先に口を開きました。


駄々をこねるのは終わったか。と。


呆れをたっぷり含んだ目で私に言ってくるんです。……ええ、あんまりでしょう?

でも、だからなんですかね。なんだか力が抜けてしまって。

この人にとって私は本当に使用人みたいな取るに足らない存在で、子供で。私の事情も感情もこの人は興味ない。

だから、私はこの家の中で役割だとか仕事だとか義務だとか、考えるのをやめてよかった。過去の仕打ちを、酷い思い出を、泣いてもよかったし、泣かなくてもよくなった。

誰でもない、なんでもない私になれた。


穀潰しにはなりたくなかったから、出仕していた経験を活かして家事をしました。

といっても、元から夫は一人で生活していたくらいですからできないこともなかったんですけどね。一応、短い間ですけど、立つことも歩くこともできましたしね。……最初の頃は。


使用人として過ごしていたというには、随分自由でした。奥様として過ごしていたというには、随分お互いに情はありませんでした。

ただ、お互いこの家に住むために生活する。同居人、みたいな感じだったでしょうか?


夫は私に、本当に何も求めていなかった。

どんな役になって欲しいとも言わず、どんな仕事をして欲しいとも言わなかった。

ただここにいることが、唯一夫が求めるもののようでしたけど、それだって私が逃げ出してもよかったのでしょう。

夫はこの屋敷に、死ににきただけだった。


私は静かで、何も動かないようなこの家の中、家事をして、時に街へ出たりしました。

餌をやり、ブラッシングをし、大体は気ままに過ごしているとあんなに敵意ばっかりだった犬もだんだんと懐いてきた。散歩をし、ボールを投げて遊んでやると、夫が私にも犬にも呆れた顔をしています。だから、夫も呼びつけました。

そんな風に夫とたまに会話をして、一緒に生活して……その傍、時折やっぱり考えました。

私、何のために生まれてきたんだろう、って。


親から愛されたかった気がします。妹と手を取り合って協力したかった気がします。

でも与えられなかったから、彼らを憎んだ時もあります。彼らの醜悪さが世間に露呈され、断罪され、不幸になってくれ。

そして一方で私は報われるべきで、素敵な王子様が迎えにきてくれて、そして最後に彼らに向かって「いい気味ね」とでも吐き捨ててやるのです。

それをやったら、きっとどこまでも幸せだろうと、その瞬間を夢見ていた。


けれど、その執念とも情熱とも言い難い気持ちも季節の移ろいと共に落ち着いてしまった。

私は何のために生まれてきたの?

最初は嘆くために使ったその問いは、段々と感情が落ちていって、輪郭がシンプルになって行きます。

おそらくもう、彼らに会うことはない。

会いに行かなければいいのだ。知りにいかなければいいのだ。


それは他人が聞いたらすっきりした結末ではないかもしれないけれど、他人と私は関係ないことをそのうち私は知って行きました。

この屋敷には私以外、一匹と一人しかいないんですもの。


私が感情に蹴りをつけている間にも、夫はどんどん、痩せ細って行きます。

死に向かって行きます。

私は夫の横に居続けました。たまに、ものすごく不安と恐怖に押しつぶされそうにもなります。この人がいなくなったら、どうしよう、と。

夫に向ける感情は、恋情ではありませんでした。友情でもありませんでした。けれど、夫の隣は息がしやすかった。

口が少なく、わかりやすく優しくもなく、私に対して厳しいことも平気で言う人でした。

……師、みたいなものかな、とも思ってました。生きるための道標というか。


でも、でもね。


一緒に暮らして一年を過ぎた頃、もう夫は一人で歩くのが大分難しくなってきた時。

夫が階段で躓いたんです。

私は横にいて、咄嗟に夫を支えました。だって、もうその頃の夫は本当に棒切れみたいに細い体になっていたから、階段から落ちたらどんな大怪我になるかわからなかった。怪我をしてほしくなかった。


だから、手を伸ばして体を入れ替えさせて、夫のクッションになるよう、身を庇った。


私、生きててあれほど嬉しかったこと、ありませんでした。

体が咄嗟に動いた、それに嘘はありません。けれど私はそれ以上にあの人を救いたかった、守りたかった。体の動きはそれに併せて出ただけ。私は私の意思で、あの人を救おうとしたんです。それが嬉しかった。私の身以上に、私は大切なものができてたんです。

私にも家族ができたんだってその時初めて知った。

それが、堪らなく嬉しかった。


……ええ、まあその通りで、主人は私が庇ったこと、烈火の如く怒ったんですけどね。

でも、それだって主人にとって私が家族だったからでしょう? 

夫の手、震えてたんです。怒りと、おそらく私が怪我したことに対しての恐怖で。それに気付いたら、なんだか急に人生の霧が晴れた気がして。単純なんですけどね。


それから、私たちは以前に増して静かで、穏やかな時を過ごしました。

半年経った頃、夫はベッドから起き上がらない日が増えてきた。

そうして……穏やかな初夏の日にね、呼吸を少しずつ減らして、そのまま傍で手を握ってた私を一度薄く目を開いて見てから、ちょっとだけ微笑んで。

口を少し動かしたと思ったら、そのまま静かに。

……逝ってしまったんですよ。

あの時、なんて言ったのかなぁ。ちゃんと耳を近くにして、聞けばよかったなぁって思うくらいには、私と夫の間には絆がありました。お互いに。


夫はそのまま、この家と犬を、私のために遺してくれました。出ていって家を売り払う手筈も書き置きまでしてくれてました。

二年間、夫との結婚生活を過ごした私に対する報酬なのでしょう。


私の人生って、なんだったんでしょう?


