霧の先、声もなく
魔導学府ルミナリア――その象徴的な尖塔も、煌びやかな講堂も、今や何一つ存在していない。
ただ、ぽっかりと空いた“空間の穴”だけが、そこにあった。
辺境エリア第七区画、標高千メルタの山上に築かれていた学府の跡地には、赤黒く焦げた痕すら残されていない。
まるでそこに何も存在しなかったかのように、静かすぎる風が吹いていた。
「……これは、どういうことなのだ……?」
魔導庁の調査官が呻く。
数日遅れて現地入りした王都魔導騎士団も、目を疑っていた。
全てが――“消えていた”。
教師も、生徒も、備品も、蔵書も、建物も。
すべてが一夜にして消滅。結界記録も、霊子観測も、記録水晶すら途中で途絶え、“事実”が存在していない。
唯一、確認されたのはただ一人。
セレナ=アルヴェリスの存在反応だけだった。
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「魔力暴発による大災害。中心反応は、彼女のものだと確認されている」
「……残念だな。希望の象徴だと持ち上げた矢先に、これは世論も持たん」
「首都議会は“処分”を正式に決定した。国家的脅威と見なし、懸賞金付きの指名手配に――」
魔導庁の長官が、机の上に指名手配書を静かに置く。
《指名手配書:セレナ=アルヴェリス》
《罪状:高等魔導暴発の疑い・学府壊滅への関与・不正研究の容疑》
《危険度:S+ 懸賞金:1000万セルド》
無表情の少女の肖像画。その下に、太字でこう記されていた。
――“沈黙の魔導姫”に警戒せよ。
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世界は、彼女を追い始めた。
その背後に何があるのかも知らず。
その指先が誰を救ったのかも知らず。
ただ“異常事態”の帳尻を合わせるため、彼女という名の“希望”を断罪しようとしていた。
だが――
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霧の森。深夜。
獣道にも満たぬ細道を、セレナ=アルヴェリスは一人、歩いていた。
もう制服はない。
代わりに、辺境で見つけた軽装の戦術コートと、霧をまとわせる魔導具のフードをかぶっていた。
口数は少ない。
目の奥にある感情は誰にも読めない。
けれど、彼女の動きは確かに生きていた。
小さな村の薬屋で、病人のために薬草を届けた。
孤児院の薪が尽きた夜、静かに薪棚が満たされた。
名を告げることはない。
誰にも顔を見せない。
それでも、誰かの“生”をそっと助けていた。
――セレナは、今も魔導を使っていた。
だがそれは、かつて学府で語った信念そのまま。
「魔導は、人のためにある」
その言葉を、彼女だけが貫いていた。
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だがその頃、王都の裏では、動き始めた者たちがいた。
「沈黙の魔導姫が生きている以上、放ってはおけん」
「彼女は……“あれ”に近づきすぎた。消えたルミナリアの真実にも、だ」
「さて……どの刺客を送るべきか」
一枚の地図が広げられる。
その中心、赤い印が付けられた――“霧の谷”。
そこに、セレナがいると推定されていた。
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夜明け。
フードを下ろし、木の根元に腰掛けるセレナの横に、ふと一羽の小鳥がとまった。
その小鳥は、不思議そうに彼女を見つめて、軽く囀る。
セレナは言葉もなく、小さく微笑んだ。
それは、誰にも見せたことのない、ほんの僅かな、微笑。
彼女の物語は、まだ――終わっていない。