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54 公演旅行

「怜良さーん。そろそろ時間じゃないかな」

「準備できたわ。行きましょう」


 修学旅行の後の登校。月曜日。

 今朝は快晴だ。


 今日は一時限目が全校集会に変更になった。

 僕のことを表彰するんだって。もちろん、国立音楽館での公演のことだよ。

 天皇家の臨席だったから、学校としても公式に表彰するのが筋なんだって。

 それからきちんと僕の音楽活動をお披露目するの。


 先週月曜日に修学旅行に出発したから、この一週間で沢山のことがあったな。

 全部怜良さんのおかげ。ありがとう。

 でもその分、怜良さんにはいっぱい負担をかけてるから、申し訳ないな。


 五月の咲原は新緑にあふれてとても綺麗。

 至る所に花が咲いて、色にあふれてる。

 快晴の空と相まって、車で走るだけで旅行に来ている気分だよ。


「今日はどんな曲を歌ってくれるの?」

「学校らしい歌だよ。国立音楽館のときみたいに大騒ぎはできないから、落ち着いた曲にする」

「そう。優くんが歌いたい歌を聴かせてくれるのが一番嬉しいわ」

「ありがとう。僕は怜良さんが喜んでくれるのが一番嬉しいから、怜良さんが好きそうな曲も歌うからね」

「私が好きそうな曲って、どんな曲なの?」

「咲原に初めて来た時にこの車で流していた曲だよ。前世界の歌」


 怜良は優と二人で車に乗って咲原にやって来た日を思い出した。


「よく覚えているわね。あの時の曲はどれも優くんとの思い出だから、大事な曲よ」

「怜良さんとの思い出はどれも僕にとっては何より大事だからね。ちゃんと覚えているよ。だから今日は広いところで、怜良さんに聴かせてあげたいと思ったんだ」

「そうなのね。ありがとう。楽しみにしているわ」


 花が咲き誇る道を、車はゆっくりと走った。




「皆さん、静粛に。これより咲坂優くんの表彰式を始めます」


 第七十六中学校の体育館には全校生徒四百二十人が集まり、整列している。

 前世と同じ風景だ。

 前方は簡略なステージになっている。これも前世と同じだ。


「先週水曜日、わが校一年一組の生徒、咲坂優くんが国立音楽館での単独公演を行いました。その公演には天皇家がお揃いになり、国立音楽館の歴史においても特筆すべき公演となりました。

 そこでその功績を称え、またわが校に栄誉と誇りをもたらしたものとして、本日、咲坂優くんを表彰します。

 咲坂優くん、壇上へ」


 長濱千尋ながはまちひろ校長が壇上に待ち、優が歩いて向かう。

 生徒はみんな立っているので、背の低い優は整列から抜き出るまで見えない。


 一組担任の黒須綾香くろすあやかが前で待ち構え、優を壇上に案内する。

 優は壇上に登り、校長と向かい合った。


「咲坂優くん。わが校は、あなたが国立音楽館においてなした公演に天皇家御臨席の栄誉を賜り、その公演を成功させた功績を称え、ここに表彰します。

 おめでとう。よくやったわね」


 校長が表彰状を優に手渡すと、全校生徒から拍手が沸き起こった。優を称賛する拍手が体育館に鳴り響く。誰もが優を称えた。


 ――こんな風に学校で表彰されるなんて、前世の小説みたいだ。こうして壇上に立って、普段会話しない生徒たちから拍手をされて、校長先生から表彰状をもらって。僕には過ぎた経験だけど、怜良さんのおかげでこんな経験ができたよ。ありがとう、怜良さん。


 優が表彰状を黒須綾香担任に預け、マイクに立つと、拍手が止んだ。


「生徒の皆さん。校長先生。先生方。今日はこうして僕の表彰のために集まってくれて、そして表彰をしてくれて、ありがとうございます。先日の国立音楽館の公演では陛下や皇族の方々、それから修学旅行の生徒たち、そして多くの一般観客の方達に僕の歌を聴いてもらって、喜んでもらいました。多くの人に僕の歌を聴いてもらって、僕は嬉しかったです。

 僕にとって初めての公演で、色々なことが初めてでしたが、それがうまくできたのは、多くの方達の配慮と協力のおかげでした。この学校の先生方のご協力も大きかったと思います。だからこの栄誉は僕だけでなく、この学校が受けたものです。そしてそれを祝福してくれる皆さんもその一員です。

