10話 侵食(賀茂明楽視点)
夜の帳が下りた東京・新宿の裏通り。
ビルの地下にある居酒屋「陰陽屋」へやって来ていた。
店主は陰陽師で、接客も配膳も式神任せ。
調理だけは自分でやらないと気がすまないらしい。
頑固な料理人系陰陽師。面倒くさそうだが、味は確かだ。
薄暗い階段を降り、暖簾をくぐる。
奥の掘り炬燵の個室に入ると、すでに禊がいた。
枝豆をつまみながら、薄いカクテルを飲んでいる。
「お疲れ。明楽」
「ああ」
スーツをハンガーにかけると、禊の前の席へ座る。
「? 土御門さん……茉莉花は?」
「誘ったけど、今日の報告書と始末書で疲れ切っていたから、遠慮するだってさ」
「まあ、初日からあんな事に巻き込まれれば疲れるよね」
「そうだな……」
禊は茉莉花と相棒を組むことになった。
新人である以上、同性で組んで慣れていった方がいいという判断だ。
相棒を組むにあたって、禊は「土御門さん」と呼んでいたが、茉莉花から
『年上で先輩なんですから呼び捨てにしてください』
と言われて、ぎこちない調子で「茉莉花」と呼ぶようになった。
……俺の場合は、「賀茂さん」から「明楽」に変わるまで一年ぐらいかかったけどな。
「茉莉花の初日があれだからな。お前の現場も気になってたんだが……」
「?」
「段ボール男だよ」
「ああ、たいした事は無かったよ。段ボールが怪異に変質して、人を喰うために“同族”を増やしてただけ」
「――ガチだったか。無色ましろの配信じゃ、ただの変質者にしか見えなかったけどな」
「怪異と変質者は紙一重のところがあるからね」
そう言って禊は小さく苦笑し、カクテルに口をつけた。
こうして禊とは何度も飲んでいる。
何度も、何度もだ。
――なのに。
……俺は恋人――のはずなんだけど、な。
この関係は、どうにもそれ以上に進まない。
禊に悪気があるわけじゃない。ただ、距離感が独特というか――。
いや、原因は分かっている。
≪ドラマとかだと、お互い、ほろ酔いになって、ホテルとか、互いの自宅へ行って一夜を過ごす流れになる感じだけど。……貴方達は全く進展しないわね≫
つまらなそうに、いつの間にか禊の横に座っていた女性は言う。
禊に似た端正な顔立ち。耳の上から生えた山羊のような黒い角。
そして漆黒の着物に金糸の刺繍。
禊の母――異界の魔神だ。
「母さん、そういう事言うの……止めてってば!」
禊が珍しく顔を少し赤らめて、隣に座っている母親に文句をいう。。
その仕草がいちいち可愛いのも、俺にとっては問題だ。
けれど――進展しない理由が、まさに今、禊の横にいる。
禊の母は、禊が愛しすぎて、愛らしくて、取り憑いている。
どんな時にでも禊の傍で見守り、手助けをする存在。
食事中でも、帰り道でも、部屋にでも、どこでもいる
……こんな状況で手を出す勇気がある男がいたら紹介してほしい。
≪あら。別に邪魔をしたいわけじゃないのよ? ただ、娘が妙な男に騙されないよう見張っているだけ≫
「妙な男……」
「ごめん明楽。あの、気にしないで……ほんとに」
「いや、無理だろ」
禊は肩を落とす。
俺はその横顔を見ながら、小さくため息をついた。
「禊、言っとくが……俺だって、お前との関係を進めたくないわけじゃないんだぞ」
「……うん。分かってるよ」
でも――と禊はグラスの縁を指でなぞる。
「……母さんが、ほら。いつも近くにいるから。その、恥ずかしいし」
≪何が恥ずかしいの。実の母親相手に≫
「母さんは黙っててよ」
禊が真っ赤になって声をひそめる。
その反応に、魔神の母は扇子で口元を隠しながら笑った。
≪あらあら。可愛いわねえ≫
……完全に、恋路を楽しんでるタイプの親だな、この人(?)は。
――その瞬間だ。
世界に、ノイズが走った。
「……っ」
頭が割れるように痛む。
視界が滲み、誰かの声が遠ざかる。
手でこめかみを押さえたとき――。
「大丈夫ですか、明楽さん」
