霧の峡谷にて
辺境南部。
王都から遠く離れた峡谷地帯――“霧の峡谷”。
この地では年の半分以上、濃霧が立ち込め、昼でも日が差さない。
地元の人間すら、外から来る者を警戒し、極力関わらぬよう暮らしている。
そんな峡谷の端に、小さな村があった。
石を積み上げた家々と、わずかな畑。
豊かではないが、静かで平和な日常が息づいていた。
その夜。村の集会所の裏手――。
「おねえちゃん、だれ……?」
土の匂いが残る床の上。
ぼんやりと明かりが灯る中、ひとりの幼い少女が立っていた。
少女の前に立っていたのは、フードを深くかぶった一人の旅人。
月明かりに照らされて、その人物が女性だとわかる。
セレナ=アルヴェリス。
彼女は、何も言わなかった。
ただ、黙って少女の手に一枚の布を渡した。
「……これは?」
少女の手の中にあったのは、乾いた薬草を包んだ手製の包み。
「弟……熱、さがる……?」
微かに震える声。
セレナは、ゆっくりと一度だけ、頷いた。
それだけで、少女は目を潤ませながら何度も頭を下げ、家へと走っていった。
⸻
深夜、村の裏手。
セレナは焚き火を遠巻きに見つめながら、腰を下ろしていた。
「……」
誰にも気づかれずに、霧の中で息を潜める。
彼女はこの村に“滞在している”のではなかった。
ただ、立ち寄ったにすぎない。
彼女にとって、今や世界は“通り過ぎる場所”に過ぎなかった。
それでも――。
「……誰かが、生きていればいいのよ」
その言葉は、声にならないほど小さく、霧に溶けた。
⸻
だが、その静寂は長くは続かなかった。
未明、村の外れで叫び声が上がる。
「おい!なんだあれは――!」
「魔導兵器か!? いや、ちが……っ!」
森の向こう、ぼんやりとした霧の中から現れたのは――
賞金稼ぎの一団だった。
鉄鎧に身を包み、腕には魔導抑制の符印。
手には王都発行の正式な指名手配書を握っていた。
「“沈黙の魔導姫”。いるんだろう? ここに」
「大人しく出てこい。お前が災厄を呼んだんだろうが!」
村人たちは混乱し、戸を閉め、子供を抱えて震えた。
その時――
霧の中から、一人の影がすっと現れた。
その者は、まるで音も立てずに賞金稼ぎたちの前に立つ。
「……っ!?」
「女ひとり……? なんだ、てめえ……」
「違う。あれは……!」
背筋を這い上がる冷気。
まるで、霧そのものが動き出したかのように、彼女はそこにいた。
セレナは一言も発さず、ただ指先を上げる。
空気が凍りつくような“沈黙”。
その一瞬後――
《展開術式・零距離・霧刃連鎖》
霧が形を変え、細く鋭い刃となって襲いかかる。
一人、また一人と地に伏す賞金稼ぎたち。
誰も彼女の足元にすら届かない。
その魔導は、ただ“無駄のない制圧”。
「ぐ、ぐわあああっ!」
「こいつ……怪物……!」
恐怖に駆られた最後の一人が、仲間を放り出して逃げ去る。
⸻
朝。
村人たちは何も見なかったふりをした。
だが、あの少女だけは――
「おねえちゃん!」
息を切らして走ってきた少女は、セレナの背に声をかけた。
「ありがとう……! 弟、熱さがったよ!」
セレナは、立ち止まる。
そして――
何も言わずに、少しだけ、顔をそらした。
そのまま、霧の中へと歩き出す。
少女の「ありがとう」が、いつまでも、いつまでも追いかけてくる。
だがセレナは、振り返らない。
⸻
世界は、まだ彼女を誤解したまま。
それでも彼女は、生きている。
誰かのために。
誰にも知られずに。