16話 裏切り(賀茂明楽・視点)
廃校舎の一室で、俺は椅子に背中を預け、一息ついた。
体調不良はまだ完全には治っていないが、薬が効いてきたのか、先ほどよりは幾分マシだ。
教室には、窓から差し込む月明かりだけが満ちている。埃が舞うその光の筋が、静寂をいっそう際立たせていた。
「……遅いな」
腕時計をちらりと確認して呟く。
茉莉花がトイレに行くと言ってから、すでに十分以上が経過していた。
いくら恋人でも、トイレにまで付いていくのはさすがに気が引けたので、俺は教室に乱雑に残された椅子に腰掛け、戻りを待っていたのだが――。
「はぁ、はぁ……お待たせ、しました。明楽さん」
扉が音を立てて開き、姿を見せた茉莉花に、思わず息を呑んだ。
制服はところどころ破れ、頬には浅いが痛々しい傷が走っている。
「どうした! 何があった!!」
椅子から飛び上がり、茉莉花のもとへ駆け寄って肩を支える。
「……鴉。隻眼で、異様に獰猛な鴉に襲われました」
「鴉?」
「ええ。とても強く……十二天将を使って、なんとか退けました」
「そんな化け物が……」
茉莉花の声はかすかに震えていた。
ここにいるのは、いじめの末に自殺した女学生の霊だけと聞いていた。だが、十二天将を操る茉莉花が「なんとか退けた」と言うほどの怪異――。
これは、思った以上に厳しい夜になるかもしれない。
「鴉は中庭の要石の方へ逃げました。明楽さん、一緒に行きましょう」
「ああ。……まだ他にも怪異がいるかもしれない。気を抜くなよ」
廊下へ足を踏み出すと、夜気が肌を撫でた。
廃校舎特有の埃っぽい匂いに、外から流れ込む湿った風が混じる。
月光だけが延びる二人の影を細く引き伸ばしていた。
茉莉花は歩きながら、時折こちらを振り返る。
その肩がわずかに震えていた。鴉との戦闘による疲労なのか――あるいは。
「茉莉花、本当に大丈夫か?」
「……ええ」
その返事が、妙に引っかかった。
いつもの彼女なら、もっと明るく、安心させるように笑って言うはずだ。
今は、何かを押し隠すように、慎重に言葉を選んでいる気配がある。
胸の奥に、形のわからない違和感だけが残った。
――その時だった。
『■■■■■■』
黒一色のセーラー服を着た女子生徒の霊が、廊下の先に佇んでいた。
風もないのに長い髪が揺らめき、空洞のように何も映さない眼窩がこちらを向く。
呻き声には呪詛が混じり、肌を刺すような痛みが走った。
「十二天将の一柱、南西の守護者・勾陳。現れ、怪異を喰らえ! 急々如律令!」
茉莉花が黒い符を取り出し、ぎゅっと握った手を前に突き出す。
符に刻まれた赤い文字が禍々しく輝き、茉莉花の身長を優に超える金色の蛇が這い出てきた。
勾陳は女子生徒の霊を睨みつける。床に亀裂が走り、霊は苦しげに身を屈めた。
重力を操る。これが勾陳の権能か……。
そして――巨大な口が開き、霊を丸ごと呑み込んだ。
「……この程度では、あまり回復しませんね」
「回復?」
「先ほど言ったとおりです。鴉との戦闘で、呪力を大きく消耗しました。だから……外部から補ったんです」
「外部――怪異を十二天将に喰べさせてか」
「はい」
「……そんなことをして、大丈夫なのか?」
「ええ。何も――何ひとつとして問題ありませんよ」
茉莉花は微笑んだ。
見慣れているはずの笑顔なのに、背筋に冷たいものが走る。
茉莉花は俺から視線を外し、命令する。
「勾陳。校舎内の怪異を……全部、食べてきて」
巨大な金蛇は静かに身を揺らし、暗い廊下の奥へと溶けるように消えていった。
――その背中を、茉莉花は笑みを浮かべたまま見送っていた。
◆
中庭へ到着した。
勾陳が怪異を喰った影響だろう、あれから悪霊に遭うことはなかった。
廃校舎の淀んだ空気さえ、来たときより軽く感じられる。
――だというのに、不安だけが膨れ続けていた。
校舎に囲まれた中庭の中央には、高さ二メートルほどの古びた石碑。
その周囲で土御門家の陰陽師が五人、五行の陣を組んで呪言を唱えている。
張り詰めた空気が月明かりの静寂をさらに際立たせた。
「……茉莉花が戦った鴉はいないようだな」
「はい」
「ここは土御門の陰陽師に任せて、俺たちは他の場――」
振り返ろうとした瞬間、背中から鋭い痛みが走った。
「――っ!?」
視界が大きく揺れる。
胸の中心から、何かが突き出ていた。
ぽた…ぽた…と地面に赤い滴が落ちる。
ナイフが引き抜かれると同時に膝が崩れ落ちた。
「ま……つり、か……?」
見上げた先には、俺の知る茉莉花ではない茉莉花がいた。
冷たく、歪んだ狂気の笑み。
「ごめんなさい――明楽さん」
謝罪の言葉とは裏腹に、声には一片の情さえない。
茉莉花が印を結ぶと、俺の身体から血が無理やり引き抜かれ、空中を漂い石碑へ吸い込まれていく。
石碑は血を飲み干すように吸収し、古い石肌が淡い光を帯びた。
続いて茉莉花は自らの腕を切りつけた。
流れた血も宙を漂い、石碑へと吸収されていく。
「賀茂家の血。そして十二天将を扱えるほど高い呪力を持つ土御門の血。この二つを要石に与えることで――封印を解くことができます」
「……封……印……?」
「ええ。平安の世――芦屋道満、安倍晴明、賀茂忠行ら名だたる術師が封じた妖人・安倍晴明。
本来なら決して触れてはならない封印――その封印を!」
妖人・安倍晴明。
家に残る古文書で読んだ名。
かの安倍晴明が、異能に呑まれ、制御できず、人に仇なすことを恐れ自ら封印された存在。
封印の場所は代々秘されてきた。
――まさか、この廃校舎が。
意識が揺らぎ、呼吸が浅くなる。
胸の傷から熱い血が流れ続けていた。
「茉莉花……お前……何……して……」
かろうじて絞り出した声は、風に消えそうに弱い。
茉莉花は微笑んだ。
まるで壊れた人形のように。
その瞬間――。
「茉莉花ぁぁぁぁぁ!!」
怒号が響いた。
視界の端に、白と黒の巫女装束を纏った中学生ほどの少女が飛び込んでくる。
対極院……!?
いや、声は似ているが背丈が幼い。
――他人の空似か。
少女は一直線に茉莉花へ駆け寄り、拳を叩き込んだ。
鈍い音が響き、茉莉花の体が宙に弾き飛ばされる。
そのまま石碑へ激突し、石碑は砕け散り、茉莉花は瓦礫に埋もれた。
だが――。
「誰ですか」
茉莉花は何事もなかったかのように立ち上がった。
服は破れ、体には土埃がついているが、傷一つない。
少女は祓棒を茉莉花へ向け、静かに名乗った。
「私の名前は――祓。茉莉花、禊ぎ、祓ってあげるよ」
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