静かなる寝返り
王宮の一角。
書簡が飛び交う密やかな回廊――そこは“王宮諜報局”と呼ばれる、闇の中枢だった。
その中心に座すのは、痩身で無表情な男。
ハルトムート=ノイエン。
王宮随一の情報官。王太子レオンハルト=シュトラールの片腕にして、王国内に張り巡らされた情報網の総責任者。
「……ラインベルクの件、確認済みです」
無機質な声で、報告書の一枚を机に置いた。
「証拠は完璧。
発信元の秘匿も、情報操作の痕跡も見つからず。おそらく――“魔導”による記録干渉」
彼の言葉に、レオンハルトは目を伏せた。
「……やはり、セレナか」
「十中八九。彼女が使った術式は、記録改変の領域に踏み込んでいる。もはや通常の捜査網では捕らえられません」
「この復讐劇、次は私だとでも?いや彼女が私に弓をひくはずなど……くそっ!」
レオンハルトも焦りで言葉を荒げる。
数日後――王都郊外の古書店にて。
ノイエンは奇妙な書簡を受け取った。
差出人は不明。封筒は無地。
ただ中に挟まれていたのは、極めて異質な“記録魔導紙”だった。
彼は警戒しながらも、それを読み取る。
《王太子の足元は、既に腐り始めている。
その証拠は、貴殿の記録庫にも眠っているはず》
《真実が欲しいなら、“双月の庭園”へ。
一夜限り、あなたのために扉を開く――魔導姫より》
ノイエンの目が細くなる。
(私を誘っている? セレナ=アルヴェリスが――この私を)
その夜。
王都の外れ、“双月の庭園”と呼ばれる廃園にノイエンは現れた。
すると霧が立ち込め、空間が歪んだかのように現れる少女の姿。
セレナ=アルヴェリス。
「ようこそ、情報官殿。
貴方の“理性”を信じて、ここに呼びました」
ノイエンは無言のまま構える。だが魔法障壁は展開していない。
「貴方の忠誠は、王太子に対する“確信”から来るものでしょう。
ならば――私はその根本を問い直しに来たのです」
セレナは淡々と、そして緻密に語り始めた。
ラインベルクの汚職証拠。
政庁高官の買収記録。
そして何より――王太子が見逃してきた不正の山。
「……全て、貴方の網をすり抜けた情報。あるいは、黙殺されたもの」
ノイエンは初めて、感情の色を浮かべた。
「……なぜそれを、君が知っている」
「記録を視る魔導。
そして――貴方が気付かぬふりをしてきた記録の“深層”に、私は踏み込んだ」
彼女は懐から一冊の魔導書を取り出す。
それは王国の政記録――誰にも見せられない、真実の記録を書き換える魔法。
「貴方には選択肢があります」
セレナは囁いた。
「“正義”と“忠義”――どちらを選ぶか。
この国を蝕む腐敗に目を瞑るのか、それとも……」
ノイエンは沈黙したまま立ち尽くしていた。
その顔からは、かつての冷徹さが薄れ、ただひとつの迷いが滲んでいた。
その翌日。
王宮情報局に、一通の書簡がひっそりと届く。
《王太子殿下――
セレナ=アルヴェリスの動向に関する特機密報告、停止を要請する。
理由:該当人物の国家的有益性の可能性を再調査中のため》
署名――ハルトムート=ノイエン。
そして、セレナは一人呟く。
「まずは、王太子の“目”を封じた。次は――その心臓に、私の刃を突き立てる番よ」
復讐の舞台は、いよいよ最終章へ。
王国に愛され、未来を託される王太子。
だがその玉座に、かつて捨てた少女が迫る。