生きる方法は夫にたくさん習い、そして遺してもらいました。けれど、生きる理由は、夫が持っていってしまった。

途方に暮れています。私は今、驚くほど自由です。自由だからこそ、分からない。自由になって、私は何をしたいのか。

辛くて悲しかった実家にいた時、確かにそれを望んで何度も考えたはずで、この状況を待ち望んだはずなのに、いざ手元に荷物がなくなったとなれば、何も分からなくなってしまったんです。


……ああ、ごめんなさい。そんな拗ねたように吠えないで。ええ、ええ。貴方がいるわね。貴方は家族だもの。貴方がいるうちは、それが私の生きる理由だわ。




▽▲


「父がいました」


すっかり臍を曲げた犬を撫で付けながら、客人のコーヒーがないことに気付く。

もう一杯飲まれます? と、聞こうとした言葉は、どこかぼんやりとした顔でこちらの話を聞く一方だった男の静かな声で遮られた。


「偏屈で、人の話を聞かない父でね。家族思い、という言葉とも違った。けれど、振り返るとあれは愛情だったのではないかと思うことが何度もあるような、そんな人でした」


男がゆっくりと立ち上がり、私たちの方に向かってくる。

いつもなら、吠えるはずの犬が吠えない。男が頭に伸ばした手をそのまま受け入れた。それに気付いて、今度はこちらが呆然とする。

今まで客人としてしか扱わなかった男の曖昧な輪郭が途端にはっきりとしていく感覚。


「父に一度、言われたことがあります。兄弟の中で俺の方が父に似ていると」


甘く整った顔は、夫とはまるで違う。

けれど、そうだ。

夫には前妻との間に息子が二人いたと聞いていた。一人目は自分とよく似ているが二人目は妻似なのだと言っていた。

長男とは反りが合わず、随分ぶつかったけれど、次男とは逆に会話があまり成り立たなかったんだと。要領が良すぎて、のらりくらりとした奴だったと。


「本質的な底意地の悪さと、女の趣味がそっくりだと」


男が、答え合わせのように笑う。

引けた腰を、咎めるように男が首を振った。


「貴女はきっと、俺に向けた父の最期の遺産だ。けど同時に、俺に向けた最期の挑戦状でもあるんでしょう」

「……そんな、ゲーム感覚で言われても……困ります」


男はそれには返さずに、一度だけ目を細めた。

その瞳が剣呑で、けれど切実な鈍い光を伴っているのも分かり、思わず目を逸らす。


目にやった窓の外、雪はまだ轟々と吹雪いている。出て行けと言うにはあまりに酷い。

男は、私のその逡巡を見透かしたように穏やかな声を出す。


「雪がとけるまで、男手があった方がいい。俺がここにいますよ」


雪が止むまで、から、雪がとけるまでに変わっている。

柔和な顔で男が微笑む。それは、どこにも亡き主人の面影などなかった。


「雪がとける、まで……」

「一旦は」


けれど、なるほど。

どこか人を食ったような物言いは、確かにどこか、懐かしさを感じさせた。

ワウ、と不満そうに犬が吠える。軽い威嚇のような鳴き声に男は笑って、やはり慣れた手つきで犬の首を撫で付けた。それだけで、犬は黙ってしまう。


「生きる理由を、きっと一緒に見つけられる。雪が溶けた頃には、春が来るのだから」


死んだ夫より、よほど言葉を多く、男がいう。

その柔らかさも、優しさも。何もかも死んだ夫とは違うものなのに。

何故か、強く夫を感じさせられた。

夫に似ていると思ったのではなく、夫が死んだことをこの男に実感させられたからかもしれない。男が次の季節の話をする度に、胸が軋む。けれど、それが生きるということでもある。


夫の真意に気付く。ここに息子を寄越したのも、このタイミングも何もかも織り込み済みなのだ。

悲しむなと言っている。引きずるなと言っている。前に進めと言っている。


男を私に任せた。

私に男を任せた。


きっとどちらの意味もあるのだろう。

夫はそういう、合理的な性格だったから。

夫が託したものを、私も、男もきっと気に入る。その予兆は確かにある。

けれど、……けれど。

最期まで酷い夫だ。もう少し、悲しませてくれたっていいじゃないか。家族が死んだのだから。


視界が滲んだ、と思った時には嗚咽が漏れていた。夫以外の人前で泣いたのなんて、紛れもなく初めての経験だ。けれど、止まらなかった。



夫は厳しい中にも優しさがある人だった。

この男は優しさの中に厳しさがある人だ。


泣き崩れた私の元に差し出された手を、ゆっくりと自分の意思で握る。

夫と違い、張りがあって硬い、同年代の男の手だった。前に進む力強さを持つ、男の手。体温の高いそれは、否応にも春の訪れを予感させた。

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