聞こえたのは茉莉花の声だった。
「……茉莉花?」
顔を上げると、禊がいたはずの席には、茉莉花が座っている。
ただ、それだけではない。
個室には、俺と茉莉花しかいなかった。
「茉莉花……だけか?」
「はい? どうかしました? 禊さんは用事で来られなくなったじゃないですか」
「禊が……?」
「それに、明楽さん。恋人の前で他の女性の名前を出すのはマナー違反ですよ?」
「あ……そう、だな。すまん」
おかしい。
記憶が曖昧だ。
さっきまで禊が――いや、違う。いたのは茉莉花だ。
俺の恋人は茉莉花だ。
禊はただの同僚で――。
思考が揺れる。
胸の奥がざわつく。
「明楽さん、顔色が悪いです。今日は帰りましょう」
「あ、ああ……悪いな、俺から誘ったのに」
「いえ。明楽さんの体調が一番です。でも、このまま帰すのは危険です。近くのホテルに行きましょう」
「ホテル……?」
「大丈夫です。私たち、恋人同士ですから」
その言葉が、何故か自然に思えた。
当然のことのように――。
茉莉花がそっと腕を取ってくる。
その肌に触れた瞬間、またノイズが走る。
禊の声。
禊の笑顔。
禊の母の冷やかし。
すべてが、泡沫のように消えていく。
一ヶ月ほど経った。
あの日から体調不良が続いている。
念の為、病院に言ったが健康体そのものと診断された。
職業柄の疲労が蓄積された結果とのことだろう。
薬を渡されて経過観察となった。
陰陽課に出勤すると、横の席が妙にすっきりしていた。
机の上には書類もパソコンもない。
新品同様の机が置かれていて、まるで最初から誰も使っていなかったかのようだ。
「……禊?」
つぶやくと、また頭が痛む。
「明楽さん、おはようございます!」
茉莉花が笑顔で駆け寄ってくる。
その笑顔を見た瞬間、痛みがすっと引いた。
「茉莉花……。禊は――?」
「あんな人の事は言わないで下さい!!」
茉莉花の目に怒りと嫌悪がにじむ。
彼女は明らかに、禊を拒絶していた。
何がどうなっているんだ。
茉莉花と禊は、仲が良かった記憶が、ある。
「禊さんは、私と明楽さんが恋人同士なのを知っていて、明楽さんに手を出してくる最低な人です!
先輩として尊敬していたのに、裏切られた気分ですっ」
茉莉花の声が、頭の奥でこだました。
憎しみと嫌悪を滲ませたその表情は、彼女がどれほど深く裏切られたと感じているかを物語っている。
そして、その主張を聞くと、頭の痛みがすっと引いた。
「……そう、だよな」
俺は静かに頷いた。
そうだ。俺の恋人は茉莉花だ。
俺たちはあの日、居酒屋からホテルに行き、一線を越えた。それが自然な流れだった。
禊――いや、対極院とは関係ない。あいつは、ただの邪魔者だ。
「どうした。賀茂。顔色が悪いぞ」
茉莉花の後に入ってきたのは、伏見玄弥課長。
思わず対極院の事を聞いてしまう。
「課長。……対極院は?」
「地方へ異動となった。お前たちも、浮気をするような相手と一緒に仕事は仕事はやりにくいだろ」
なるほど、確かにそうだ。。
恋人がいると分かっている相手に手を出すようなヤツは迷惑でしかない。
「お前、本当に顔色が悪いぞ。
明日は、怪異が出ている廃校舎で、土御門が派遣した陰陽師と合同で大規模討伐が行われる。
今日は帰って、明日のために養生しろ」
「……わかりました」
伏見課長の言葉に頷いた。
「伏見課長。私も付き添いで上がっていいですか。明楽さんが心配です」
「まあ、賀茂の奴は具合が悪そうだし、看病できるヤツが近くにいた方がいいだろ。分かった。土御門も上がっていい」
「ありがとうございます」
茉莉花は頭を下げると、腕に手を組み、エレベーターへと向かった。
明日の大規模怪異討伐。
成功させるためにも、今日は家でゆっくりと休むことにした。
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