第3話 書類の壁
12月2日。
朝の東京はどこか湿った冷気をまとっていた。
皆川潤は、久しぶりに他人と約束をした日の緊張を抱えながら、区役所の前に立っていた。
開庁時間まであと10分。
人々がコートをかき寄せながら列をつくり、冬の光がガラス壁に淡く反射している。
「……来るだろうか。」
昨日の別れ際、彩花は何度も「迷惑じゃないですか」と言っていた。
あれから一晩寝れば、見知らぬ男に頼ったことを後悔するかもしれない。
そう思っていた矢先――
「皆川さん!」
小さな声が駆けてきた。
蓮を抱っこした彩花だった。
息を切らし、頬が赤い。
遅刻しないよう急いで来たのだろう。
「すみません……朝、蓮がぐずってしまって。」
「いえ、大丈夫です。寒い中、お疲れさまです。」
自然に口から出た言葉だった。
その柔らかさに、自分で少し驚いた。
彩花はふっと微笑んだ。
その表情に、昨夜よりもわずかに強さが宿っているように見えた。
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■区役所の窓口
書類の記入スペースには、さまざまな事情を抱えた人たちが集まっていた。
泣きそうな顔で机に向かう女性。
黙って書類をめくる高齢の男性。
電話で言い争うスーツ姿。
“生きることは皆、簡単じゃない。”
潤はそんな光景を眺めながら、彩花の隣に座った。
「ここの……ここに書くのは、最後に働いていた日で……」
「こういう欄は、該当なしなら『なし』で大丈夫ですよ。」
潤はゆっくり、なるべく優しく説明していく。
彩花は真剣な目でうなずきながら、時折蓮をあやしつつペンをすべらせた。
20分ほどして、一通りの書類が揃った。
「……ありがとうございます、皆川さん。
一人だったら途中で投げ出してたかもしれません。」
「これで申請できますね。あとは窓口で相談すれば……」
「はい……!」
彩花は深く息を吸い、蓮の手を握りしめて窓口へ向かった。
潤は少し離れた場所でその様子を見守った。
緊張した面持ちの彩花。
担当職員は丁寧に説明し、時折書類に目をやりながら何度も確認している。
やがて――
「申請、受理されました。」
その言葉が聞こえた瞬間、彩花の肩がふっと落ちた。
まるで体の奥から重石が取れたような表情。
彩花はすぐに潤の方へ歩いてきた。
「皆川さん……! 本当に、ありがとうございました……!」
潤は、胸に小さな光が灯るのを感じた。
救われたのは、むしろ自分の方かもしれない。
そんな思いがふと胸に浮かび、しかしすぐに飲み込んだ。
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■帰り道
「今日、来てくれて……嬉しかったです。」
「いえ……力になれたなら良かった。」
蓮は潤のコートの袖を引っ張り、にこっと笑った。
その無邪気さに、潤は思わず目を細めた。
「これで、少しは生活が持ち直せるかもしれません。
働き口も……もう一度探してみます。」
彩花の声は、昨日より確かで前を向いていた。
別れ際、彩花は深々と頭を下げた。
「皆川さん。私……あなたに、どう恩返しをしたらいいか……」
「恩返しなんて、そんな。
俺は……ただ、目の前のことをやっただけです。」
言葉にはしなかったが――
“贖い”の一歩目として、ただそれをしたかっただけだ。
彩花は蓮の手を引いて歩き出す。
背中に、昨日にはなかった強さが宿っていた。
その姿が見えなくなったとき、ツリーの声が胸の奥に落ちてきた。
「一人目――済みました。」
その声には、寒空の下とは思えないほどの温かさがあった。
潤は、街の人波の中に静かに立ち尽くした。
まだ、あと四人。
でもその道を歩くのが、ほんの少しだけ怖くなくなった。
12月の風は冷たい。
しかしどこか、昨日より優しかった。




