迷走1
夏休みに入ってすぐ、中学校吹奏楽コンクールがあるそうだ。
ある日、コンクール曲の楽譜を持って、吹奏楽部の顧問の先生が音楽室にやって来た。
吹奏楽部の顧問は、猿飛先生という、三年の理科の先生だ。
先輩たちは、陰で「サスケ」と呼んでいる。
サスケ先生は、滅多に練習中に顔を出さない。
祢子も、この時初めてサスケ先生を見たのだった。
サスケというあだ名の割に、全く運動能力の無さそうな、初老の、頭が薄く背が低くて小太りの男の先生だ。
今回も、部長と副部長を呼んでそそくさと楽譜を渡し、すぐに帰っていった。
祢子は有川先輩から、楽譜と、色のついた厚紙を受け取った。
『サン・ホセへの道』『オリーブの首飾り』の二曲だ。
祢子が知らない曲。
楽譜は、ペラペラの紙に印刷してあるので、譜面台に立てかけられるように、加工しなくてはならない。
各自に配られた、厚手の色画用紙と楽譜を、それぞれきっちり二つ折りにする。
糊が回ってくるのを待って、折り線を真ん中で重ねて、貼り合わせる。
それから、表紙に自分のパートと名前を書く。
みんなのをのぞいてみて、祢子も、自分のパートとイニシャルを控えめに書いた。
作業を通して、部員の気分が盛り上がってくる。
できたら、各自練習を始める。
各自でだいたいできるようになったら、パート練習になる。
自分が人前でトランペットを吹くなんて、祢子は想像もつかない。
やっとこの頃、マウスピースをトランペット本体につけて、音を安定させる練習を始めたところなのだ。
しかしそもそも部員の数がぎりぎりなので、全員、有無を言わせずレギュラーなのだった。
ステージの上では、枯れ木も山の賑わいだ。
基礎練習を真面目にしないので、祢子はまるっきり下手くそなままだった。
だが、楽譜を確認すると、ありがたいことにサードは上手も下手もわからないくらい、出番がない。
まだ大丈夫と、祢子は横着を決めこんだ。
有川先輩も、中岡先輩も、祢子を放置していた。
まだ中学生男子の彼らには、こんな時どうすればいいのか、全くわからないのだった。
有川先輩のトランペットは、うまかった。
初めてその音色を聞いた時、祢子は体がじんと痺れるような気がした。
有川先輩は嫌いなのに。
澄んで、遠くまで響き、抑揚があり、何とも言えず色っぽい。
あのトランペットの音となら、結婚してもいい、と祢子は思った。
それに比べると、中岡先輩は、音までクソ真面目で、魅力のカケラもない、と祢子は思う。
祢子に批評する資格など無いくせに。
パート練習が始まった。
トランペットパートは、音が大きくて目立つ。
祢子が下手なのも、わかってしまう。
かろうじて音程がわかるものの、あえいでいるような苦し気な音が、先輩たちの音にしがみついている。
二人とも微妙な顔をしているが、有川先輩が「まあ、いいか」というと、それで終わる。
他のパートは女子ばかりで、先輩と後輩の仲がよくて、きゃーきゃー笑ったりしながら、着実に練習している。
祢子はそれがうらやましい。