報われぬ祈り、燃え上がる妬火(とねつ)
ヴィスハイト砦の一室。
その空気はどこか張りつめていた。
ミリアンヌ=ロシュフォードは、粗末な椅子に腰を下ろしたまま、じっと机上の手紙を睨んでいる。彼女の軍装は乱れ、いつもは整えていた髪にも艶がない。砦が実質セレナの調査下に置かれてから、すでに数日が経っていた。
(私が、なぜこんな……屈辱を……!)
左遷同然に配置された砦での敗北。そして、“元婚約者”セレナ=アルヴェリスに助けられるという最大の屈辱。
ミリアンヌの心に巣食う感情は、怒りでもなく、恐怖でもない。それは――焦り、だった。
砦に残された彼女の権限は、もはやほとんどなく、兵たちの視線も日に日に冷たくなっている。
そんな中、彼女は一通の手紙を送っていた。
──王太子、レオンハルト=シュトラール殿下。
かつて、婚約の話が持ち上がったこともあるその人物に。
「辺境で王国の尊厳を脅かす者が現れました。ご判断を仰ぎたく存じます」
そう書いた文面には、セレナを暗に非難する文脈が数多く盛り込まれていた。
そして今日、その返書が届いた。
「王国の秩序は監査局に任されております。貴官は軍紀を守り、職務に専念してください。なお、セレナ=アルヴェリス嬢については、当王家もその活動に注目しております」
──レオンハルト=シュトラール
「……注目? セレナに……?」
しばらくの沈黙の後、ミリアンヌはかすれた笑い声を漏らした。
「レオン様……あなたまでも……!」
手紙を握り潰す。赤い爪が紙に食い込んだ。
(まさか、セレナが王都にまで顔が利くようになっているなんて。……認めない。認められるわけがないわ……)
あの女は、私が潰したはずだった。
従順で、大人しくて、主体性のない、誰かに居場所を用意されて初めて観測される、そんな、その程度の存在。
それが今や、私を助け、砦の兵たちの尊敬を集め、王家の目にまで届いている。
「っ……うぅぅ……!」
ミリアンヌは席を立つと、壁に拳を叩きつけた。赤く腫れた拳が壁に血の跡を残す。
その夜、砦の監査団の一人が、ミリアンヌの部屋を訪れる。
「ミリアンヌ殿、明日より砦内の兵権はすべて正式に監査官の管理下に移されます。残された任務はありません」
「……つまり、私は“お役御免”と?」
「ご理解が早くて助かります。王都への帰還命令も含まれております」
一礼して退出する男を見送るミリアンヌの瞳は、どこか虚ろだった。
だが、次の瞬間――彼女の目に、狂気じみた光が宿る。
(王都に戻ったところで、何がある? 私はもう“過去の人間”。)
(だったら……王国の枠の外で、あの女に!)
⸻
翌朝。
ミリアンヌの部屋はもぬけの殻となっていた。
彼女は密かに私物をまとめ、砦を脱出していた。見張りを金貨で買収し、監査団の目を逃れるように、辺境の谷を抜けて北へ。
向かう先は、かつて砦周辺に拠点を持っていた“盗賊団の残党”の潜伏地。
……いや、それはもう残党ではない。
ミリアンヌの接触によって、「反セレナ勢力」として再編されようとしていた。
⸻
二日後。
ある農村にて。少女が土を耕していたその背後で、数名の武装兵が現れる。
「すみません、ここはセレナ様の管理地です。訪問には届け出が……」
「黙れ」
鈍い音と共に、少女が殴り倒される。
「ここの民がセレナに味方している限り、示しがつかん。村ごと消してやる」
黒ずくめの騎士たちの背後には、一人の女が立っていた。
ミリアンヌ。
その表情は、かつての華やかさとは無縁の、どす黒い激情に染まっていた。
「セレナ=アルヴェリス。あなたは私のすべてを奪った……。だったら……私はあなたのすべてを焼き尽くすだけ」
彼女の目に涙はなかった。ただ、燃え上がるような復讐の炎が、夜の闇を照らしていた。