檻の向こうに揺れる月
静寂が広がっていた。
灰のような薄闇に包まれた石造りの大広間。その中心に、石造りの玉座がぽつねんと鎮座している。天井は高く、夜空を切り取ったような黒に染まっていた。灯火ひとつないのに、不思議とその空間は見えていた。
セレナ=アルヴェリスは、その場に立っていた。
対面に立つ男、イスクダール=アルステルは、既にその仮面を外し深淵のような鈍い光を宿していた。だが、その瞳には確かに「熱」があった。狂気か、執念か、それとも……。
「……知りたいか? お前の学府がどうして沈黙を保っているのかを」
イスクダールが口を開いた。声は掠れながらも、不気味なほどよく響いた。
セレナは答えない。ただその蒼銀の瞳を、鋭く光らせている。
「学府の中枢、魔導研究と歴史記録の本山――ルミナリアは、今、この手で《封じられて》いる」
「……封じた?」
「超魔導――“時の檻”。かつて存在した古代大陸の禁術を、我は完全再現した。時の流れを局地的に固定し、すべてを『凍結』する術だ。生命も、思考も、時間も、何もかもな」
セレナはほんのわずかだけ、拳を握った。ルミナリアの異常は、学府の中央塔から連絡が途絶えたその日から始まっていた。だが、誰もその原因を突き止められなかった。いや、「気づけなかった」のだ。
「お前の目には、無意味に見えるかもしれんな。しかし、我にとっては──『世界の秩序を取り戻す』ただ一つの方法だ」
老人はゆっくりと歩み寄り、玉座の前で足を止めた。
「この世界は、三百年前に道を誤った。我が王家を貶め、時の王都アルステリアを焼き払った反逆者たち……そして、勝者となった今の王政と、学府の連中だ」
「……だから、滅びた王家を、今さら復活させようと?」
「今さら、だと?」
声が低く、怒気を孕んでいた。
「時間の檻に囚われた我が臣は、未だ忠義を貫いている。かつての王女は幼くして火に飲まれた。国は散り、歴史は捻じ曲げられた。だが我は、“過去を正す”ために、この三百年を耐え抜いたのだ!」
セレナはその場から動かず、ただ静かにイスクダールを見ていた。
「それが、あなたの正義?」
「正義かどうかなど、知ったことではない。ただ、“正しい姿”に戻すだけだ」
しばしの沈黙があった。
「今一度聞こう、セレナ=アルヴェリス。ルミナリアを……元に戻したいのなら」
イスクダールが手を差し伸べた。
「お前のその力、そしてその血筋は、我が王家の末裔に極めて近い。共に来い。お前と我でなら、かつての“時”を取り戻せる」
沈黙。
セレナの口から、ひとつの吐息が漏れた。それは、悲しみとも、軽蔑とも、怒りともつかぬ色を帯びていた。
「何度でも言うわ、私は、“今”を生きてる」
それだけの言葉。
それだけで、イスクダールの目に殺意が灯った。
「ならば、お前もまた、時間の檻に沈めるしかないな……!」
瞬間、世界が歪んだ。
いや、歪んだように“感じた”。
玉座の間に無数の砂時計が浮かび上がる。すべてが逆さに、だが内部の砂は静止していた。イスクダールの手から、淡く白銀の魔力が放たれ、空間そのものが歪曲する。
(これは……“時の魔導”)
セレナは即座に詠唱を始める。だが、わずか一呼吸分、その口の動きが“遅れた”。
──干渉されている。
「遅いぞ、魔導姫……!」
イスクダールの杖が空を裂いた瞬間、無数の時の刃が襲いかかる。
セレナは回避ではなく、反魔導結界を展開する。時間干渉系統の術式は、通常の魔導障壁では防げない。応用術式《逆位構文》で、時のベクトルを無理やり反転させ、攻撃の流れを乱す。
「……甘く見ないで」
彼女の詠唱が終わった瞬間、地を穿つような魔力が炸裂した。青白く光る六芒星が展開し、彼女の周囲に複数の魔導円環が回転する。
「《星降りの神命》――」
一瞬、天井の闇が開け、星のような光が降り注いだ。
だが、イスクダールはその光のすべてを“停止”させた。
(星の動きすら止めるのか……!)