 だから僕はこの学校の一員として、公演の成功の表彰を嬉しく思います。ありがとうございました」


 優が頭を下げると、多くの拍手が起こった。


「それでは優くんが歌を披露してくれます。よろしくね」


 黒須綾香担任がマイクでそう言うと、拍手が沸き起こった。


「予め先生にここで歌うことを頼まれていたので、歌います。国立音楽館とは音響設備が違うので公演とは全く違いますが、僕はこういうところで歌うのが思い出となると思うので、楽しみでした。それでは皆さん、聴いてください」


 優は予め用意していた演奏を加工せずにスピーカーで流す。前世と同じやり方だ。


 一曲目は前世の学校の入学式で生徒が歌う曲。演奏はただの簡素な伴奏だ。

 明治に作成された歌は、素朴な曲調で、誰にも懐かしさを呼び起こす。

 歌詞は国文学者が作っただけあって、非常に高度だ。言葉に多くの意味が込められ、人の気持ちが込められている。歌詞だけで詩として成立するほど多くの技法が使われ、言外にも深い意味がある。

 それほど高度であるのに、平易な言い回しになっていて難しさを感じさせない。国民音楽としての役割を十分に果たし、それでいて主旋律が意味を深化させている。

 次元の違う出来の歌詞は優のお気に入りだ。


 優は独唱に近い発声をして、体育館にマイクなしで歌声を響き渡らせる。

 身体全体を使った前世界の発声は、優自身を楽器、音声器官として、その透き通った声を響かせる。

 穏やかに詩を読み上げるようなその歌声に、生徒も先生も聴き惚れた。


 歌が終わると、割れんばかりの拍手が起こった。

 生徒も先生も、天皇家臨席の公演の実力を思い知った。


 拡声機器を使わずに広い体育館にその歌声を響かせ、それが聴いたことのない凄みを持っている。

 AI補正に慣れ切った耳には次元の違う音声に聴こえた。

 公開されているビデオとは、全く違うものだった。

 もしこの歌声でビデオの演奏がなされたら。

 誰もがこの世のものと思えないその情景を思い浮かべた。



 二曲目の演奏を流す。前世の歌だ。

 これは春を題材にする女性の歌。恋愛ではなく、友情の歌。

 曲調は穏やかで、独唱でもできるくらいの単純な展開。

 明治のような短い言葉で精神文明の精髄を抽出した歌とは異なり、単純な言葉と意味が続く。分かりやすい歌詞はほのぼのとした気持ちにさせる。


 優はこれも発声を十分に使い、歌った。

 明るく軽い曲調に合わせ、深みのない歌い方を敢えて行う。

 熟成ワインではなくテーブルワインのように。

 だから体育館に響き渡らせるのではなく、子供に語り掛けるように歌う。

 軽妙な歌詞と曲調と歌い方に、生徒たちは笑顔で聴いていた。


 歌い終わると、歓声と拍手が起こった。軽い曲調は感動ではなく気持ちを軽くさせる。



 最後は前世界の歌。怜良と車で聴いていた曲だ。

 ゆったりとした曲。しかし前世界の歌はどの曲もレベルが高い。

 歌詞はともかく、単純な曲であっても発声には限界を超える技術を要求する。

 音響設備のせいで伴奏は拙いが、優はそれをものともせずに歌う。


 優は伴奏が不足する分、発声の技術を使って曲を作り上げる。

 国立音楽館での歌は演奏とのハーモニーを使用したが、ここでは歌声のみで構築する。

 独唱とは異なる技術を使用し、わずかの伴奏が作り出すイメージをベースにおいて、歌声でどこまでも情感を膨らませていく。

 優は前世界の発声技術を余すところなく使い、歌声を響かせた。


 歌い終わると、拍手がない。

 優は、前世界の歌はダメだったかと思ったが、直後に拍手が沸き起こった。


「すごいわ! これが奇跡の歌い手の実力なのね!」

「ビデオのどれとも違う曲だったわ!」

「演奏がほとんどないのに、すごい曲だったよ!」


 生徒たちは歓声を上げる。

 優は前世界の歌が好評なので、ほっとした。

 怜良との思い出の歌が受け入れられて嬉しかった。


「皆さん。どうでしたか。国立音楽館とは色々と違いがありますが、僕自身は何も変わらないので、僕の歌として喜んでもらえたら嬉しいです。また機会があったら、皆さんに聴いてもらいたいと思います。先生方、皆さん、今日はありがとうございました」


