Side 騎士 8
エミカは思っていた以上に優しく、そして無垢だった。そして、あまり人を疑いきれない。
エミカからあの手この手で色々と聞き出すことはそこまで難しいことではなかった。
前の世界でエミカは話せなかったのだと言うが、話せなくて正解だったと思う。エミカが話せなかったことで、こちらが色々と推測し機嫌を損ねないようにと少し都合の悪くなっていた人事移動なども起こさないようにしていた。
エミカと意志疎通ができると分かってしまえば、俺やフラウなどは早々に理由をつけて遠ざけられたはずだ。エミカを丸め込むのはやつらにとっても難しいことではなかったはずだ。
エミカが言うには、俺やフラウ、レンナも信じてはいなかった、と申し訳なさそうにしていたが、その時点である程度気を許してくれていたのだと分かる。
無関心の相手に、信じれなくてごめんなさいとは言えないものだ。
少しの疑いでも持ってしまうと、それに対してエミカは気に病む質らしい。ならば、俺のいた世界はさぞ居心地も悪かっただろう。
この世界で目が覚めてまだ数時間だが、エミカに付いて来れて良かったとしか思えない。
エミカに対して常に抱えていた渇望と焦燥が和らいだ。あの今にでもエミカを食い殺してしまいそうなほどの衝動が込み上げては来ない。もっと穏やかな気持ちで接することができる。
今は誰にもエミカを奪われないという安心もあるのかもしれない。苛立ちの原因だった印も消えた。ここではエミカは誰のものでもない。
勿論、俺のものにもなってはいない。なってはいないが、ゆっくりとエミカの気持ちを1つずつ確実に解していけば、遠くない日にエミカの方から俺の手に落ちてくると思えた。
俺に自由にしてほしいとエミカは繰り返し言ってくれた。
エミカは、自分から離れて俺が好きなことをするのを望んでいるようだが、そもそも俺はエミカの側を離れる気はないし、エミカをある程度自由にはしてやりたいが、俺の側から離れることはさせない。
俺を自由にさせるということは、俺が好きなだけエミカの近くにいるということだ。
今から俺の気持ちを繰り返し伝え続けるのは簡単ではある。ただ、そうしてしまうとエミカの方は完全に引いていく。
まだエミカは色々と混乱しているし、俺に対して抱かなくてもいい罪悪感すらある。これにつけこむこともできるが、それでは多分つまらない。
エミカに心の奥底から俺を欲してほしい。俺がいなければいけなくなるほど、あの渇望に近い焦燥を持って俺を想ってほしい。
目を覚ましてたった数時間。最初はそれでも一線を引くつもりであったのに、俺に名前を呼ぶことを許すから、いや、命を共有することまでしてくれたのだから。
この先何があっても俺がエミカを残すこともなく、置いていかれることもない。
満たされている。そして、どこまでも俺だけに都合のいい世界。
エミカから聞き出した、俺とエミカの間にある繋がり。切ることは最早不可能なはずだ。何せ、この世界の神の意向だ。そして、その神にもう干渉しないと言い切られたらしい。
悪食に堕ちない世界でエミカを求めることに咎すらない。最悪、エミカを食い散らしたとしても、俺もその時点で朽ちる。残されて狂うこともない。
我慢に我慢を重ねて狂うことになったとしても、エミカなら、その優しさで俺を救おうとすらしてくれそうだ。
俺のマントにくるまり無防備に眠るエミカの髪を撫で、一房掬い口付ける。これ以上はしない。今はエミカから安心感と信頼を得ることが先だ。
周囲へと目を向ける。森や空の色合いは見知っているものと違うが、森の中だと分かる。近くに泉があり、おそらくこの世界に出た時に落ちたのがあの泉だ。元の世界の祈りの泉と同じような役割があるのかもしれないが、誰かが管理しているようには見えない。けれど、この辺りには清浄な空気が満ちているように感じる。
この泉の存在をこの世界にいるであろう人達が知っていた場合、ここは聖地のような扱いになるかもしれない。そこから現れた人、担ぎ上げるには好都合になる。
ならば、なるべくここから来たことも知られない方がいい。
エミカは、この世界に来た時に基本的な特殊能力を与えられたと言っていた。
