33 思いやりの意味
米の研ぎ方や炊飯の方法を書いていますが、何れも環境、地域、世代、商業目的などで異なるので、ご留意ください。
今日は朝食を食べた後、怜良とともに咲坂家を訪れている。
「この猫はかわいいね」
優は軒先の長椅子に座り、三毛の猫を撫でている。
今日は咲坂家の人たちは畑に出ていたりするので、優は家の外で遊んでいる。
「あごの下の首の部分を撫でてやると、喜ぶわよ」
「あ、ほんとだ。気持ちよさそうにするね」
優が首の下を撫でてやると、猫が気持ちよさそうに目を閉じる。
「なんかゴロゴロ言い出したよ」
「それは気持ちいいよ、っていう合図ね」
「そうなんだ」
優の隣で長椅子に横たわる猫が、日向で喉を鳴らしている。
優は咲原に来てから猫を初めて見た。男性居住区画には男児の人格教育を管理するためにこのような動物はいなかったので、前世を含めて実物の猫を見たのは初めてだった。
「優くんは猫が好きそうね」
「うん。かわいいよね。このだらしない感じが呆けてるときの怜良さんに似ていて、親近感が湧くよ」
「なによ、それ」
怜良は自分ではいつもしっかりしている自覚でいるので、呆けているときの姿は思い浮かばない。優にとっては結構そういう姿を見ているので、イメージに差がある。
「ちょっと餌をもらってきてあげるわ」
「食べるかな?」
「猫は時間が経つとすぐにお腹が空くから、きっと食べるわよ」
そう言って家の中に入って行った。
「ほら、これをあげてごらんなさい。いつも食べているらしいわ」
怜良は魚をほぐしたものを皿に持ってきた。
「うん。あげてみる」
皿を顔の先に置いてやると、猫はぴょこんと起き上がり、餌を食べ出した。
「ほんとだ。食べるね」
「猫は食べてるか寝てるかだからね」
「なんか平和でいいね」
日向で怜良と優は猫が餌を食べるのを見ている。
ここが要塞とは思えない、のどかな光景だ。
「そうだ。みんなにお昼ご飯作ってあげようよ」
「そうね。きっと喜んでくれるわ。ちょっと言ってくるわね」
そう言って再び怜良は家に入っていく。
「ユリさんも桜さんも喜んでいたわ。何を作ろうかしら」
「ここに生えてるもので天ぷらを作りたい」
「あら、それはいいわね。優くんは天ぷら好きだものね。選んであげるわ」
目の前には家庭で消費するための野菜が植えられている。ほとんどは勝手に育っているようだが。
怜良は無補給要人保護訓練で食用にできる山菜や野草に詳しく、菜園に生えているよくわからない植物も見分けがつく。
「優くんはナスとピーマンをもいで来てちょうだい。私は葉っぱを採っていくわ」
「うん、わかった」
優はよく育った、ちょっと育ち過ぎたナスや、ピーマンを丁寧にハサミで切って集めた。
怜良は手際よくシソなどを採集していく。
「人参や玉ねぎはあったから、ゴボウを掘り出していきましょう」
「ゴボウ?」
怜良はスコップを持ち出し、地面を掘り出した。優は何をしているのかわかっていない。
怜良はどんどん掘っていく。やたら手慣れている。長身の美人がもりもり掘っていくのがおかしかった。
「ほら、ゴボウが採れたわ。こうやって深くまで埋まっているから、折れないように掘り返して採集するのよ。他の野菜の根を傷つけないようにするのが大事よ」
「すごいね! ゴボウ掘るの初めてみたよ」
優はゴボウを受け取り、その長さに驚く。怜良はせっせと土を埋め戻す。
「これくらいでいいわね。じゃあ、台所に行って準備しましょう」
「うん!」
二人で野菜を抱え、台所に入っていく。
台所は入口に土間があり、そこで野菜を洗う。ゴボウの泥もここでしっかり落とす。
「じゃあ、手をしっかり洗って、下ごしらえを始めましょう」
「うん。はじめよう!」
まな板や包丁、ボウルを用意していく。
水と小麦粉を冷蔵庫に用意し、冷やしておく。
「優くんはお米を研いだことないわよね」
「うん。まだないよ」
「じゃあ、今日は時間があるから、やってみましょうか」
「うん!」
怜良は米袋を取り出し、カップで計量する。
「手順は多目の水を一気にざっと入れて、その水を流してから、手早く米をこすりあわせるようにして米ぬかを落とすのよ」