時間が完全に停止したわけではない。ただ、干渉の重ねがけにより、一定範囲内の運動エネルギーを全てキャンセルする。超魔導の中でも限られた者にしか扱えない禁術。
セレナの額に汗がにじむ。だが、その瞳に迷いはなかった。
「貴方が時を閉ざすなら……私は、その先を行く!」
彼女の全身から放たれる魔力が一層強くなる。魔力の波が、時間すらも震わせるほどに脈打つ。
超魔導による空間の歪みすらも気迫で押し返していた。イスクダールの白金の髪が宙に舞い、魔力の奔流が衣を翻す。
「時を…止めることなど、神の所業だと思っていたわ」
セレナの声は、張りつめた静寂を破る。
「我が術は神より預かりし理の延長。旧王家に与えられし“真理”だ」
イスクダールは冷たく応じた。目は決してセレナを見ていない。その視線は未来に縋りつく狂信の先へ。
「民は王家を求めていない。誰のためにそんなものを…!」
「黙れ、小娘が!」
瞬間、空気が弾けた。
イスクダールが振るった杖の軌道に沿って、時空が切断される。セレナの足元がぐにゃりと捩じれ、先刻の自分が同時に襲いかかる。
「《時折返し》…!」
セレナはすかさず身を翻し、〈瞬間符〉を空間に重ねる。分岐する時間の干渉を魔導式で押し戻し、未来から来た“自分”を消去した。
「お前の“現在”は、既に私の手の中だ」
イスクダールの言葉通り、攻撃は止まらない。彼の背後には、いくつもの“過去の自分”と“未来の自分”が幾重にも重なって現れ、同時に攻撃を繰り出す。時間の重ね撃ち――常識では到底対応できない、超魔導の極み。
だが、セレナの目は揺るがなかった。
(この術式構築速度…並みの魔導士なら一秒と持たない)
セレナは思考する。最短のルートで彼の心臓を突く構文。それは彼の支配する“時間”そのものを、別の“未来”で塗り替えること。
(ならば私は、あなたの“未来”を奪う)
彼女は静かに呪文を唱えはじめた。
「《構文展開――未来投影》…次元式相転移、因果の再記述……」
「なっ…貴様、何を…!」
イスクダールが初めて焦りの声を漏らす。セレナの周囲の空間が明るく染まり、宙に無数の光文字が浮かび上がる。
それは“未来”を文字に変換し、言葉の力で再構築する魔導――“未来構文”。
「あなたの術式は“過去”と“現在”を支配する。でも…私は、“未来”を編む」
「くだらん理屈だァァァ!!」
イスクダールが杖を振り下ろす。天井が消滅し、空間が断裂するように開かれた。しかし、その全てを、セレナの展開した術式が受け止めた。
光の奔流の中、セレナの瞳は真っ直ぐに彼を見据える。
「王家も、運命も、あなたの“時”も――すべて、この手で断ち切る!」
最終構文――《未来再構築式・終宣ノ文》が完成した。
セレナの一言が、世界を塗り替える。
「まさか!?貴様!私の時を動かすつもりか!?」
「時の流れに背く咎をただ戻すだけ……さよなら、時に囚われた、ただの哀れな人――《閉幕》」
「くそおおおおお!!」
絶叫、そしてその後の静寂。
次の瞬間、すべてが終わった。
イスクダールの本来の時を刻むように急激な老化に蝕まれ崩れ落ちていった。
残されたのは、イスクダールの魔導の檻に封じられた“ルミナリア”だけ。
その場に残された時計仕掛けの魔導球体。それが「時の檻」だった。
セレナはその檻へと歩み寄る。
まだ息は荒く、魔力も残り少ない。それでも彼女の足は迷わなかった。
封じられたルミナリアの全機能。意識も、時間も、情報も、あの中で静止している。
──壊すしかない。
だが、それにはイスクダールを超える、さらに精密で巨大な超魔導式を展開しなければならない。
命を削る。いや、使い尽くす覚悟が必要だ。
セレナは、目を閉じた。
「……やれる。私は、“今”を守るために生きてきたんだから」
そして再び目を開けた時、彼女の瞳には、一片の迷いもなかった。