確か、言語理解と隠蔽、鑑定と生活魔法。それに治癒と浄化。
俺の方は言語理解のみ、だったか。
エミカの見立てではこの世界の誰もが持っている可能性としての基本と思っている様子だったが、最初からこの森に出るのが分かっていての基本能力だとすれば、それは意味合いが変わってくる。
エミカを安全に受け入れるから、生き延びられる基本の能力を与えた。俺に対しては受け入れる気がなかった相手だから、何も能力は与えない。むしろ、本能に近い部分を封じられ、エミカという安全装置を付けた。エミカを安全に受け入れたのだから、安全装置としてのエミカの役割も命を脅かす程度ではないはずだ。
少しずつ周囲が明るくなってきた。どうやらそろそろ夜明けになるのだろう。
「……うぅーん」
エミカが悩ましげな声を上げてしばらくすると、モゾモゾと動き出して起き上がってきた。
「よく眠れましたか?」
「うん、おはよう。マントありがとうね。あ、泥付いちゃった、浄化」
どこか眠たそうにしながらもエミカがそう言うと、淡くパッと光が散ってマントは新品のようになった。
エミカはこの世界でも聖女としての力は失ってはいないのだろう。むしろ、不当に取られることがないのだからこの世界での方がその力を発揮できる。
「それが魔法ですか? 初めて見ました」
それが聖女の力であるとは言いたくない。そう言ってしまえばまたエミカは手の届かないところへ行ってしまう気がした。
「ルドヴィクの世界は魔法は無かったの?」
エミカが不思議そうに問いかけてきた。
「無かったと思っていますが、エミカから見て不思議なことは何かありましたか?」
「そうだね、あの泉かな。ルドヴィクが一瞬しか私をあの泉に浸けないのに、ものすっごく体中の力を取られちゃうとか、あと、そういえば、フラウのそばってフワフワした感じになったんだよね。あれも何かの魔法なのかなって思ってたよ。あと、頭を撫でられると眠っちゃう気もしてたんだよね」
フラウに限って言えば自分でエミカを癒せるようなことを言っていたが、あながち間違いでもなかったようだ。
「気付いていたんですね。頭、というより額を撫でるんです。そうすると安眠できます。でも、力には優劣がありますから、俺がしてもそこまでの効果はなかったと思います。フラウは特に力が強く出ていましたのでエミカを落ち着かせるために側に配置されていたんです」
エミカが昨日のうちに採ってきたという何かの果実を渡された。
「鑑定してみたら、ルーミの実っていうみたい。食べられるよ。その力って誰でも使えたの?」
実を受けとりながら答える。
「ありがとうございます。力は誰でも使えました。ですので、本来なら頭や額を撫でる行為は相手に対して失礼に当たります。ですが、エミカはその辺りの常識を知らなかったですし、何よりも安眠すれば回復していましたから、誰も止めなかったんです。見張りは付いていましたから」
実を齧ってみると甘酸っぱい果汁が口の中に広がった。比較的食べやすい実だと思えた。
「そうだったんだね。フラウって結構私の頭を撫でたけど、レンナは殆どしなかったのってその辺が関係あったのかな」
エミカは小さな口でルーミの実をシャリッと齧りながら呟いた。
「エミカの世界にはそういった事柄は何かありましたか?」
「魔法はないよ。物語とかそういう作り物ではよく出てきたけど。人間しかいなかったし。そういえばルドヴィクの世界では私に力があるようなことを言ってたけど、そんなの誰も持ってないんだよ」
人間しかいない世界の想像がつかない。しかも誰も聖なる力を持っていないというのも驚きだ。エミカにはしっかりと誰よりも多くの聖なる力がある。
「そうなのですか? もしや瘴気などもなかったのでしょうか?」
「瘴気って何を指すの? 毒の空気みたいなもの?」
エミカは首を傾げて訊ねてきた。
「瘴気はそうですね。毒のようなものという考えも間違いではありません。長くその中にいれば耐性の低い者から倒れます。耐性がなければ近付くだけで病になることもあります」
「そうだったの? 私、旅の時もそんなの見たことなかったけど」
