Side 騎士 5
「それでは、泉に入ります」
そう伝えると彼女の小さな手が俺の服をきゅっと掴む。
城から離れ最初の目的地であるグリンダール神殿へ付いたのは5日前。馬を使うと10日ほどの距離だが彼女の体調を考慮しながらの行程は半年を要した。
王都を出るまでは急いだが、その後は彼女の体調を一番に考えてゆっくりと進んできた。宿で数日ずつの休みを挟みながらここまで来るまでに彼女は大分回復し、今では基本的に自分で歩いて移動していた。そのため彼女を抱き上げたのは随分と久しぶりだ。これが祈りの泉に入るためでなければどれほど良かったか。
彼女は最初、歩けるようになったから1人で祈りの泉に入るのだと思っていた様だか、ほんの一瞬触れるだけで今まで意識を失ってしまっていたのだ。そんな危険なことはさせられないと言えばすぐに納得していた。
泉に足を入れれば、ガクッと力を取られる。そうしてゆっくりとしゃがむ。
「足を泉に浸けます」
伝えると彼女は一層手に力を込める。こんなことをする俺を許さないでくれと願いながら彼女の足を泉に浸けると同時に光が生まれる。瞬間的に立ち上がるが、彼女からくたりと力が抜け、息が上がっている。今回は意識までは失っていなそうだが、苦しいことに代わりはないようだ。
その様子にこちらの方も苦しくなる。
「なんと、素晴らしいお力でしょう! まさしく聖女様」
泉から出るとグリンダールの神殿長が感激の声を上げた。
その声を忌々しいと思うのはそのためにこの世界とは無関係だった彼女が苦しむ必要がないと思うからだ。
神殿長の隣でこの地を治めるグリンダー辺境伯も大きく頷く。
「これで、この地も平穏を取り戻せる。殿下はこの地を捨てたわけではなかった」
彼女の働きであって王太子の手柄ではない。
この地域が一番瘴気に悩まされていた上に、支援も打ち切られかけていたことを考えれば辺境伯の言い分も分からなくはないが、彼女には絶対に聞かせたくない言葉だ。
「聖女様は休ませなければなりませんのでこれにて失礼します」
2人の言葉に答えることをせずにそう告げ、用意されている部屋へと急ぐ。
「ルドヴィクさん、聖女様をお運びするのを交代します」
この旅に同行している騎士の1人が近付いてきて申し出てくるが、その言葉も無視をする。
「え、あの」
「諦めろマルセク。ルドヴィクはそんな話は聞かない。それよりも、部屋の警備を固めろ」
シャイゼルとさっきの騎士の話を後ろに聞きながら、腕の中の彼女を見る。
泉から出た直後は意識があったが、今はまた意識を失い顔色が悪くなっている。こんなことをさせたい訳ではない。でも、逃げる先がないのだ。
国外に出ればいいという訳にもいかない。瘴気はどの国でも問題になっているのだ。どこの国も瘴気への対策に頭を悩ませている。それが一気に解決する方法があるのなら、彼女1人を犠牲にすることなど問題にもあげないだろう。
用意された部屋にはフラウとレンナが待っていた。
彼女をベットへと横たえるとレンナがすかさずに布団をかける。
フラウはゆっくりと彼女の頭を撫でる。元々他の者よりも気分を落ち着かせたり、眠らせることを得意としていたが、旅を続けていくうちに彼女がフラウに寄りかかることが増えた。
その頃からフラウは彼女限定で疲れを癒すことができるようになったようだと報告してきた。
正直に言えば羨ましい。誰でも僅かに他人を眠らせる力はあるが、その力が弱ければ当然自分よりも力の強いものには効かない。俺には元々相手を微睡ませるくらいの力しかない。そうなれば当然使う機会もない。微睡み程度で彼女は回復できない。
彼女は聖なる力こそ強いが、他人を眠らせる力はない。だからか、誰が彼女の頭を撫でても抗えないように眠ってしまうだろう。それは、彼女自身が自分を守りきるのが殆ど不可能なことを意味する。
頭を触らせなければいいのだが、彼女は多分その意味を知らない。いや、もしかしたら気付きはじめてはいるのかもしれない。フラウ以外の手をあまり信用はしていなさそうな感じはある。
部屋の隅に控えると、ジアルが部屋に入ってきた。
「ルドヴィク、今日はもう休め」
「しかし、俺はここを離れる訳にはいきません」
「泉に入ったんだ。休息は必須だ。隣の部屋を聖女専属護衛用に用意させてあるんだ。何かあればすぐに分かるだろう。休むのも仕事だ」
ジアルに厳しい目を向けられる。ジアルはこの旅においての隊長を任されている。隊の中の人事権も持ち、あまり無理を言えば、この隊の中で与えられた聖女専属護衛という唯一の特権を取り上げられかねない。それがなければ自分は彼女の近くにいることを許されなくなる。
「……分かりました。お気遣いありがとうございます」
「おまえが休んでる間は、俺がいる。そこまで心配するな」
「はい」
彼女へ目を向ければ今は静かに眠っている。今までのことを考えても1日以上は目を覚まさない。
