第8話 空いた椅子に灯るもの
12月11日。
東京の朝は、冬特有の乾いた光に包まれていた。
皆川潤は、昨日の定食屋の前を再び通りかかった。
意識して来たわけではない。
けれど足は、自然とこの道を選んでいた。
店はまだ開いていない。
シャッターの前に立ち、潤は篠原恒一の顔を思い浮かべる。
鍋の湯気の向こうで見せた、寂しさと安堵が入り混じった表情。
――まだ、途中。
ツリーの声の言葉が、胸に残っていた。
昼過ぎ、潤は近くの公園でベンチに腰掛けていた。
簡易宿泊所に戻るには、まだ早い時間だ。
落ち葉を掃く音が聞こえる。
ふと顔を上げると、見覚えのある背中があった。
「……篠原さん?」
老人は振り返り、目を丸くした。
「……あんたか。
奇遇だな。」
篠原は、自治体の清掃ボランティアの腕章をつけていた。
箒を持つ手は、決して若くないが、動きは丁寧だ。
「よく、ここで?」
「妻がな……この公園、好きだった。
今は、せめて綺麗にしようと思ってな。」
潤は、言葉を失った。
“思い出の場所”は、時に人を縛りもする。
だが篠原は、それを“役割”に変えていた。
ベンチに並んで座り、缶コーヒーを手にする。
「……なぁ、皆川さん。」
篠原は、遠くを見るように言った。
「妻が倒れた日……
俺、仕事を優先した。」
潤の胸が、強く波打った。
「病院から電話があってな。
“すぐ来てください”って。
でも……会議を抜けられなかった。」
篠原は、唇を噛みしめた。
「間に合わなかった。
最期の言葉も、聞けなかった。」
その告白は、重く、そして静かだった。
怒りも涙もない。
ただ、長年胸に沈めてきた後悔。
潤は、ゆっくりと息を整えた。
自分が語る資格のない言葉を、選ばなければならない。
「……篠原さん。
もし、奥さんが今ここにいたら……
何て言うと思いますか。」
篠原は、驚いたように潤を見た。
「……分からん。」
「でも……毎年、この店に来ること。
この公園を掃除すること。
それって……“一緒にいる”選択ですよね。」
篠原の目が、揺れた。
ベンチに並んで座り、缶コーヒーを手にする。
「……なぁ、皆川さん。」
篠原は、遠くを見るように言った。
「妻が倒れた日……
俺、仕事を優先した。」
潤の胸が、強く波打った。
「病院から電話があってな。
“すぐ来てください”って。
でも……会議を抜けられなかった。」
篠原は、唇を噛みしめた。
「間に合わなかった。
最期の言葉も、聞けなかった。」
その告白は、重く、そして静かだった。
怒りも涙もない。
ただ、長年胸に沈めてきた後悔。
潤は、ゆっくりと息を整えた。
自分が語る資格のない言葉を、選ばなければならない。
「……篠原さん。
もし、奥さんが今ここにいたら……
何て言うと思いますか。」
篠原は、驚いたように潤を見た。
「……分からん。」
「でも……毎年、この店に来ること。
この公園を掃除すること。
それって……“一緒にいる”選択ですよね。」
篠原の目が、揺れた。
別れ際、篠原はぽつりと言った。
「来週……墓参りに行こうと思う。」
潤は、微笑んだ。
「きっと、奥さんも喜びます。」
篠原は、空を見上げる。
「……なぁ。
もしよかったら……
また、あの店で飯を食わんか。」
潤は、驚き、そして頷いた。
「ええ。ぜひ。」
老人の背中は、少しだけ伸びていた。
その瞬間、胸の奥で声が響いた。
「三人目……灯りました。」
潤は目を閉じる。
三つ。
確かに、灯はともった。
だが同時に――
自分自身の奥深くにも、重たい何かが動き始めているのを感じていた。
12月の東京。
空いた椅子は、もう“空”ではなかった。




