Side 私 5
『ありがとう、エミカ』
『あれ? 誰だっけ? 前にも会ったことある?』
『ええ、その時は少しだけ』
『そういえば、何でお礼?』
『力を分けてもらったから』
『もしかして、あの変な泉のこと?』
『そう、その泉よ。瘴気を浄化する力が弱っていたの。その力をエミカが分けてくれたから』
『断れないでしょう? やりたくてしてるわけじゃないよ。本当にこんな世界壊れちゃえばいいのに』
『壊されるのは困るわ』
『帰りたい』
『ごめんなさい、時間の流れがこことは違いすぎるところから来てたのね。前回はそこまで気付けなかったわ』
『どういうこと?』
『エミカの元の世界は、エミカがここに来てからもう50年は経ってしまったわ』
『え』
『私にそこまでの力はないけれど、もしエミカを元の世界に戻せても何百年も経った後の世界になってしまうわ』
『それはもう異世界と何も変わらないよ。でも、何となくそんな気はしてた。元の世界で私のこと覚えてる人が少なくなればなるほど私にとって元の世界は懐かしくて戻れないって分かりきってる昔のことみたいになってたから』
『まだあなたをこの世界から離れさせてあげられなくてごめんなさい』
『別の世界に行かせてくれるんだっけ』
『えぇ。そこに行けば自由に動ける体と出なくなってしまった声も戻るわ』
『何でこんなに不自由になっちゃってるの? そういえば治してくれるって言ってなかった?』
『言ったわ。でも、この世界にいる限りは難しいことも分かったの』
『どうして?』
『体が不自由なのは元の世界とここがあまりにも時間の流れ方が違うからよ。元の世界に合わせて変化するはずの体をこの世界の時間に合わせようとして体の機脳が幾つか止まってしまっているの。本当ならエミカは召喚と同時にこの世界の理に従う体になるはずだったの。それが馴染む前にエミカから無理に力を引き出してしまっから、うまく体がこの世界に馴染めなかったの』
『だからひどく不自由なの?』
『そうね。時間をかければいつかは馴染むわ。でも、力を引き出せばまた不自由な状態に戻ってしまうわ』
『そんなこと言われても拒否させてくれないもの』
『それは、ごめんなさい。私が完全に力を取り戻してないからまだエミカの苦しみは続いてしまうわ』
『あなたも親切そうな感じで大分酷いこと言うよね』
『そうね。でも今の私は謝ることしかできないの。私にも彼等を止める力はないから』
『はぁ。体が動かしにくい理由は何となく分かったわ。喋れないのはなんで?』
『それは、防衛本能だと思うわ。エミカの声は彼等にとって猛毒になり得るもの』
『意味が分からないんだけど』
『エミカにとってはそうかもしれないわ。今は、そうね、牽制にはなるけれど、刺激にもなり得るわね。少しだけ抑えてはおくわ。無くすのはそれはそれで危険だからやめておくけれど』
『何を?』
『彼等を惑わせてしまうエミカの香りを』
『どういう意味?』
『ごめんなさい。今はここまでだわ』
『え、ちょっと意味が分からないんだけど』
ぼんやりと目を開くと心配そうな顔をしたフラウがいた。
「お目覚めですか?」
フラウの顔を見返しながら夢のような不思議な会話を思い出す。
そういえば前回は内容を思い出す前に大変な目に合ったんだった。だから、忘れていた。確かあの時もあの泉に浸かった後だった。
泉に力を取られるとあの夢の声の人が回復する。あの人が回復すれば私はこの世界から離れて別の世界に行ける。そのためには当分はこのまま不自由でいなければならないらしい。
体の機能が止まってるってどんな状態? それって悪影響が出たりしないのだろうか。しかも喋ると猛毒になるかもとか、意味が分からないんだけど。
とにかく、私はまたしばらく動けなくなったのだろう。完全に介護される生活に逆戻りだ。また動けるようになったくらいに次の泉に着くのだろうし。
「お飲みになれますか?」
フラウに支えながら起き上がるとレンナがグラスを口元に持ってきてくれる。それをゆっくりと飲む。
喉を潤すと少しほっとする。本当に不自由。介護されることに慣れてきてるのも嫌だ。また立つ訓練からだ。ため息をつく。部屋の隅ではルドヴィクがいつもよりも不安そうにしながらも控えている。
ルドヴィクはどうやら私をあの変な泉に連れて行くのは嫌みたいではある。だけど、どうにもできない事情っていうのも感じるからルドヴィクを責める気にはなれない。ルドヴィクが今回も泉に一緒に入るって聞いた時はちょっと安心もしてしまったし。ルドヴィクの様子から考えてもあの泉に入るのってこの世界の人たちもちょっとは辛いことみたいなのに。
私が泉に入った日から何日もそのまま神殿に滞在した。私も回復して少しくらいなら歩けるようにもなっていた。
