旅立ちの魔導姫
朝靄に包まれたルミナリアの街は、何事もなかったかのように目を覚ました。
青い空に小鳥のさえずり、焼きたてのパンの匂いがどこかから漂ってくる。
人々の顔には笑みが戻り、子どもたちは水路のそばを駆けまわる。
──だが、確かにあったはずの“何か”は、誰の記憶にも残されていなかった。
この学術都市は、ある日突然凍りついた。
魔導による原因不明の時封結界。だが今は、そんな出来事すらなかったように、日々は滑らかに流れ始めていた。
その異変の真実を知る者は、今やただ三人だけ。
「……やはり、彼女の痕跡が残っていたよ」
そう語ったのは、ナルサス=アダンティス。
蒼の法衣をまとい、封印の石碑の前でひざを折る彼の眼差しは、どこか遠くを見ていた。
「構築式の痕跡、それに詠唱残響の波長。間違いないわ、あれは……セレナの魔導よ」
フィリア=ノーチェはそっと指先を石碑に添わせ、目を閉じる。
時封の檻を解いたのは、あの日追われていた少女──セレナ=アルヴェリス。
禁じられた古式魔導、すなわち超魔導。その痕跡が、微かにだが確かにそこに残っていた。
「セレナが……ルミナリアを救ったんだな」
言葉少なにそう呟いたのは、アレン=カイル。
彼はただ拳を強く握りしめていた。
その場に、セレナの姿はなかった。
封印が解かれたその瞬間から、彼女の気配はこの地からふっつりと消えていた。
──だが、死んだわけではない。
「……彼女は、自らの力であの檻を壊したのよ。命を賭ける形で」
フィリアが静かにそう告げると、ナルサスとアレンも深く頷いた。
彼女は生きている。だが戻らなかった。それは、自らが選んだ道だった。
「星読みの街でセレナに出会った後も、俺は何もできなかった、手助けも、着いていく事さえ……」
アレンの言葉に、重苦しい沈黙が落ちる。
王都による情報操作、旧王家残党による陰謀、そしてセレナが巻き込まれた運命。
それらすべてが、一人の少女の肩に、あまりに重くのしかかっていたのだ。
だからこそ──
「彼女は、一人で旅立ったのよ。誰の責も問わず、ただ自分の意志で」
ルミナリアの人々は記憶を失い、何事もなかった日々を生きている。
王都もこの一件を都合よく葬り去るつもりだろう。
ならば、この事実を背負うのは、自分たちだけでいい。
三人は互いに目を合わせ、静かに頷き合った。
「彼女の帰る場所を……必ず、私たちが守っていよう」
ナルサスがそう口にしたとき、東の空に朝日が差し込んだ。
まるで、遠い旅路の果てにいる彼女を照らすように。
───
山間の細道を、一人の少女が歩いていた。
外套に身を包み、フードを深くかぶるその姿。
背には古びた杖。足取りは、決して軽くはない。
だが確かな意志と共に、前を見据えていた。
セレナ=アルヴェリス。
かつて王都に追われ、数多の陰謀に巻き込まれた少女。
だが今、彼女の瞳には、追われる影も、迷いもなかった。
(……まだ、私は何も終えていない)
ルミナリアを救ったことは、確かに彼女の力だった。
だがその力でのせいで……人々の平穏を脅かした一因が、自分の存在だったならば──
(私は……誰かの守りたい日常を、守る側にならなくちゃいけない)
かつては弱く、追われ、奪われるだけだった。
だが今は違う。
この世界の不条理に、運命に、真っ直ぐ立ち向かう意志が、彼女の中に芽生えていた。
吹きすさぶ風が、山の尾根を越えて彼女の髪を揺らす。
それでも、少女は前を向く。
誰に知られずとも、誰に褒められずとも、
彼女の旅は、確かに続いている。
その一歩が、やがて世界を変える日が来るかもしれない。
だが今はただ、一人。静かに、確かに。
魔導の杖を、風に掲げて。
──少女は、歩き出した。