冷酷なる署名者
夜明け前、セレナ=アルヴェリスはひとり、王都の高台にある旧兵舎跡から街の灯りを見下ろしていた。
イヴェリンを“失脚”させた復讐の炎は、着実に王都の中枢へと届きつつある。
(残るは――あと一人)
処分命令書に署名した貴族たち。
セレナを“消す”ことに合意した、あの三名の中でも最も危険な存在。
ガルフォード=ラインベルク。
王国を実質的に動かすとまで言われる、名門ラインベルク家の当主。
宰相代理の立場にあり、老いた宰相に代わって政を取り仕切る、冷徹な実力主義者だ。
イヴェリンとは違う。
政敵を潰すことなど、呼吸と同じように行う相手。
「彼を討つには……わずかな隙も許されない」
セレナは小声で呟く。
けれどその声音には怯えはなかった。あるのは、緻密な覚悟だけ。
昼下がり。王都・政庁。
ガルフォード=ラインベルクは、淡々と書類に署名し続けていた。
彼の周囲には緊張感が走る。軍部の将官も、行政の要人たちも、誰一人として軽口を叩かない。
だが――彼は、すでに気付いていた。
「……アルヴェリスの娘が動いているな」
老筆官が頷いた。
「イヴェリン様が潰されたのは偶然ではありません。
あれは――狙われたのです」
「愚かだな。復讐心で政を揺るがすなど、ただの子供の癇癪に過ぎん」
ガルフォードは冷たく一笑した。
だが、その手はすでに動いていた。
(セレナ=アルヴェリス。
お前がこの王都で“敵”と見なされるように、舞台を整えてやる)
数日後、王都の社交界で奇妙な噂が流れ始める。
「“辺境の魔導姫”は、いまや反王政の扇動者では……?」
「軍への不信を煽っているのでは?」
噂の出処は、王宮内の影。
ガルフォード配下の諜報員たちが、着実に情報操作を行っていた。
その流れに乗るように、一通の告発文が出回る。
【魔導姫・セレナ=アルヴェリスは、王国の法と秩序を無視し、私怨により政敵を陥れた】
セレナへの“断罪の布石”が、密かに敷かれていく。
だが――セレナはすでにそれを読んでいた。
「ラインベルク。あなたは、情報と策略で私を葬ろうとしているのね」
彼女は静かに、王立図書館の奥で魔導書を開く。
そして、ページをめくるたび、魔力が淡く空間を染めていく。
(でもあなたは知らない。私は、ただの“魔導姫”ではない)
彼女の魔導術式は、軍用魔導とは一線を画す異質なもの。
――【封記魔法】。
それは魔力で“記録”そのものを書き換える高位術式。
セレナの超魔力でのみ実現できる禁術。
「あなたの“隠された罪”――
記録の深層から、暴き出してあげるわ」
そしてその夜。
王都の政庁に、匿名の魔導文書が届けられる。
開いた瞬間、政庁の執務室にいた官僚たちの顔色が変わる。
それは――
【ガルフォード=ラインベルクの違法署名記録】
・処分命令書への不正な介入
・宰相の名を騙った独断の政治工作
・軍予算の不当な流用
王国の記録官しか知り得ない、秘匿された記録だった。
ガルフォードは慌てず構えたように見えたが、明らかに焦燥を隠せなかった。
「どこで……これを……」
周囲の者たちがざわめき始める。
「まさか、まさかこんな……証拠が……」
「情報が漏れた? いや、これは……記録が……改ざんされた?」
混乱の渦の中、セレナ=アルヴェリスの名が囁かれ始める。
「やはり……彼女の仕業か……!」
その翌日。
ガルフォードは政務を一時離れると発表された。
名目は“健康上の問題”――だが、実態は完全な政治的失脚だった。
その知らせを受け、セレナは誰にも見られぬように笑みを浮かべた。
「これで、署名者は全て――消えた」
かつて自分を処分に追い込んだ、三人の名士たち。
その全員を、彼女は自身の手で王都から排除した。
だが、その復讐はまだ“終わり”ではない。
夜の王城。
王太子、レオンハルト=シュトラールは政庁の騒動を耳にして、独り沈思していた。
「セレナ……君は、何のために戻ってきた?」
彼は知らない。
セレナの心に残るのは、愛でも忠誠でもない。
あるのは――裏切られた少女の、冷たい誓い。
そして次なる標的は、ついに“本丸”――
王太子・レオンハルト=シュトラール。




