無垢なる問い
魔導学府ルミナリア。
午後の実技講義が終わった後、セレナ=アルヴェリスは再び図書塔へと足を運んでいた。
先日出会った少年――アレン=カイルのことが、どうしても気になっていたのだ。
(あの子、魔導の素質は確かだった。だけど、あの目……諦めた人間の目だった)
書架の間を進むと、やはり今日も彼はそこにいた。
魔導書を開いたまま、ぼさぼさの黒髪の下で、鋭くも陰を宿した瞳がページを追っている。
「こんにちは。今日も来てるのね」
声をかけると、アレンは肩を跳ねさせた後、軽く睨むような視線を向けてきた。
「……また“お姫様”かよ。気まぐれで“落ちこぼれ”を哀れんで楽しい?」
「そんなつもりじゃないわ。ただ、あなたと少し話したくて」
セレナは自然に笑って、隣の机に腰を下ろした。
アレンは鼻を鳴らしたが、昨日のような棘はどこか緩んでいた。
「……別に止めないけどさ。勝手にすれば」
セレナは少しだけ視線を横に向け、彼が開いている書を見た。
「“転相陣形の不安定化”ね。昨日も、そのあたりを見てたわよね」
「……興味があるだけだよ。講義じゃこのあたり、まともに扱わないし」
「それなら、聞いてほしいことがあるの」
セレナはそう言って、懐から一枚の紙を取り出した。
そこには、魔導研究補助員の仮登録証明が記されていた。
「これは……?」
「あなたを“研究補助員”として、正式に申請したの。すでに受理されたから、次からこの図書塔も、堂々と使っていいわ」
アレンの目が、驚きと戸惑いに見開かれる。
「な、なんで……? 俺のこと、そんなに信じられるのか?」
「ううん、信じたいのよ。昨日あなたが言ってた“教えてくれない”って気持ち、私も知ってる。だから、見て見ぬふりなんてできなかった」
アレンは黙り込んだ。
そして数秒後、机の縁をじっと見つめながら、ぽつりとつぶやく。
「俺……入学してすぐ、魔力制御の事故で暴発させた。誰かを傷つけたわけじゃない。でも、それ以来ずっと“問題児”扱いだ」
「……誰も、正面から話を聞いてくれなかったのね」
「教師も、生徒も、みんな俺を避ける。授業にすら呼ばれない日もある。だから一人で勉強した。でも……どうせ意味ないって思ってたんだ」
言葉の最後は、自嘲気味な笑みになっていた。
だが――セレナの瞳は、静かに、強く輝いたままだった。
「アレン、私もね、“何かを信じることがバカみたい”だと思った時期があったの。でも、それでも魔導は私を裏切らなかった」
「……それって、お前が強いからだろ?」
「違うわ。弱いから、信じるしかなかったの。でもね、信じたから、私に魔導が応えてくれたの」
アレンは視線を伏せたまま、拳を握りしめる。
「……もし、俺にも、何かが残ってるなら」
「きっとあるわ。だって昨日、あなたの手元の魔導式は、あの年齢で自分で解読したにしては正確だった」
「……見てたのか」
「うん。すごいと思った。本気で、感心したの」
不意に沈黙が落ちる。
だがその沈黙は、どこか心地よいものだった。
やがてアレンが、小さくつぶやく。
「俺の……魔導、まだ生きてるのかな」
「ええ、間違いなく」
セレナは、にっこりと笑った。
***
その夜、アレンは一人、寄宿舎の屋根裏に座っていた。
薄暗い天窓から見える月を見上げながら、胸の奥に浮かんだ想いを、言葉にしてみる。
「……信じてみても、いいのか……?」
まるで誰かに問うように。
そして翌朝。
図書塔の入り口に、先に来ていたセレナの前に、アレンが現れた。
制服は昨日よりも少しだけきちんと整えられていた。
「……昨日の術式、もうちょっと聞いてもいいか?」
「もちろん!」
その一言に、セレナの笑顔が、ぱっと花開く。
少年の心に芽生えた希望が、今、静かにその歩みを始めようとしていた――。