風は未来に吹いている
魔導学府ルミナリア。
事件の爪痕は、まだ至る所に残っていた。
破損した結界石の修復、倒壊しかけた封印区画の補強、そして何より――混乱の中心にいた“セレナ=アルヴェリス”という存在を、誰もが口にするようになっていた。
だがその騒ぎから少し離れた、西塔の静かな展望回廊。
二人の教師が、遠く霞む学府の空を見つめていた。
「まさか、こんなことになっていたなんて……」
フィリア=ノーチェは、胸元を押さえるようにしながら、小さく息を吐いた。
「封印区画の魔物が目覚め、貴族派の教師たちが逃亡……。戻ってきた時には、すでに彼女が全てを鎮めた後だった」
隣に立つナルサス=アダンティスも、目を細めたまま黙っていた。
「彼女がいなければ、学府はどうなっていたことか……」
「――でも、彼女は“自分が全部やった”なんて、一言も言わなかったの」
「……ああ」
フィリアは、事件後に行われた非公式の聴取の内容を思い返していた。
セレナは、誰かを責めることもせず。
称賛されても、誇らしげに胸を張ることもなかった。
ただ、こう言ったのだ。
「皆を守れて、よかったです」
その一言が――何よりも、重く、まっすぐだった。
「私は……教師として、彼女に何を教えられるのかしら」
「同じことを、俺も考えていたよ」
ナルサスがぽつりと呟く。
「封印を破ったのは、確かに愚かな教師たちだった。だが、その“暴走”を誰よりも冷静に見極め、対処したのは――生徒だった」
「そうね。学ぶべきは、むしろ私たちの方だったのかもしれない」
「……いや、違うな」
ナルサスはふと、空を見上げた。
「俺たちは、ようやく“教えるべきもの”に出会ったんだ。魔導の本質、魔導が誰のためにあるのか。その問いに、答えを持っている生徒に」
フィリアの目に、光が宿る。
「セレナ=アルヴェリス……。きっと彼女は、“象徴”になるわ。これからの時代を変えていく、風のような存在に」
その言葉に、ナルサスはうなずいた。
「風、か。……なら、俺たちも、その風が吹きやすいように、余計な障害を取り除く役目を果たそう、今度こそ……」
「ええ。きっと、それが“教師”としての、私たちの誇りの持ち方」
風が吹いた。
魔瘴ではない、春の終わりを告げる柔らかな風が。
⸻
その頃。中庭の一角。
セレナは、咲き始めたばかりの白い花を見つめていた。
「……今年も、咲くのね。ちゃんと」
柔らかく微笑む彼女の背後に、小さな声がした。
「セレナさん!」
駆け寄ってきたのはティナ=フェルゼ。
そしてその後ろから、アレン=カイルも少し照れたように歩いてくる。
「すごかったですよ、ほんとに。今、皆がセレナさんの魔導陣の構成真似しようとしてて……学内の補習がめちゃくちゃです!」
「……あら、それはちょっと、困ったかも」
セレナは小さく笑う。
その後ろから、制服の裾をきちんと整え、姿勢を正して歩いてくる一人の少女の姿。
「失礼します、セレナ先輩……!」
整った声でぴしっと言葉をかけたのは、シィナ=ローレット。
魔導理論において学内でも頭角を現してきた彼女の瞳にも、いまや“尊敬”以上の何かが宿っていた。
「無事で……本当によかったです」
シィナは、姿勢を正したまま深く頭を下げた。
「ありがとうございます……。私……何もできなくて、でも、先輩が学府を救ってくれて……」
「落ち着いて、シィナ。顔、上げて」
セレナが優しく声をかけると、シィナはぴくっとして、頬を赤らめながら顔を上げた。
その笑顔に、アレンがぼそりと呟いた。
「……でも、皆、憧れてるよ。あの時のセレナの姿に」
「私なんて、ただ必死だっただけよ」
「それでも、あの場で立ってたのは……セレナだけだった」
ティナも頷いた。
「私たち、もっと頑張ります。セレナさんみたいに、誰かを守れる魔導士になりたいから」
「……ありがとう」
セレナは、視線を花に戻した。
(私は、追い出された。大切なものを、たくさん失った)
(それでも、今――)
「……支えてくれる人がいて、笑ってくれる人がいて、信じてくれる人がいる」
かすかに風が吹いた。
花が揺れ、日差しが差し込む。
「誇りって、きっと……奪い合うものじゃない。……支え合うものだって、今なら言える」
誰にともなく呟いた言葉が、静かに風に乗って消えていった。
――魔導学府ルミナリア。
その中庭に立つ一人の少女の姿を、誰もが記憶している。
風が吹いていた。
未来へ向かって――まっすぐに。
魔導学府編は終わりです。
読んでいただきありがとうございました。