 優はぺこりと頭を下げた。万雷の拍手で、優の歌が称えられた。




「優くん! すごかったね!」

「ビデオとはやっぱり全然違うね」

「優くんの歌が生で聴けるなんて、幸せ」


 教室に帰ってくると生徒たちが口々に優の歌を褒める。


「みんな、ありがとう。気に入ってくれて嬉しいよ」


 優は素直に称賛を受け入れ、笑顔を振りまく。


「優くん、ビデオの再生が凄いことになってるの、知ってる?」


 塚原ひよりが聞いてくる。


「いや、あんまり」


 優が呑気に答えると、教室中からブーイング。


「ちょっと優くん! 自分のビデオなのにどうして知らないのよ」

「そうだよ。私たちも手伝ったんだから、ちゃんと見てよね」

「とにかくすごいんだよ。ニュースでも毎日騒いでるし、この国で優くんのこと知らない人なんていないよきっと」


 みんなが詰め寄ってくる。


「そんなに評判がいいの?」


 優がボケーとした態度で言うので、女子生徒たちの目が鋭くなった。


「ねえ、優くん。自覚がないようだけど、男性保護局がついてなかったら、今頃この学校はマスコミやファンで取り囲まれてるよ。優くんが普通に通学できるのは、守ってもらってるからだからね」


 苅橋希がそう言う。

 優はその言葉を聞いて、怜良を見た。怜良は知らんぷり。


「そうなんだね。わかったよ。みんなと作ったビデオが評判が良くて、よかったよ」

「まったくもう。優くんはもうトップスターなんだから、早く自覚しないと大変なことになるよ」


 苅橋希たちはそう言って席に戻っていった。

 優は多数の曲のストックがあるので、それを全て発表するつもりなのに、たった八曲で騒ぎになるのが不思議だった。





「ツアー? 何それ」

「ツアーって言うのはね、全国をコンサートしながら回ることよ。この国だと縦断したりすることかしら」


 学校から帰ってきて、怜良さんとお茶を飲んでいるところ。

 西日が射すこの時間は黄昏て結構好き。じじくさいかな。


「それやるの?」

「違うわ。優くんが公演をしたいなら、全国どこでも設定してあげるわよ、っていう話」


 そう言えば先週に国立音楽館で初めての公演をしたから、これからは公演をして回るのはOKなんだよね。僕も準備は十分にできてるし。

 ちなみに前世の曲のストックは千曲を超えたよ。意外と知ってるもんだよね。外国の曲だけで三百を超えてるから、ほんとはもっと多い。でもきちんと楽譜に完成してるのがだいたい千曲。今後も増やしていくから、最終的には三千曲くらいかなあ。時間をかけていると色々思い出すから、まだ記憶には沢山ある気がするけど、これを全部ビデオにしたらどうなるんだろう。


「それって、学校をずっと休むことになるよね」

「いいえ。ここから飛行機で直接行くから、いつも日帰りよ。旅行してもいいわね。温泉に行こうかしら」


 怜良さんが旅行気分になってる。そう言えば怜良さんと旅行したことないな。


「じゃあ、旅行に行こうよ。公演を入れてさ。修学旅行みたいに二泊三日はどう?」

「そうね。訪問先によるけど、まずどこで公演をやりたい?」


 うーん。国立音楽館みたいなしっかりしたところもいいけど、今日みたいに体育館で学校の生徒に歌うのも楽しかったな。前世界の歌も大丈夫みたいだし。


「うんとね、学校がいいな。生徒さんと、地元の人たち。学園祭ってある?」


 前世の小説では学園祭で歌うのは定番だよね。ああいうのに憧れてたんだ。

 生徒さんだけじゃなくて、地元の人たちも来てもらって歌ったら楽しそう。

 それで近くに泊まったらいいんじゃないかな。


「いまは学園祭の時期じゃないから、普通に学校を訪問して公演をしましょうか。そうすると優くんは平日になって学校を休むことになるけど、いいの?」

「うん、いいよ。学校はこれからも通うし、ビデオとか色んな形で関わるから週末も使って忙しいし」

「わかったわ。じゃあ、明日行きましょう」

「え、明日?」


 怜良さん、無駄に有能。言葉通りに設定するよねきっと。


「ええ。二泊三日なら、明日出発して、二日目に学校を訪問して公演よ。そして翌日帰ってくるの。その間に地元を回って観光よ。平日だけだから空いていてちょうどいいわ。どうかしら」