「エミカにはその瘴気を払う力があの世界の人たちよりも多かったんです。エミカの近くは常に清浄さがありましたから、旅の間にエミカが瘴気を目にすることはありませんでしたね。ですから、泉に入りエミカから力を取り、国中に循環させていたんです」
「それってもしかして旅する必要はなかったんじゃない?」
当然の質問にそういえば旅の目的はきちんと伝えていなかったかもしれないと思い至った。
「そうかもしれません。ですが、他の泉を巡る意味はありました。それに、あの旅はエミカを避難させておくという意味もありましたから」
「避難? 何か悪いことでも起こりそうだったの?」
「前の王が帰国すれば、エミカは餌食になりかねないと判断されたからです」
「え、餌食って」
エミカがぶるりと震えたのが分かり、そっと背中を撫でる。
「噂は多かったのですが、証拠がなく、また王でもあったので強く追求もできなかったんです。前の王は悪食に堕ちていたんです。エミカは旅の途中で拐われかけましたが、覚えていますか?」
「そうだよね、覚えてる。だけど、何故か泉に最後はいたよね? 何があったのかさっぱり分からなかったけど」
「エミカは賊に連れ去られた直後に不思議な光に包まれて、繭の中で眠っていましたから」
「繭?」
エミカには繭に閉じ籠っていたという自覚はないみたいだった。
「はい。繭を運ぶことはできましたが、繭を破ることは誰にもできませんでした。そして、原因になった賊の背後には前の王がいました」
「前の王っていうのは、あの変態王子のお祖父さんってこと?」
エミカが嫌そうな顔で変態と付けたことに少しだけ吹き出してしまう。思っていた通り、エミカは王が嫌いではあったのだろう。
「エミカが繭に閉じ籠ってからすぐに、王太子はその時の王を断罪しています。ですから、前の王はエミカの言う王子の父に当たります。前の王からエミカを遠ざける目的もあの旅にはあったんです。あの世界は王を失ってもエミカを失うわけにはいきませんでしたから」
「そんなことがあったんだ。全く知らなかった。結局私はいなくなった訳だけど、どうなったんだろうね」
「エミカはたくさんの聖なる力を取られていますが、その分国は少なくなってきていた聖なる力をほぼ取り戻していました。無駄にしなければまだ暫くは事足ります。エミカはもうあの世界に心を砕く必要はありません」
そう言うとエミカは少し首を傾げて考え込むようにしていた。
「どうかしましたか?」
「え、あー、あのね、その聖なる力ってなんだろうなって思ったのと、その、私の世界での創作物の中の吸血鬼って聖なる物に弱いんだよね。陽の光にも弱いし、聖水とかニンニクとか、あとは十字架も」
突拍子もないことに思わず吹き出してしまった。
「っふ」
「笑わないでよ。それに当てはまらないなとは思ったの。ルドヴィク達って普通に昼間行動してたし、聖なる力ってのを崇めてたなって分かってるもの」
エミカが少し拗ねたような顔で言う。エミカの表情は本来豊かなのだと知る。それを今は一人占めできるのだ。自分の口角が自然と上がるのを止められそうにない。
「すみません。笑うつもりはなかったんですが、エミカの言ったものは弱点にはなりませんね。ニンニクは分かりませんが」
「やっぱり、ニンニクは好まないから無かったのかもよ? 似た植物があっても、食べ物に適さないって思ってただけだったりして。そういえば、もう1つ。吸血鬼って牙があるものなんだけど、ルドヴィク達には無かったよね?」
ニンニクが何なのかは少し気にはなったが、どうやら野菜の類いの食べ物ということだろう。
それよりも、牙については答えておいた方がいいと思える。
「あぁ、実は生えてきたらすぐに抜きます。そうすることで衝動を抑えられると言われてましたから」
「あ、それはあったんだ。よほどその衝動を皆が怖がってるってことだよね」
「そうですね。禁忌でしたから。見つかれば極刑もあり得ることでした。ですから、俺もその衝動を良しとはしていません」
エミカは少しほっとしたような顔になる。おそらく俺がいきなり襲いかかってくる可能性を怖れているのだろう。
話しているうちにエミカが昨日採ってきた食べ物はなくなっていた。