岡田への手紙5-2
魔女は入院しているから、おれが帰るころには、家にはだれもいない。
通いの女中が、電灯をつけたままにしているから、家の中は明るいが、静かだ。
おれは、テレビをつける。
馬鹿げた笑い声を聞きながら、作って置いてある夕食を、電子レンジで温める。
それを口に運びながら、学校から持ち帰った仕事をする。
仕事があるのはいいことだ。
何を食べているのかよくわからないが、いつの間にか食べ終わっているので、栄養は摂れる。
一人暮らしも案外と気楽なのかもしれない。
おれが一人暮らしをしたのは、大学生活の四年間だけだ。
魔女の手を離れて。
さみしくもあったが、自由で、楽しかった。
何もかもを自分で決めるということが、新鮮で嬉しかった。
あの頃、自分は自分のものだという実感を、確かにこの手につかんでいた。
等身大の自分の体をいっぱいいっぱいに、存分に使って。
嵐の海のような激情と、すぐにさざ波の立つ臆病な感覚に、身を委ねていた。
おまえや他の愉快なやつらとも、いろんなことを一緒にしたよなあ。
馬鹿げたことや、恥ずかしいこと、大胆なこと。良いこともちょっとばかり。
あの頃が、おれの黄金期だ。
あの頃があったから、おれはまだ生きていられるのだろう。
おれはなぜこの家に戻ったのだろう。
あのまま、若さに任せてどこかに出奔してもよかったのになあ。
お前のように。
この家には、魔女の怨念がしみついている。
ここにいると、おれが考えていることが果たして本当に自分の考えなのか、それとも魔女の考えなのかわからなくなってしまう。
たぶん、あんまり長く一緒に生活していたから、魔女はおれの一部になってしまったのかもしれない。
いや、一部だろうか。
恐ろしい女だ。
おれに仕えているふりをしておれを支配し、搾取した。
そして、その圧倒的な存在感で、生きていても、死にゆく今も、おれを苦しめる。
おれには、いまだにわからない。
闇の中ではおれを好き勝手にもてあそび、朝になるとエプロンをかけて慈母の顔をしている。
どちらが本当なのだろう。
なぜどちらともが、破綻なく共存できるのだろう。
そこら中にいる、何の変哲もない男も女も、年寄りも若者も、裏の顔を隠している。
そう思えば、おれは気がおかしくなりそうだった。
ちょっと前までは。
今は、理解しているよ。
そっちの方が、普通なのだと。
むしろ、裏と表を使い分けられなければ、世間に溶け込めないのだと。
思っていることを全て曝したら、変人や犯罪者や精神病者ばかりなんじゃないか?
なあ。
「世間」って、なんだろう。
日の当たる、美しい風景。
耳ざわりの良い、道徳的な言葉。
正義が行われる、安心できる社会。
石の裏に蠢く、醜い虫などいない。
見なければいいんだ。
くさい物にはフタをして、嗅がなければいい。