「うん。怜良さんに任せるよ。僕は旅行も公演もわからないから」

「わかったわ。行き先に希望はある?」


 うーん。全く分からない。


「怜良さんが行きたいところで、中学校か高校でどうかな」

「わかったわ。温泉があるところでゆっくりしましょう」

「温泉って行ったことないよ」

「大きなお風呂よ。貸切にしましょうね」


 怜良さん、ニコニコだ。温泉かあ。いいな。お風呂とどう違うんだろう。


「うん。楽しみ」


 こうして急遽、公演旅行が決まった。





「ここよ。暖かいところを選んだわ。同じ山でも、景色が違うでしょう?」


 朝早くに飛行機に乗り、西に向かって山間部にある盆地に到着した。


「この辺はもう山には緑が目立ってきてるね」

「ええ、気候が違うから、景色は随分と違って見えるわ」


 広い盆地は田んぼが広がっていて、山が周囲に見える。新緑が綺麗だ。

 咲原よりもあったかい。空気の匂いも違っていて、これが旅行なんだね。


「怜良さんとこうして知らない街を歩くのは、何だか新鮮な気持ちになるよ」

「ふふふ。優くんにこうして違う景色を見せてあげられて嬉しいわ」


 ちょっとした街が広がっていて、商店街を歩くよ。

 色んなお店が並んでいて、咲原とは随分と違う。

 ここはこの辺りの中心街なのかな。


「ねえ、怜良さん。このお店見ていい?」

「いいわよ。入ってみましょう」


 店先を見たら小さなガラスの人形が並んでる。

 可愛い感じだから、入ってみた。


「すごい可愛い人形が沢山並んでるね」

「可愛いわね。ガラスの人形ね」


 指の先くらいの小さな人形が並んでる。

 動物が多いかな。カエルとか子豚とか。


「これが可愛い」


 小さな黒ねこと、少し大きな白ねこ。それが手のひらの半分位の丸い鏡に乗ってる。

 寄り添ってる姿が、怜良さんにくっつく僕みたい。


「あら、これが気に入ったの?」

「うん」


 優が一人で猫の人形に見入っていると、怜良が近づいてきた。


「なんかね、僕が怜良さんにくっついてるみたい。昔はこうしてくっついていたよね」

「ふふ。そうね。そんな感じね。買ってくるわね」

「いいの?」

「ええ。優くんの部屋に飾るといいわよ」

「ありがとう」


 怜良が購入して小さな包みを優に渡すと、優は大事に抱えた。




「ようこそおいでくださいました」


 今回の公演をする場所は高校だ。生徒数は四百名ほどだが、そこに近隣の学校や住人があつまる。およそ三千人から五千人ほどが見込まれるので、校庭を使用する。本当はもっと適切な施設があるが、優が「学校」と言っていたので、生徒を中心にするため、学校を無理やり公演会場にする。


「はじめまして。咲坂優といいます。今回は突然の申出にもかかわらず、受けていただき感謝します」


 優が校長に挨拶する。


「いいえ。今をときめく咲坂優さんに、こんな田舎に来てもらって、公演までしてもらえるなんて、この学校にとってもこの街にとっても、大歓迎です。陛下が御覧になるほどの歌い手ですから、これほどの栄誉はありません。授業はいくらでも代替できますから、どうぞよろしくお願いします」


 校長は深々と頭を下げる。


「それでは放課後から校庭にはスタッフが入って設営をします。警備も入りますのでご協力願います」


 怜良がそう言うと、校長は全て了承した。




「お昼ご飯にしましょう」

「うん! どんな食べ物があるのかな」

「ここはうどんが名物なのよ。こういう山間部はうどんやそばが名物になっていることが多いわ。美味しい店は調べてあるから、行きましょう。ここから結構近いから歩いて行けるわ」

