ロシュフォード家の崩壊
「……これが“外遊”? 冗談でしょ……」
歪んだ木製の寝台、石の壁に染みついた冷気、窓の外には鉛色の空と荒れた森。
ここは、王都から遠く離れた辺境砦──ヴィスハイト砦。
ミリアンヌ=ロシュフォードは、粗末な椅子に腰掛けながら、深く溜息を吐いていた。
まるで自分が“牢に囚われた囚人”かのような気分だった。
──未来の王太子妃である私が、なぜこんなところに?
薄暗い部屋の隅では侍女が一人、冷えた茶をそっと机に置いた。
かつて王都で取り巻きたちに囲まれていたミリアンヌの姿は、そこにはなかった。
「……ったく、ここじゃドレスも泥だらけ。舞踏会もなければ贈り物もない。ねえ、どうして私がこんな地味な任務に回されてるのか説明して?」
誰にともなくつぶやく言葉。
それに応える者は誰もいない。
──外交任務、ですって?
それが与えられた“名目”だった。
魔物の被害が拡がる北方地域との信頼回復のため、王太子の婚約者候補が慰問と調整に赴く──という体裁。
しかし、ミリアンヌには分かっていた。
これは、王都からの「遠ざけ」であり、「手を汚さずに処理する」ための手段なのだと。
貴族の子女としての教養に乏しく、政務会議では発言のたびに周囲を白けさせた。
魔術の素養もなく、王立学院では基礎演習すらサボっていた。
それでも“顔が良くて社交に強い”という理由だけで寵愛を得たが──
最近のレオンハルトは、確実に彼女との距離を取り始めていた。
「……ねえ、私の価値ってそんなものなの? 王太子妃候補の筆頭でしょう、私」
思わず口にしたその言葉に、自分で苦笑した。
“王太子妃候補の筆頭”というには、あまりにも中身が伴っていない──
そんな噂は、既に社交界では囁かれていたのだ。
加えて、ここ砦ではミリアンヌに味方する者は皆無だった。
砦長は冷徹な軍人で、彼女の無理難題にもまったく応じようとしない。
兵士たちの視線も、貴族への畏怖というより、“扱いづらい客人”を見るような冷たさがあった。
それでも、ミリアンヌは「自分は特別」だという思いを手放せない。
「どうせすぐ王都に戻るのよ。王太子様が私を迎えに来るもの」
そう信じたかった。
信じていなければ、この“冷遇”に意味がなさすぎた。
だが、その幻想は──一通の報告で、音を立てて崩れ去る。
「報告します、ミリアンヌ様! 砦の門前に“セレナ=アルヴェリス”を名乗る魔導師が現れました!」
侍従の叫ぶような声に、ミリアンヌの血が凍る。
「──セレナ、ですって?」
あの女の名は、聞き間違えるはずがない。
「門を閉じて追い返しなさい! 今すぐ! 彼女に会う義理なんて、私には──!」
だが、外から響いたのは、雷鳴にも似た“魔力の唸り”だった。
砦が震え、窓が軋む。
魔物でも攻めてきたのかと錯覚するほどの、圧倒的な力の奔流。
そして数分後、砦の門は静かに開かれた。
開けたのは兵士たち──命令に逆らってでも、彼女を迎え入れねばならぬと判断したのだ。
──“力”の前に、誰も逆らえない。
「お久しぶりね、ミリアンヌ」
入ってきたのは、黒衣に身を包んだ一人の女性。
かつてのセレナ=アルヴェリスとは別人のような、荘厳な気配を纏っていた。
「ここまで来るなんて、ずいぶんと暇なようね……セレナ」
ミリアンヌは懸命に虚勢を張った。
だが、声は震え、目を合わせることすらできない。
「ええ。暇と言えば暇かしら。
でもあなたが“王都から排除された”って聞いて、少し気になって」
セレナの言葉に、ミリアンヌの顔が引きつる。
「は……排除? 私は“外遊”で──」
「そうなの? けれど奇妙ね。外交の知識もなく、政務にも魔術にも疎いあなたが、なぜこの砦を任されたのかしら」
ぐ、と言葉が詰まった。
セレナはふと、窓の外に目をやる。
「それに、ここ。魔物が出没して大変でしょう? まともな対策も打てていないと聞いたけれど?」
「そ、それは……軍の問題で……私の仕事じゃ……!」
「王太子妃候補ともなれば、軍政も理解していて当然でしょう?」
その皮肉に、ミリアンヌは怒りよりも恐怖を覚えた。
セレナの瞳が、見透かすように突き刺さる。
「……まあ、いいわ。民を見殺しにする趣味はないの。魔物退治は、私がやる」
「な、なによそれ……私を笑いに来たの!?」
「いいえ。ただの“挨拶”よ。──旧友として」
セレナは背を向け、砦を出ていく。
その背に、誰よりも多くの兵士と民が目を向けていた。
──数日後。
セレナは砦の周囲を“ほぼ独力”で平定した。
魔物は一掃され、村々は安堵に包まれた。
その成果に、人々は賞賛の声を惜しまない。
「セレナ様は、まるで本物の女王のようだ……」
砦に届く感謝の手紙、地元民からの歓待、兵士たちの尊敬の眼差し。
それらすべてが、ミリアンヌにとっては“敗北”の鐘だった。
──王太子妃候補なのに。
──ここにいるのは、私なのに。
誰も、彼女を見ない。
誰も、彼女を讃えない。
そして今、王都では──
王太子レオンハルトが“次の手”を考え始めていた。