眠る彼女に礼を取り、与えられた部屋へと下がる。
部屋に置かれているベットへ体を横たえ、目を閉じる。これだけでも休息はとれる。訓練時代に厳しい訓練の合間に休息をとる訓練も自然とさせられた。同時に休息がどれほど重要かも理解はしている。
護衛の仕事は普通1人ではしない。それでも彼女の一番近くに配置されているのは自分1人だ。それは最初に彼女の近くにいたからだけであり、たまたま彼女が召喚された日に王太子の近くで護衛をしていたからに過ぎない。
あの日、王太子の近くには当然王太子の近衛も多くいた。神殿内で行われることだったから自分も王太子の近くで護衛することになり、近衛とは違う神殿騎士の格好で近くにいた自分に王太子が彼女の護衛を任せたに過ぎない。
つまり、信頼する自分の護衛ではなく、召喚された彼女には神殿の騎士で充分だと王太子が考えたということにもなる。あの場にいたのが自分でなくても王太子はそう命じただろう。
ならばそれに限っては幸運だったと思う。自分は神殿騎士の中でも実力は高いと自負している。持つ色彩がもっと濃ければ今頃は役付きにもなれたと思っている。
色彩の濃さは聖なる力の強さを示す。濃い色であれば瘴気の中でも少しは動けるが色彩が薄いほど近付くことすら困難になる。
祈りの泉でも色彩の薄い者からは力をあまり捧げられないが、色彩の濃い者であればあるほど力を多く捧げることができる。そして、それが権力にも直結してくる。
王太子妃は色彩が薄い。王太子妃の大切な仕事の1つが祈りの泉に力を捧げることだ。それが満足にできないことは貴族の間で役立たずだと囁かれても仕方がなかった。その分王太子が頻繁に祈りの泉に入ることでその声を抑えてはいた。けれどそれをずっと続けることも困難だったのだろう。
だから、召喚なんてものに手を出した。他の者にはあたかも聖獣が召喚されるように勘違いをさせて。
最初から第2妃にするのが目的でだ。それで溺愛している王太子妃を公の目から隠す目的もあったに違いない。
けれど、王太子は彼女を城から出した。それ事態は歓迎できる。城の中は安全ではない。特に陛下が帰ってくれば、悪食の餌食にさえなりかねない。それに、謹慎を受けていた第2王子もどう出るか予想もできない。噂程度しか知らないが、第2王子も悪食の癖があるのではと言われていた。
けれど、本当は別のところに理由があるだろう。
王太子は恐れたのだ。彼女を。
彼女は聖なる力を強く持っているが、それ以外は殆ど何もできない。けれど、彼女は庇護しなければならないと周りに思わせる力も備えているのではないかと思う。それは接する時間が長くなれば長くなるほど強くなる。
フラウとレンナ、それに俺も例外ではなく、彼女を何からも守りたいと考えている。フラウがもしかしたら一番顕著かもしれない。彼女に心酔し、その彼女がフラウを頼りにしている。それだけでフラウの心は今、満たされているはずだ。
何も言いはしないが、祈りの泉に彼女を連れていく俺に対して不満を持っている。
レンナもこの旅に出る時に結婚間近だった者と別れて彼女を選んだ。
俺も後先考えずに彼女を連れ去ろうとした。そんなことはできないと知っていたはずなのに。何よりも優先させるのが、彼女になっている。
王太子も多分それに気が付いた。旅に出すと言った舌の根が渇く前にそれを撤回した上で彼女を守る術を探し、そのことを否定するという矛盾した行動も見られたらしい。
同時に王太子妃を噛んだかもしれないなどという根も葉もない噂が一部で囁かれた。悪食がとうとう王太子にまで出たのではと王宮を震えさせた。
王太子は自分の唯一は王太子妃だと憚ることなく公言して、悪食の陛下の手からも完璧に守っていた。それを揺るがしかねない彼女の存在は王太子にしてみれば恐怖だったのではないかと思える。
旅をはじめた当初は彼女の体の弱さに辟易していた様子を見せていた騎士も今では彼女を守らなければならないという使命感を持っている。
その騎士は旅をはじめた当初は彼女への態度に問題がありそうだから俺が一番彼女から遠ざけていたのにも関わらずだ。
若い騎士の中には庇護と恋情の区別が付かなくなりはじめている者もいるかもしれない。
そう言っている自分も時々抗えない感情に流されそうになる。例えば、彼女の首にある未だに消えず色を濃くした印を見た時に、衝動的に噛みつきたくなることがある。
そんな悪食じみた蛮行をすれば俺は確実にここにいる者たちに断罪させられるが、恐らくその頃には彼女も無事では済まない。誰かに盗られるくらいならば食い散らすぐらいはしてしまう気がする。
彼女はまるで自覚がないだろうが、何かを狂わせるだけの力を持っているのは事実だと思える。そういう意味で言うならば俺たちは確実に互いを牽制しはじめている。
本能が告げてくるのだ。彼女の血は何よりも甘美であろう、と。
本能に従うは愚者でしかない。悪食に堕ちるわけにはいかないのだから。