第2話 母と子の夜道
泣きじゃくる若い母親の前に、皆川潤は立ち尽くしていた。
どう声をかけていいのか分からない。
10年の間、誰とも深く関わらず過ごしてきたせいで、他人の涙に触れるのが恐ろしく感じられた。
「……だ、大丈夫ですか。」
かろうじて出た声は、思ったより震えていた。
母親は、潤の方を見ようとして、しかし視線を落としたまま小さく首を振った。
隣の幼い男の子は、母親の袖を握りしめ、不安そうに見上げている。
「すみません……急に、仕事が決まらなくて……家賃も払えなくて……」
涙は次から次へこぼれ落ちる。
潤は胸の奥が痛くなった。
自分の過去が、似たような光景を無数につくった気がするからだ。
「お困りなら……何か、できるかもしれません。」
そう言ってから、潤は自分の愚かさに気付いた。
自分には何もない。
金も家も仕事も、誰かを救う力なんて何ひとつ。
――なのに、助けたいと思ってしまうのはなぜだろう。
母親は、少しだけ顔を上げた。
「……すみません。誰かと話したかっただけなんです。」
その声には、深い孤独があった。
潤はそっとベンチの端に腰を下ろした。
「家賃のこと……役所に相談してみたんですか?」
「はい。でも……書類が多くて、よく分からなくて……。今日も面接があったんですけど、子どもを連れて行ったのがいけなかったのか、落ちちゃって。」
母親は小さく笑った。
その笑顔がかえって痛々しかった。
「……名前、聞いてもいいですか。」
潤が尋ねると、女性は少し驚いたように瞬きをした。
「……彩花です。息子は蓮。」
「彩花さん、蓮くん……。俺は、皆川です。」
“潤”と言いかけて、やめた。
名字だけの方が、いまの自分には都合がいい。
会話をしている間にも、蓮は眠気と寒さで目をこすっている。
潤はそっと自分のコートを脱ぎ、蓮の肩に掛けた。
「風邪、ひかないように。」
彩花は驚き、そしてふっと目を潤ませた。
「……優しいんですね。」
「いえ……そんな立派なもんじゃないです。」
本当は、自分の心を少しでも軽くしたくてしているだけなのかもしれない。
それでも、蓮がコートにくるまって小さく微笑んだのを見て、胸が温かくなった。
そのとき、ツリーの方から冷たい風が吹いた。
飾りがかすかに揺れる。
――「まだ終わりではありませんよ。」
あの声だ。
潤はぞわりと背中を震わせたが、表情には出さなかった。
彩花は、バッグの中を探っていた。
破れ気味の封筒が取り出される。
「……皆川さん。あの……もし迷惑じゃなければ、明日ちょっとだけ、役所に付き添ってもらえませんか。書類のこと、誰かに見てもらいたくて……」
潤は一瞬、返答に迷った。
関われば、彼女は自分の過去を知ってしまうだろう。
それで離れられるのは、もう慣れている。
でも――ツリーの声が告げた「五人」の最初の一人がこの親子であるなら、避けることはできない。
「……分かりました。俺でよければ。」
そう言った瞬間、彩花の表情にふっと灯がともった。
ほんの小さな光。
でも、その光は確かだった。
「ありがとうございます……本当に……」
蓮は眠りながら母の手を握り、彩花はその小さな手に頬を寄せた。
潤はそっと二人を見つめる。
許される資格のない自分が、誰かのために動こうとしている。
それが、奇妙に心を温めていた。
夜の空気は冷たい。
けれど、公園の真ん中に立つクリスマスツリーは、
どこか嬉しそうに瞬いていた。




