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Forgiveness in December  作者:


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第7話 ひとり分の食卓

12月8日。

夜の東京は、どこもかしこも光に満ちていた。

恋人たち、家族連れ、忘年会帰りの笑い声。

街は「誰かと過ごす前提」でできているように見える。


皆川潤は、商店街の外れにある小さな定食屋の前で足を止めた。

赤提灯の下にぶら下がる古びた看板。

《おふくろの味 たけ》


ガラス越しに見える店内には、客が一人だけ。

カウンターの端に座る、背中の丸い老人だった。


――胸の奥が、わずかにざわつく。


「三人目は……あの人です。」


ツリーの声は、もうはっきりと聞こえる。

幻ではない。

潤はそう確信しながら、暖簾をくぐった。


「いらっしゃい。」


女将の声は、少し疲れているが優しかった。

潤はカウンターの中央に座ろうとして、ふと思い直す。

そして、老人の隣の席に腰を下ろした。


「……寒いですね。」


潤の何気ない一言に、老人は少し驚いたように顔を上げた。


「……ああ。」


それきり、また視線を丼に落とす。

食べているのは、鍋焼きうどん。

湯気の向こうで、目元がうっすら濡れているように見えた。


沈黙は長かった。

箸の音と、鍋がぐつぐつ鳴る音だけが響く。


潤は、焦らなかった。

声をかける“間”は、刑務所で覚えた数少ない技術のひとつだ。


「……この店、落ち着きますね。」


老人は、少しだけ口元を緩めた。


「昔から変わらん。

 人も、味もな。」


「よく来られるんですか?」


「……毎年、この時期だけな。」


潤は、その言葉を心の中で反芻した。


「妻がな……」


老人は、突然そう切り出した。


「五年前に亡くなった。

 この店は、あいつのお気に入りでな。」


潤は、黙って聞いた。


「クリスマス前になると、決まってここで飯を食った。

 “一人前で足りるかしら”って、いつも言ってな……」


老人は、箸を置いた。

手が、わずかに震えている。


「今年も来ちまった。

 馬鹿だな。」


「馬鹿じゃないですよ。」


潤の声は、思った以上にまっすぐだった。


「忘れられない人がいるって……悪いことじゃない。」


老人は、潤をじっと見た。

長い時間、誰にも向けなかった視線だ。


「……あんた、若い頃に誰かを失った顔だな。」


潤は、息を詰まらせた。

“失った”のは、人ではない。

“壊した”のだ。


それでも、否定はしなかった。


女将が料理を運んできた。

潤の前には、生姜焼き定食。


「……すみません、話し相手になってもらって。」


老人は、小さく頭を下げた。


「こちらこそ。」


二人は、しばらく黙って食べた。

しかし、沈黙はもう冷たくなかった。


「……昔は、二人で並んで座ってた。

 今は……この空いた席が、やたら広くてな。」


老人は、隣の空席を見つめた。


潤は、ゆっくり言葉を選んだ。


「その席……今も、奥さんの席なんだと思います。」


老人は、驚いたように潤を見る。


「……今も?」


「ええ。

 だから、空いてるんじゃない。

 “ちゃんと埋まってる”。」


老人の目が、ふっと潤んだ。


「……そうか。」


鍋の湯気が、二人の間を柔らかく包む。


会計を済ませ、店を出ると、夜風が頬を打った。

老人は潤の方を見て、深く頭を下げた。


「……ありがとうな。

 今年は、少しだけ温かい飯になった。」


「それなら……よかった。」


別れ際、老人は自分の名前を告げた。


篠原しのはら 恒一こういちだ。」


「……皆川です。」


二人はそれだけ言い、別れた。


老人の背中は、まだ丸い。

それでも、さっきより少しだけ、重さが減っているように見えた。


その瞬間、声がした。


「三人目……まだ途中です。」


潤は足を止めた。


“幸せ”は、一度の会話では完成しない。

それでも――


確かに、扉は少し開いた。


東京の夜。

ひとり分の食卓に、かすかな灯がともり始めていた。


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