神殿の人と領主だって言ってた人にもすごく感謝されて本当によくしてもらった。よくしてもらったからといって私が彼等を信頼するかと言われたらそんなことはない。
私としては誰も信じないと思っていたのとは裏腹にフラウとレンナ、ルドヴィクの3人にだけは嫌われたくないなと思い始めている。この3人に嫌われると途端に生きてはいけなくなる。私はこの世界では弱すぎる。
神殿を出て馬車で移動をはじめてから半月くらいした頃、いつまで経っても宿を出ないという日が続いた。今までも宿には平均して3日は滞在していたけれど、今回はあまりにも長いなと思っていた。さすがにどうしたんだろうと思っていたら、ルドヴィクが教えてくれた。
「実はこの先しばらく人のいない地域を通るのです。夜営は避けたいのでいい行路はないかと検討を続けているのですが、どう考えても2日は夜営が入ってしまうのです」
それって私が原因だよね。すぐに馬車酔いするから急げないんだと思う。
私はフラウを見て頭を撫でる仕草をしてみた。途端にルドヴィクは戸惑う顔になる。
「それは、その、眠っているから急げと仰せですか」
あ、やっぱりフラウが私を眠らせてたんだな。しかもあんまり悪いと思ってないところを見るとこの世界では当たり前な感じかもしれない。
頷く行為が了承を意味するのかちょっと自信がないから、私は代わりにルドヴィクをじっと見た。
「分かりました。もう少しだけ検討の時間をください」
ルドヴィクはそう言うと部屋の外にいる人にそれを伝えたみたいだった。ルドヴィクはそのまま部屋にいるのかなと思っていたら、暫くしてシャイゼルが久しぶりに部屋に来た。
「聖女様、お久しぶりです。本日も麗しいですね」
爽やかな笑顔で言われて私は目をぱちくりとした。シャイゼルってこんなキャラだったかな。どちらかというといつもルドヴィクを苦い目で見ていた気がするのだけど。でも、軽薄そうな印象は最初から持っていたし、その頃のルドヴィクは多分何かしらの問題があったのかもしれない。本来はこういう風に誰にでもこんな笑顔を向ける人なのかも。
「ルドヴィクのヤツが滅多に聖女様のお側を離れませんからね。付いて来ている騎士は皆、聖女様にお目通りをしたいと思っているのですがなかなかできません」
え、と思った。流石に長いこと守ってもらってるのに最低限の人としか関わらないなとは思っていた。関わったところで話もできないし、向こうにしてみれば無反応に近い対応しかできないから失礼に当たるのかもしれないと思っていたのだけど。
「おっと怖い怖い」
シャイゼルはレンナの方を見て肩をすくめるとそれきり部屋の隅で何も言わなくなった。レンナを見ると何となくシャイゼルを警戒するように見ていた。
私が心の中で首を傾げているとルドヴィクが帰ってきた。
「シャイゼル、交代する」
「いやいや、調整にはルドヴィクが入った方が早いだろう? どうせまだ調整は終わってないんだろ」
「大丈夫だ」
「そんな目で見るなよ。とって食いやしないって」
「その言葉が出る時点でこの部屋に入れるわけにはいかなくなる」
「あー、分かった分かった。交代だな。聖女様、ルドヴィクが帰ってきましたので俺は下がります」
2人のよく分からない会話の最後にシャイゼルは私の近くで跪いて挨拶してから出ていった。なんか何もしてないのにシャイゼルが私に対して前よりも友好的になった気がする。
「何か失礼なことは言われませんでしたか?」
ルドヴィクが気遣うように聞いてきたけれどそんな記憶は全くない。何を心配そうにしているんだろう。
心の中で首を傾げながらルドヴィクを見る。
「何もなかったのならいいのです」
ルドヴィクはそう言うといつもの定位置に戻った。
出発は朝早くになると聞いていたけれど、目を覚ましたら、昼の休憩の時間になっていた。もちろん長いこと滞在していた宿ではなく、長閑な草原地帯みたいだった。地面が青色一色でなんだか見てるだけで気が滅入る。
馬車の中では殆どを眠って過ごすから、外の景色を楽しんだことがない。外を見ても自然の色が私の感覚と違うせいで気分が悪くなってしまうせいもあるけど。
本当にこの世界の空気が合わないという息苦しさを感じるのだ。あまり周囲を見ないようにして私は外に用意された椅子にゆったりと座る。
フラウとレンナが甲斐甲斐しく食事の用意をしてくれるのをぼんやりと眺めていた。ルドヴィクはいつも通り近くにいた。でも、誰かがルドヴィクのことを不意に呼んだな、と思った次の瞬間ごぅっという音と共に景色が一気に流れていく。
私は何が起きたのか分からなかったけれど、急激に遠ざかるルドヴィクの顔が驚愕と怒りに満ちるのを見て、意識が遠退いていく。
『それは、ちょっとまずいわ』
遠くか近くか分からない声が聞こえて、私は光の中に吸い込まれた。