霧の中の共鳴
「話がある。……君のその“正義”、もう少し詳しく聞かせてほしい」
部屋の扉を開け、そこに立っていたのは、昨日模擬戦で相対したアーデル=ロヴァンだった。
その表情はどこか戸惑いを含みつつも、確かな意志を湛えている。
セレナは一瞬だけ目を瞬き――やがて静かに微笑んだ。
「ええ、どうぞ。お茶でも淹れましょうか?」
「……ああ、助かる」
応接用の小さなテーブルに、セレナが茶器を並べる。
辺境から持ち込んだ、少し古風な香草茶の香りが、部屋の空気をやわらかく包んだ。
アーデルは背筋を伸ばして椅子に座ったが、手元の湯気に視線を落としながら、しばらく言葉を探すように黙っていた。
「君は……なぜあそこまで堂々と“貴族”に楯突ける?」
「楯突いてるつもりはないの。歪んでいるものがあれば、直そうとするだけ。魔導って、本来は誰のものでもないはずでしょう?」
セレナはそう言って、机の端に置いた巻物を広げた。中には、精密に描かれた魔法陣が並んでいる。
だがそれは、見たこともない形式で組まれていた。
「これ……君が?」
「ええ。霧の性質を利用した結界式。基礎理論は全て“応用ありき”で教えられるの」
アーデルが息を呑む。魔法陣の一つひとつが、“教本”のそれとは違い、理論が深い。それでいて整然としている。
「君の使った霧の魔法……“あれ”か」
「見せたかったの。私が信じる魔導の在り方を」
セレナは霧のように柔らかい声で言う。
言葉には押しつけがましさも誇示もない。ただ、信じているという静かな強さがある。
アーデルは視線を巡らせ、巻物の一枚を手に取った。そこに記されていたのは、対象の魔力量を増幅・循環させる補助陣――
極めて高度な術式で、しかも精度も安定性も極めて高い。
「こんな魔法、中央の学府でも研究されていない……」
「そうかしら。でも、“人のための魔導”を突き詰めると、自然とこうなっていくのよ」
アーデルはその言葉に、小さく笑った。
「……君は本当に“おとぎ話”みたいな人間だな」
「よく言われるわ」
一瞬、ふっと場が和らぐ。
だが、アーデルはすぐに真顔に戻った。
「俺の父も……君と似ていた。理想に燃えて、腐った制度を変えようとしていた。だが潰された。派閥に、貴族に、そして“王都の理事会”に」
その言葉には、いまも癒えない痛みが滲んでいた。
「私はあなたがどのような境遇で、なにを感じ、歩みを進めて来たのかを知らない。でも、何も知らないからこそ言えるわ」
「……なんだ?」
「諦めた人の上に、未来は築けない。誰かが歩き続けなきゃ。たとえそれが、痛みを伴う道だとしても」
アーデルはその言葉を、じっと見つめるように聞いていた。
そして……静かに、頷いた。
「君の正義、今はまだ……羨ましいだけだ。でも……知りたいと思った。本当に、それがこの世界を変えるのか」
セレナは笑みを浮かべる。
「なら、見ていて。私は止まらない。どんなに冷たい風が吹いても――」
「……その背中、少しだけ預けてみてもいいか?」
「あら、頼もしいこと」
淡く笑うセレナの表情に、アーデルは初めて、心の奥から微かな安堵を覚えた。
二人の間に流れる空気が、静かに変わる。
――その夜。
アーデル=ロヴァンは、夜の回廊を一人歩いていた。
脳裏に焼きついたのは、あの魔法陣と、それを描いた少女の瞳。
(本当に……あれが、“辺境”の魔導?)
自分が教わってきた“貴族の誇り”が、脆く感じるほどに、彼女の姿はまっすぐだった。
(俺が、信じるべきだったものは……)
彼は立ち止まり、月の光に照らされた窓の外を見つめた。
そして、小さく呟く。
「……ようやく、少しだけ見えた気がする。父の夢の、その続きを」
風が窓辺のカーテンを揺らす。
その音が、まるで“何かが始まった”ことを告げているようだった。