迷路5
「衛藤一族の御曹司だって噂だが、本当か?」
「御曹司っていうか……まあ、次男ですので、放任されていますが」
「出来のいい兄貴でもいるのか」
「まあ、そうですね」
「そうは見えなくても、本当は苦労しているんだなあ、お前も」
「いえ、別に」
佐波先生の頭の中にどんな苦労が想像されているのだろう。
はっきり言って、ありがた迷惑だ。
「枯井先生のことは、どうするつもりだ」
佐波先生は、煮物のこんにゃくをちょっとほおばると、またコップを傾けた。
「えっ、どうするつもりって……」
「彼女は本気だぞ。まずいんじゃないか」
「まずいって言われても、ぼくは何にもしていませんよ」
「手も触れていない?」
うーん、と衛藤は考え込んだ。
あれは、故意じゃない。過失だ。
うん。天地神明に誓って、過失だ。
「落ちた物を拾おうとして、手が触れたことはありましたが」
佐波先生は、はあ、とため息をついた。
「二枚目も大変だな」
「二枚目、二枚目、って言いますけど、好きでこんな顔になったわけじゃありませんよ」
だから、顔が隠れるように前髪を垂らして、汚なげなかっこうをしていたこともあった。
誰も近寄らなくなり、子どもたちにさえ「アル中」と罵られていた。
だのに、ちょっと身なりを整えたとたんに、人々の態度が百八十度変わった。
人間は、本当に見た目で判断する。
見た目でしか判断しなかったりもする。
毛野祢子だけは、世間の尺度から解き放たれた自由な目を持っていた。
初めてあの、何を見ているのか測れない、不思議にきれいな視線を浴びた時、衛藤の体は雷電に貫かれ、信じがたいほどの喜びに襲われた。
彼女の宇宙に吸い込まれ、ふわりふわりと浮遊しながら原初の快感に打ち震えた。
喜んでいるにしろ、怖がっているにしろ、怒っているにしろ、そこには純粋に彼女しかいない。「こうするべきだ」などという曇りがない。
世間知らずで子どもっぽいというだけのことなのかもしれない。
が、衛藤にとっては、それは非常に稀有な秘宝であり、極小且つ極大の閉じられた宇宙に思えた。
彼女といること。それだけでもう、何もいらない。
唯一無二の存在。
すっぽりと抱え込めるほどに小さいのに、柔らかく温かくくるみこまれるほどに大きくて。
「衛藤君は、恋人とかいるのか?」
衛藤は、はっと我に返った。
「えっ、いえ、そんなのいません」
佐波先生は、苦笑した。
「いる、って言っとけよ。その方が、虫よけになるぞ」
「そんなものですか」
「そんなものだが。……じつは、おれにだな、妹がいるんだ。年が離れていて、今、ええと、二十三かな。かわいいぞー。写真を見せてやる」