さざ波と密告者
魔導学府ルミナリアの朝は、いつも静かだ。
だがその静寂は、ほんの小さな波紋で揺れる。
その日――
学府内にひそかに出回った一通の匿名書簡が、波紋の中心だった。
『元侯爵令嬢セレナ=アルヴェリスは、王都追放処分を受けた“穢れた血”にして、学府の秩序を乱す危険人物である』
一部の貴族派生徒の間でささやかれたその文言は、たちまち風評として広がり、セレナの元にまで届いた。
***
「……ふぅん。誰かと思えば、今度は手紙ね」
昼休み、資料整理を終えたセレナが、手紙の写しを机に置く。
その瞳は冷静だが、明らかに“何か”を読み取っていた。
「狙いは明確ね。私を孤立させること。それと……アレンの存在も」
先日の実験成功は、貴族派の教師や生徒たちにとって大きな打撃だった。
無名の生徒、しかも“問題児”と呼ばれていたアレンが正当に認められたことが、既得権を脅かしたのだ。
「でも、あまりにも稚拙すぎる」
彼女はため息をつくと、そっと指で紙を撫でた。
「これ、間違いなく内部の誰かね。文章の癖に“ルミナリア内部文書”の言い回しが混じってる」
(……誰かが、動き出した)
セレナは静かに立ち上がった。
***
夕刻。学府の裏庭。
小さな木陰で、アレンが魔導書を開いていた。
「アレン」
セレナの声に、アレンが顔を上げる。
「……おう。なんか、騒がしくなってきたな」
「ええ、ちょっとした微風が吹き始めた感じ」
セレナは彼の隣に腰を下ろし、鞄から封筒を取り出した。
「これ、私のとこに届いたわ。内容はご想像通り」
「……チッ。誰だよ、こんなこと……」
アレンは拳を握りしめるが、セレナはそれを軽く抑えた。
「怒らないで。こういう時こそ冷静でいるべきよ。敵が本当に恐れているのは、感情に流されない者なの」
「……強いな、お前は」
「そんなことないわ。ただ、何度も倒されて、何度も立ち上がっただけ」
その言葉に、アレンはしばし沈黙する。
「なぁ、セレナ。もし俺が……何かあったら、お前はどうする?」
「助けるわよ。私の仲間だもの」
即答だった。
「……バカだな」
「また言ったわね」
笑い合う二人の影。
だがそのやりとりを、物陰から見つめる影があった。
「ふふ……セレナ=アルヴェリス。確かに、面白い女だ」
隠れた場所にいたのは――副学長の側近であり、情報官でもある男。
その手には、また別の密告書の写し。
『副学長ヴェルディ=アウステルが、私的に研究予算を横領している可能性がある』
「さて、こっちは、どう料理しようかね……」
彼の名は、リオ=ラストリス。
表向きは無害な事務官だが、学府の“内情”を最もよく知る裏の顔を持っていた。
(もしかすると、このセレナという少女は、“古き腐敗”を洗い流す鍵になるかもしれない)
静かに笑う彼の瞳に、わずかな期待が宿る。
***
その夜。
フィリア=ノーチェの私室では、緊急の書類整理が行われていた。
「フィリア先生、こちらの名簿……」
「ありがとう。これで追跡は進むはずよ」
机に広げられたのは、過去十年分の貴族派学生名簿。
「セレナを巻き込ませるわけにはいかない。けれど、きっと彼女なら、この“膿”に光を射すはず」
静かに呟くその瞳に、信念の炎が灯っていた。
***
――そして、再び朝が来る。
匿名書簡は消えない。
噂も絶えない。
だが、セレナ=アルヴェリスの歩みは止まらなかった。
風評には微笑みで。
陰謀には理と誇りで。
彼女の歩く道は、ただ真っ直ぐで静かだった。