迷闇1
「うるさい! くそばばあ!」
坊ちゃんは、小声でそう吐き捨てると、乱暴に後ろ手でドアを閉め、居間を出て行った。
「……」
タエの目から、涙が噴き出した。
坊ちゃんが中学生になる時に、あのお屋敷を一緒に出た。
この、ごくごく普通の家で、二人で暮らし始めて二年目になる。
坊ちゃんは、タエがバリカンを当てた坊主頭で、学生服を着て、歩いて学校に通学している。
陸上部に入って、朝が早かったり、夕方遅く帰ってきたりするようになった。
男の子とはいえ、あまり外が暗くなってくると、何かあったのかと心配になる。
坊ちゃんは足が速いとか、跳躍がすごいとかいう特技は無い。練習しても、目立った伸びもない。だから、部活をがんばるよりも勉強に励んだ方が、きっと坊ちゃんのためになるとタエは思う。
タエが心配してあれこれ言うのをうるさがるようになったのは、陸上部の子たちの悪影響なのではないか。
あの素直で思いやりがあった坊ちゃんが、まるで敵の顔でも見るような目で、タエをにらんできたりするようになるなんて。
そして今日はとうとう、「くそばばあ」などとののしられた。
タエは、情けなくて悲しくて、今までの苦労は何のためだったのかと悔しくて、テーブルの上にぽたぽたと涙を落していた。
お屋敷では女中がしていたことも、ここでは全てタエがしなくてはならない。
掃除、洗濯、炊事、買い物、学校の用事。町内の用事。
一般的な専業主婦がしていることは、なんて大変なのだろう。
坊ちゃんが食べ残した食器を下げて洗って拭きあげて片付け、生ごみの始末をし、風呂の湯を張ろうと風呂場に行くと、水音がする。
坊ちゃんがシャワーを浴びているのだ。
湯舟に浸からないと、疲れが取れませんよとあれほど言っているのに。
坊ちゃんと顔を合わせると泣き出してしまいそうなので、タエはそっと風呂場から離れた。
いつもなら、坊ちゃんの布団を敷くのだが、もうそれも今日はやめようと思った。
あんなことを言われて、まだ世話を焼くなんて、いくらタエでもしたくなかった。
シーツや枕カバーが汚れていようが、一晩くらいなんともないだろう。
その夜タエは、湯に浸かった自分の体をぼんやりと眺めていた。
そして、驚いた。
陰毛の中に、白いものが混じっていた。
白髪は見つけ次第抜いていた。それで済むくらいで、まだ頭は黒々としている。
まさか下の毛に白いものが現れるなんて。
そういえば、変死体の年齢を判断するには、下の毛を調べると聞いたことがある。
毛髪は染められるが、下の毛まで染める人はまずいないからだ。
童顔でまだまだ肌に張りがあり、しわも目立たない。乳房もそんなに垂れていない。
そう思っていたが、自分がそう思っていただけで、肉体は確実に老いていたのだ。
タエは、風呂上りに、裸のままで姿見の前に立ってみた。
そして、いつのまにかすっかりおばさんの体型になっていたことに驚いた。
下腹が出て、お尻がたるみ、乳房も思ったよりは痩せて垂れている。
ばばあと言われても仕方がない。