第9話 名前を呼ばれる夜
12月15日。
東京に、今年一番の冷え込みが訪れた。
皆川潤は、夜の繁華街を歩いていた。
ネオンは眩しく、人の笑い声は多い。
それなのに、どこか息苦しい。
――四人目。
その言葉が、朝から頭を離れなかった。
三人を“灯した”はずなのに、胸の奥は軽くならない。
むしろ、何かが近づいてくる予感だけが、重く沈んでいる。
信号待ちの交差点。
人の波に紛れて、潤は不意に足を止めた。
「……皆川?」
その声は、聞き間違えようのない声だった。
潤は、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、スーツ姿の男。
年齢は潤より少し若い。
だが、その目だけは――忘れようとしても忘れられなかった。
「……やっぱり、皆川だ。」
男は、確信したようにそう言った。
「……久しぶりだな。」
名前を呼ばれるのが、こんなにも怖いとは思わなかった。
「……誰ですか。」
潤は、反射的に嘘をついた。
男は、苦く笑った。
「……その顔で、よく言うよ。
俺だよ。川端 恒一。」
心臓が、強く打った。
川端。
かつての同僚。
そして――あの事件で、潤が人生を壊した相手。
「……刑務所、出たんだな。」
川端の声に、怒りはなかった。
だが、だからこそ怖い。
「……今さら、何の用ですか。」
潤は視線を落とした。
「用なんてない。
ただ……偶然、見かけただけだ。」
信号が青に変わる。
人波が二人を押し流そうとするが、川端は動かなかった。
「……なぁ、皆川。
少し、話せないか。」
潤の足は、言うことをきかなかった。
逃げることも、拒むこともできない。
「……五分だけです。」
それが、精一杯だった。
近くのコンビニの前。
暖房の効いた空気が、二人を包む。
「……あの日のこと、覚えてるか。」
川端は、静かに切り出した。
「俺は……今でも、夢に見る。」
潤の喉が、ひくりと鳴った。
「あんたが、最後に言った言葉。
“もう終わりにしよう”って。」
潤は、拳を強く握りしめた。
「あの判断が……会社を、俺の家庭を、全部壊した。」
潤は、初めて顔を上げた。
「……俺が、壊しました。」
その言葉は、逃げずに選んだ言葉だった。
「……あなたの人生を。
取り返しのつかないことをしました。」
川端は、しばらく潤を見つめていた。
やがて、深く息を吐く。
「……恨んでないと言えば、嘘になる。」
潤は、何も言えなかった。
「でもな……
恨み続けるのも、疲れた。」
川端の目に、かすかな諦めと、別の感情が混じる。
「俺も……前に進みたい。」
沈黙が、二人の間に落ちた。
潤は、ようやく言葉を絞り出した。
「……謝って、済む話じゃないのは分かってます。
それでも……
あなたに、謝りたかった。」
川端は、目を閉じた。
「……それを聞くだけで、十分だ。」
そして、ゆっくりと目を開く。
「皆川。
俺は、あんたを許したわけじゃない。
でも……あんたが、逃げなかったことは認める。」
その言葉は、刃のようで、同時に救いでもあった。
川端は踵を返した。
「……もう、会うことはないだろう。」
数歩進んでから、立ち止まる。
「……生きろよ。
それが、あんたの罰で……贖いだ。」
川端は、人混みに消えていった。
潤は、その場に立ち尽くしていた。
足が、震えている。
そのとき、胸の奥に声が響いた。
「四人目……あなた自身が向き合いました。」
潤は、初めてその場で膝に手をついた。
“幸せにする”とは、
必ずしも笑顔を見ることじゃない。
痛みを、逃げずに受け取ること。
それもまた、灯なのだと――初めて理解した。
残りは、あと一人。
そしてそれは、
最も近く、最も遠い存在だった。
12月の夜。
東京の光は、どこまでも冷たく、どこまでも優しかった。




