Side 騎士 7
パチッと薪が爆ぜた時の音で意識がやっと浮上してきた。
随分と長いこと眠っていた気がする。
目の前には焚いた覚えのない焚き火が辺りを明るく照らしていた。焚き火が明るく感じるということは今は夜だと検討がつく。
どうしてここにいるのかと考え、一瞬で全てを思い出しばっと体を起こす。
「わっ、びっくりした…… 気が付いたの?」
聞いたことのない柔らかい声がして、そちらを見る。
「……聖女、様?」
夢を見ているのだろうか。彼女がこちらを黒の瞳をめいっぱい開いて驚いた顔で見ていた。そうしてから困ったように眉を下げる。
「あ、うーん、そうか、私の名前知らないんだっけ」
初めて彼女の声を聞いていることに言い様のない感動を覚える。柔らかな声は耳に優しくそれだけで酔ってしまいそうだった。
「私の名前は倉凪笑華って言います。年は、16だと思ってたけど、なんか今は18歳みたい」
「クラナギエミカ様と、仰るのですね」
震えそうになる声で彼女の名前を噛み締める。知りたいと願っていた名前を彼女の声で教えられたという奇跡に身の内が震えていた。
「笑華が名前ね。そう呼んでもらえるといいかな。あと、様は付けないで敬語もいらないかな。私の方がずっと年下だし」
「し、しかし……」
彼女の提案に狼狽える。年下だとかそういうのとは関係なく、彼女は唯一だ。大切にしなければならない。
「あのね……ここ、ルドヴィクの世界じゃないの」
彼女の言葉に衝撃を受ける。
「……俺の、名前を知っていてくださったのですね」
彼女に個として認識されてはいると思ってはいたが、正式に彼女に名乗ったのは最初の1度きりだった。だから名前を覚えてもらえていたとは思ってもみなかった。しかも、彼女の声で名前を呼ばれる名誉まで。あまりの出来事に胸が締め付けられるように疼く。
「えっ、驚くのそっち?」
彼女の顔に困惑が広がる。ここまで表情を変えるのも初めて見た。しかも、彼女はこちらをずっと見てくれている。
感動と喜びで舞い上がっていたが、一番最初に気にしなければならなかったことを思い出す。
彼女の隣に寄り跪く。
「お怪我は、ありませんでしたか? お体で調子の悪いところなどは?」
彼女の状態を確認するため、少し失礼ではあるが、全身にさっと目を走らせる。一先ず怪我らしきものはないようで安心する。いつもは目を逸らすようにしていた、首の付け根が目に入る。その場所で存在を主張していた忌々しいとすら感じていたあの印が消えていた。その事に口角が上がりそうになるが必死に取り繕う。
「私は何ともないよ。私よりもルドヴィクの方が心配な状態だったんだけど」
自分が倒れていたせいで彼女の手を煩わせてしまったことに気が付き、情けなくなる。
「申し訳ありません」
「どうして、そうなるの。お願いだから、普段通りにしてみて!」
「普段通りです」
彼女の求めていることを掴みかねて返事をしてしまう。
「そうじゃなくて、騎士同士で話してた時とか、フラウとかレンナには敬語は使ってなかったでしょう?」
「当たり前です、貴女様とは立場が違います」
「私だってその辺にいる小娘だよ!」
「そんなことはありません!」
言ってからはっとして頭を下げる。何て言うことだ。彼女と口論のようになってしまった。
「そうやって私にすぐに頭を下げないで。ルドヴィク、今の状況どれくらい理解できてる?」
ため息と共に彼女が問いかけてきた。俺は再び彼女へと目線を向けると、困りきった目とぶつかる。
困らせたいわけではない。
彼女に問いかけられてやっと辺りが見慣れた物とは全く異なっていることに気が付いた。暗くてよく分からないが植物の雰囲気が違う。空気の感じも。見上げてみた夜空は黒くて、そこにたくさんの小さな星が瞬いているだけだ。夜空とは濃い紫のはずなのに。
彼女へもう一度目を向ける。
「どうやら、ここは俺の知らない場所のようです」
そう告げると、彼女は少し気落ちした様子を見せた。
「ルドヴィクのいた世界とも、私が元いた世界でもないからね」
「貴女様の……」
「笑華」
冷たい声で言葉を遮られ、彼女の顔を見る。
「私の名前は笑華。そう呼ばないならもう何も答えない」
言われたことに動揺する。確かにさっきも名前を呼ぶ許しは得られているが、自分は欲深い。彼女の名前を呼び続けていたら、きっと大きな勘違いを起こしてしまう。
「そ、そのようなことを仰らないでください」
彼女の顔が不機嫌になり、顔まで背けられてしまった。本当に何も答える気がなくなってしまったのか口を開いてもくれなくなってしまった。
「あ、あの……」
声をかけても一向にこっちに顔は向けてくれないが、彼女が少し困ったように目をキョロキョロとさ迷わせていることに気が付いた。指も落ち着きなく動かしている。
その所作に愛しさが込み上げてくる。ここはどう考えても知らない場所だ。彼女、エミカは違う世界だと言った。不安ではないと言えば嘘になる。けれど、この世界ならば、エミカとは違う関係を築けるかもしれないのだ。
「エミカ」
呼び掛けると、エミカがパッとこちらに顔を向けた。ほっとしているようにも見える。
たったこれだけのことで、温かい気持ちになる。
「ここは俺の知ってる世界では無さそうです。エミカの世界でもないのですね?」
「そう、私も知らない世界だよ。もう戻れないって言われて、でもあの世界にいるのも嫌だって言ったの。そうしたらこの世界に飛ばされたみたい。ルドヴィクはそれに巻き込まれたみたいで」