「やったー」


 優は怜良と手をつないで街を歩きだした。

 やがて落ち着いた雰囲気の店に到着する。


「ここよ。予約してあるからすぐに食べられるからね。入りましょう」

「うん。楽しみ」


 引き戸を開け二人で暖簾をくぐり中に入る。

 席に案内され、メニューを見てみる。ここは前世と同じように、紙のお品書きが置いてある。


「どれが美味しいのかな」

「どれも美味しいわよきっと。具は何がいいの?」

「うーん。あ、この南蛮ていうのはどうかな」

「これはカレー南蛮だから、カレーうどんだけど、いいの?」

「うん。これにする。カレー好きだから」

「そう。それじゃ私はきつねうどんにするわ、卵ももらおうかしら」


 二人の注文をして、水を飲みながら話をする。


「きつねうどんてさ、どうしてきつねって言うのか気になるよね」

「ふふふ。そうね」

「だってさ、僕が怜良さんのきつねうどんからお揚げを取って食べちゃったら、ただのうどんになっちゃうでしょ。それならお揚げがきつねってことでしょ。でもお揚げはお揚げだよね」

「そうね」

「お揚げがきつねなの?」

「お揚げはお揚げね」

「お揚げはお揚げなら、きつねはどこ行ったの?」

「それよりもお揚げって何度も言ってたから、お揚げって言葉が変に聴こえるわ」

「そうだね。しばらくお揚げって言わない方がいいね」

「ふふふ」


 怜良と優は他愛のない会話を続けて、旅行気分を楽しんだ。




 宿泊は旅館。温泉宿だ。


「旅館て初めてだね」

「静かでいいところでしょ」

「うん。咲原も静かだけど、違う土地だから何か違うよね。いい感じ」

「ここは露天風呂があるから、星を見ながらゆっくり入るといいわ」

「露天風呂って、外にあるやつ?」

「そうよ。今は春だから、ちょうどいいわ。虫もいないし、涼しい風にあたりながらお湯につかると気分が良くなるわよ」

「そうなんだね。初めてだからわかんないけど、怜良さんが言うなら間違いないね」


 部屋で夕食を食べたあと、優は露天風呂に入る。


「あー、ほんとだ。星が綺麗。湯船も何かすごいな」


 身体を洗ってから露天風呂に出てみると、満天の星空。


「優くん、ちゃんとお湯につかってる?」

「うん。誰もいないからのびのびだよ」

「風邪ひかないようにちゃんとつかってるのよ」

「はーい」


 女湯から怜良が声をかける。

 実際は警護官が警備するため貸し切りなので混浴にしてもいいのだが、優が恥ずかしがるので怜良は別々にしておいた。


「星が綺麗だよ。咲原とは違って見えるよ」

「お風呂から見える景色は綺麗でしょ」

「うん。ありがとう、怜良さん」

「ふふふ。優くんは沢山頑張ってるから、ちゃんと休まないとね」

「僕は怜良さんがいてくれるから、何も疲れてないよ。怜良さんが休んでね」

「ありがとう。ちゃんと休んでるから大丈夫よ」


 優は前世で本に見た旅館や温泉を体験できて、満足だった。

 広々とした温泉につかり、手足を伸ばす。


 かけ流しの湯口から流れ落ちる水音が、夜空の静寂に心地いい。

 春の夜に特有の香りの夜風が竹林をささめかせ、所々にある小さな明かりを瞬かせる。


 人としての経験を少しずつ積み重ね、優は人としての人生を歩んでいる。

 しかし優にとって、それは大事なものではなかった。


 逆にそれがなくてもよかった。

 前世に写真で見ただけの温泉も、こうして健康な身体でつかる現実の温泉も、優には違いがなかった。


 優にとって大事なものは怜良だった。

 怜良が自分を大事にしてくれること自体が、優にとって何よりも大切なものだった。


 たとえ仮初であっても。

 うたかたのように消えてしまうものであっても、優にとってはこの転生人生全てと引き換えにしても惜しくないものだった。




「皆さん、こんにちは。僕の名は咲坂優といいます。今日は突然のことですが、ここで歌を歌わせてもらえることになりました。昨日きたばかりで、街を歩いてみましたがゆったりとした街で、いいところだと思いました。いい思い出になったので、お礼も兼ねて、頑張って歌います。気に入ってもらえると嬉しいです」


