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虚月の追跡者

――月は、そこにない。


深夜の霧谷。谷底は濃霧に包まれ、空すら見えなかった。

草木も囁きをやめ、獣すら足音を潜めるこの地は、外界から断絶された“沈黙の空白”。


その最奥に、セレナ=アルヴェリスはいた。


彼女は小さな灯火のそばで、獣の骨を研いでいた。

簡素な食事を作るための下処理――のように見えたが、指先の魔力は常に、何かに備えるよう研ぎ澄まされていた。


一切の気配も、音も、兆しもなかった。


だが――セレナの瞳が、ふと上を向いた。


霧を裂くように、黒衣の影が降りてくる。

それは音も風も巻き起こさない“死の訪れ”だった。


黒の外套。銀色の無機質な瞳。

刺客――イェルザ=クローネ。


その存在には、人間的な感情も体温も欠けていた。

ただ、命令された任務を遂行するだけの人形。

だが、彼女は虚月の影の中でも、もっとも成功率の高い“処理者”だった。



虚月の影――

それは、王都の魔導機関にも情報が届かぬ、超法規的存在。


裏の権力者たちが作り出した、魔導暗殺と封印術の秘密組織。

彼らの目的は表向きには「国家秩序の維持」とされているが、実際は――


「制御できない魔導の才能の排除」。


セレナ=アルヴェリスは、その筆頭だった。


天賦の魔導素質。全属性への適性。

結界術、封印、霧、炎、雷、そして“時”さえ感知する可能性。


それは、「制御不能」という烙印とともに、虚月の影の標的リスト最上位に名を刻まれていた。



イェルザは、何も告げず。

セレナも、何も問わない。


ただ一歩、影が近づき――

次の瞬間、世界が“戦闘空間”へと切り替わった。


「……!」


銀の魔導刃が、風を裂いて走る。

無詠唱の氷魔法が四方から展開され、霧すら凍らせる。


――だが。


セレナは目を伏せたまま、右手を小さく振った。


その瞬間、足元から岩の壁が隆起し、氷の刃を弾いた。

火花が散り、逆風が舞い、さらに背後から炎の槍が逆襲する。


《双属性展開・紅蓮穿岩》


イェルザの瞳が、わずかに見開かれた。

セレナが使ったのは霧ではない。

炎と土――精密に組み合わせた即興の複合魔導。


(反応速度……異常)


思考よりも速く、セレナは間合いを詰めていた。

彼女の左手には雷の残滓が走っている。


《雷鎖束縛・連式》


雷が編み上げた鎖が、イェルザの脚を絡め取ろうとしたその時――


イェルザの背から、黒い符が無数に散らばる。


《術式解離・無象反転》


虚月の影が誇る暗殺術。相手の魔導式を一瞬だけ“無効”にする、術式そのものへの介入。


雷が霧散し、イェルザの身体が跳躍する。


再び暗器が数本、空を裂き――


その刃がセレナの肩に食い込む。

……はずだった。


直前で霧が濃密に凝固し、刃を受け止めた。

その霧は、氷よりも硬く、鋼よりもなめらか。


(また、霧……だけど、違う)


イェルザは瞬時に解析を試みた。


これは、ただの霧ではない。


風・水・土、そして光を精密に編み込んだ、五属性融合型の防御魔導だった。


人間にここまでの構成が可能なのか――

そう思った時には、イェルザの右手が、封じられていた。


セレナの術式が、完全にその魔力回路を封じていたのだ。


《封界式・六芒逆流》


イェルザは動けない。

それでも、眉ひとつ動かさなかった。


セレナは何も言わず、ただ小さな瓶を彼女の足元に置いた。

中には、深緑の薬草が数枚、沈んでいた。


「これは、“痛み止め”。……あなたには必要ないかもしれないけれど」


そう言って、彼女は踵を返す。


その背は、隙だらけだった。

だがイェルザは動かなかった。


それは、“殺されなかった”という事実が、感情を持たないはずの彼女の中に、何かを残したからだった。


セレナが、霧の中に消えていく。


無言のままに。


ただ、イェルザの心の底で、初めて“感情”に似たものが芽生えた。


「……どうして」


その囁きは、誰にも聞かれなかった。

だが霧の向こう――沈黙を貫く魔導姫の背には、確かに“誰かを救いたい”という祈りがあった。



そしてその日、虚月の影の長老たちは、報告を受けた。


「……イェルザ、敗北?」


「いや。情報を得たにすぎぬ。セレナは、全属性を操る。しかも“意志”に従っている」


「制御不能どころか……彼女は、制御しているというのか」


「ますます放置はできぬ。次は“あれ”を使うか――」


影の中で、さらなる策謀が渦巻いていた。


そして、セレナはその気配を……もう、感じ取っていた。


霧の奥で、静かに目を閉じる。

次の嵐が迫っていることを知りながら、なお、彼女は歩みを止めなかった。

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