そう言ってエミカは俯いてしまう。俺を巻き込んだことへの後悔が垣間見えるが、この状況はどう考えても俺にとっては僥倖とも言える。
「いいえ、俺は望んでここに来ました。光に飲まれるエミカから決して手を離しませんでしたから」
「え?」
エミカの黒の瞳が驚きで大きくなる。
「あの時、聞いたことのない声がしました。手を離しなさい、と。俺はその声を無視しました。エミカのいない世界にいても意味はありません。エミカを知らなかった頃に俺はもう戻れませんから」
「どうして、そこまで……」
エミカは戸惑った顔を向けてくる。
「初めてエミカが現れた時から俺はエミカに惹かれていました。俺にとっては手の届かない人でしたので、せめて一番近くで何からも守ると誓いました。けれど、実際に俺は1度もエミカを守ることはできませんでした」
エミカは眉根を寄せて考えるような素振りをみせた。
「ここまでついてきちゃったから、もうどうにもならないけど、それって、勘違いじゃないかな。本当は……私の血が欲しかった、とか?」
俺の圧し殺していたおぞましい欲求を言い当てられ、血の気が引く。
側で守りたいなどとどの口が言うのか。確かにずっとエミカに対して渇きを感じていた。こんな浅ましくもおぞましい考えなど、知られたくはなかった。
「そ、そのようなことは、決して……」
「……ルドヴィクって吸血鬼、だよね? あの世界の人達って実はみんなそうだった?」
エミカからの問い掛けは真実で、知られてしまっていたことに絶望すら感じる。エミカは確信しているからこそ聞いてきたのだ。そして、それを確認するということはエミカは吸血種ではないことも意味する。
「俺たちは、確かに吸血種です。エミカは俺たちとは違う存在ではないかとは思っていました。その上で無防備なエミカを守らなければ、と強く思っていたのは本当です」
「ルドヴィクは私が人間だって気付いていたってこと?」
「人間、なのですね。そこまでは分かってはいませんでした。あの世界では人間という存在は古代に滅んでいます。後の者たちが空想で作った類いとすら言われています。ですが、エミカには特別な力があることは確信していました。なので俺は同行していた者たちもエミカからなるべく遠ざけていました」
「そういえばルドヴィクと交代で来るのはだいたいがジアルだったよね。シャイゼルも途中からはあんまり来なくなってたね。私、何もしてないんだけど、何かあったの?」
「彼らの名も知っていたのですね…… エミカのことを守ろうとしていたことは本当です。ただ、その、エミカは俺たちの本能に近い部分を強く揺さぶっていました。エミカの近くにいると満たされると同時に焦燥も生まれます。騎士の中で一番影響を受けていたのは紛れもなく俺でしょう」
エミカに嘘は言いたくない。けれど、これをエミカに知られてしまうと、この先、側にはもう置いてもらえないかもしれない。そうなったら、自分は耐えられるだろうか。
ジアルはエミカが何者なのか言い当てていたことになる。シャイゼルは早いうちからエミカの近くにいると自分が自分でなくなってしまうようだと遠くから見守ることを選んだ。
エミカの顔は晴れないままため息をつく。
「自覚があったのに、離れる気にはならなかったの?」
「はい。それを含めて俺はエミカから一時でも離れたくありませんでした。これはまやかしや惑わされているからではありません。その時期はもう過ぎました。俺は自分に起きていることを承知の上で、それでもエミカの側にいたかったんです」
「……私にはよく分からないのだけど、それはどんな気持ちからきてるの? ただの食欲みたいなもの?」
「いいえ! 食欲などと言わないでください。俺は、貴女に焦がれていました。フラウが我が物顔で貴女と接するのを苦々しいと、本当にどう言えばいいのか……」
エミカはますます難しい顔になる。
「……私、本当に何もできなかったから、何もしてこなかったよね? 話すこともできないのに、意思だってほとんど示さなかったし、流されるままなだけの私にそこまで思えるもの? 本来の性格だって知らないでしょう?」
「エミカは、あの世界に絶望していました。外の景色に、どうしようもない立場に、流されるままなのを本当はいいとは思っていらっしゃらなかった。俺を、俺たちを貴女は本当の意味では信用してはいませんでした。それでも、怯えて震えていても、絶望して諦めても、貴女の目から意思が消えたことはありませんでした。俺は、それを綺麗だと、思っていました。誰にも、貴女を見せたくなかった、貴女の目に他のものを映してほしくはありませんでした」
エミカは考えるように遠くを見ていた。聞いてくれていても、多分エミカには俺の気持ちは届いていない。
「……私、ルドヴィクの中でかなり美化されてるみたい。そんな風に思ってもらえるような人じゃないよ」
卑下とは違う。俺の幻想を押し付けるなという、柔らかな拒絶。
これでは側には置いてもらえなくなるかもしれない。拳を強く握りしめる。
「とはいえ、離れるわけにもいかないんだろうなぁ」
俯いてしまっていた耳に小さく呟かれた独り言が届いた。しっかりと聞いた。
エミカは離れない。ならば、ずるくなろう。信じてもらえないなら、信じてもらえるように距離をつめよう。信頼を、親愛をもらえるように、尽くそう。ここは元いた世界ではないのだから。