 優がそう言って頭を下げると、喝采の拍手となった。

 この高校の校庭に設置された仮設ステージには、数千人が詰めかけている。

 突然の決定で予告もないのに、生徒だけでなく多くの住人がやってきた。


 校舎には生徒が鈴なりになり、校庭には人が入りきらない。周辺道路にも高台にも人が押し寄せている。

 誰もが「奇跡の歌い手」の姿を見ようと、その歌声を聴こうと、老若男女を問わずやってきた。

 始まる前から熱気が高まり、優が話している時以外は歓声が止まない。

 まだビデオ公開から四日しか経っていないのに、優は予想外の大声援で面食らった。




「それじゃあ、一曲目を歌います」


 優は演奏をスタートさせる。

 今回は野外の仮設ステージなので、音響設備は簡易設備となっている。

 本当は本格的な設備をつけられるが、優はなるべく何もしないように怜良に頼んでいた。


 色んなところで、色んな環境で歌いたかった。

 それが優にとっては「歌」だった。それはAI補正とは真逆の考え方だった。

 アルタモードは無い。優が予め設定した通りに再生するだけだ。

 だからハーモニーは優が歌を演奏に合わせる。


 要するに前世と同じだ。優には却って慣れている。

 再生も立体再生ではなく、前世と同じスピーカーによる再生だ。

 あちこちの鉄柱にもスピーカーがついている。運動会みたいだ。

 声は有線マイクを使う。


 普通の人間はAI補正で歌っているので、このようなやり方では耐えられないが、優は問題ない。

 前世のやり方を知っている優は、この状況が楽しかった。


 いつもと同じように、最初の曲は穏やかな曲にする。

 ビデオが公開されていても観衆が慣れているとは限らないからだ。

 もちろん未公開曲だ。


 季節を表現した歌詞。五月の新緑にぴったりの歌詞。

 気持ちのよい風がそよぐ季節を描く歌は、優の声によく合い、校庭を超えて響き渡る。


 AI補正のない澄み渡った声は、たとえただのスピーカーからの音声であっても、観衆には人生で初めての本格的な歌声だった。

 身体を十分に使った前世界の技術は、観衆にとって衝撃だった。

 ただのマイク一本で、音響用でないただの音声用のスピーカーで、これほどの歌声を聴かせる優は、観衆からは文字通り「奇跡の歌い手」に見えた。


 一曲目を終えると、割れんばかりの大喝采となった。

 屋外であるにもかかわらずその歓声は優に押し寄せてきた。

 国立音楽館では優が音源再生システムを使いこなして観衆をコントロールしていたが、ここでは観衆は感情を、感動をそのまま発散させる。

 優はその様子が、とても嬉しかった。


 ――昭和の時代の歌手って、こんな感じだったんだろうな。街中で演台に立って、ただのスピーカーをおいて、音楽を流してマイクで歌って。道行く人を相手に、自分の歌声だけで聴かせて。

 聴いている人たちの感情が直接伝わってきて、何だか楽しい。やっぱり来てよかったな。

 お年寄りも小さな子供も、みんな楽しそう。あの楽しさを自分が作り出しているって思うと、とても楽しいな。




「皆さん、楽しんでくれているようですね。それじゃあ、次の曲を歌います。ちょっとテンポがいい曲だから、楽しんでください」


 次の曲を始める。次はポップスだ。

 この晴れた日にはポップスがよく合う。明るいポップスは明るく歌えば形になる。

 それは観衆が自分でも歌いやすいということ。合わせやすいということ。

 優が軽快に歌い始めると、やがて観衆は手拍子を始め、歓声を上げるようになった。

 優はステージから手を振る。マイクで拾う声の音が乱れるが、それが野外ステージらしくて楽しい。


 音源再生システムの作り出す純粋さとは真逆の質素な即席野外ステージは、優に前世を思い出させた。中古のノートパソコンの貧弱なスピーカーの出す歌を思い出す。

 優はベッドに横たわる毎日を思い出した。そこでいつも聴いていた歌を思い出した。

 貧弱な音でも、当時の優にとっては娯楽の全てだった。それ以外には何もなかった優の生活では、それは人生の全てだった。だから今世でも歌を歌うことが前世を生きた証明だった。


 優は歌いながらそんなことを思い出していた。


 今は何不自由ない生活がある。健康な身体がある。家族もいる。

 そんな、前世にはなかったものが全て揃ったこの人生で、それでも優にとっては怜良が全て。


 優は、前世でもし音楽がなくなっていたら、自分はどうなっていただろうと考えた。

 もし今世で怜良がいなくなったら、自分はどうなるだろうと、考えた。


 いつの間にか歌い終わっており、意識を戻すと耳に大歓声が飛び込んできた。

 優はその後も歌い続け、初の野外ステージは大成功に終わった。


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