「どうして始めに水をざっと入れるの?」
「お米には虫やゴミが混ざっていることがあるから、それを取り除くのよ。ざっと水を入れると浮いてくるから、そのまま流してしまうの。ゆっくり水を入れると浮いてこないから、一気にやらないとダメよ。かき混ぜないでね」
「わかった! やってみる」
優が言われた通りに桶に汲んだ水を入れると、何も浮いてこなかった。
「何も浮いてこないね」
「普通に流通している米には不純物や虫はいないから、これが普通ね。でも外で保管した米や出先では虫やゴミが多いから、このやり方を忘れちゃダメよ。さあ、研いでごらんなさい。手早くやらないとだめよ。急がないと米がぬかの水を吸ってしまうわ」
優はそう言われて、水を流して慌てて米を研ぎだした。
「上手にできているわ。あまり神経質にやる必要はないからね。手早く全体を研げば十分よ。優くんが大きくなったときに力を入れすぎると粒が割れるから、力加減に気を付けてね」
優は水を流し入れ、米を洗う。数回洗い流すと、
「そのくらいでいいわ。このまま水につけておくわよ。ユリおばあさんも食べるから、芯まで柔らかくしましょう。水につけておく時間は一時間はとりましょうね」
「ユリおばあさんのために柔らかくするの?」
「そうよ。ユリおばあさんは九十一歳でしょ。年を取ると飲み込む力が落ちているから、喉ごしが楽なものがいいの。お米を水につける時間を長くすると、炊いたときに芯までしっかり柔らかく炊けるわ。これをしないで炊くときの水だけを増やすと、べちゃっとした炊き上がりになってしまうから、覚えておいてね。
ユリおばあさんは歯がしっかりしているから、水を増やした単に柔らかいだけのご飯を食べ続けるのも心や身体に悪いわ。逆に家で炊くお米は、優くんのあごの力を弱くしないために、水につける時間を短くしているわ」
優は怜良の知識に感心した。
「怜良さんて、すごく色んなこと考えてるんだね」
「当たり前よ。こういうのも男性保護官に必要な知識なのよ」
「男性保護官てすごいんだね」
優が尊敬の眼差しで怜良を見ていると、ふと、いつもと違って怜良は続けた。
「優くんは動物と人間の違いは何だと思っているかしら?」
突然の質問に、優は考え込む。
「うーん。言葉を話すとかはあるけど、怜良さんが聞いているのはそういうことじゃないよね」
「そうね。身体や知能というものは、動物と人間は大きな違いがあるわね。さっきの猫と優くんは違う身体よね」
「うん。それははっきり違いがあるね」
「でも人間と動物はね、心や精神があるのが一番の違いなのよ」
怜良が続ける。
「動物は食べ物を食べていれば大人になるわ。そしてそれで終わり。同じく人間も、食べていれば勝手に身体は大人になるわ。
でもね、心や精神はそうじゃないわ。心や精神はきちんと育てていかないと大人にならないの。そこが人間と動物の生涯の違いね。
いまこうやってご飯を作っているでしょう? ご飯を家族に作ってあげる経験がないと、食べる人の身体の様子を考えて食事を作るなんて、なかなか思いつかないでしょう? おいしければいいとか、好きなものならいいとか、そういう考えになってしまうわ。
食事をいつも誰かに作ってもらっているだけの人は、食事が思いやりでできているなんて思わないわ。優くんに手伝ってもらっているのは、そういう思いやりが分かる大人になって欲しいからよ。
優くんがお昼ご飯を作っているから、優くんの思いやりを感じて、今日はみんな喜ぶわ」
「そうなんだね。僕には思いやりって、まだよくわからないんだ。言葉や形では理解しているんだけどね。怜良さんが言っていることを考えてみるよ」
「ふふ。優くんはいい子ね。きっと分かるようになるわ」
怜良はそう言って、ゴボウを丁寧に洗いだした。
そして縦に切り込みを入れ、ボウルに水を張って酢を入れた。
「ゴボウはささがきにしてね」
「どうやるの?」
「この縦に切り込みを入れたゴボウの表面を、削っていくのよ。こんな風に」
「あ、なんか面白そう。ボウルに落とせばいいんだね」
「そうよ。手を切らないように、慌てないでね」
二人は仲良く食事の準備を進めていった。
「おや、今日の昼ご飯は優たちが用意してくれたのか」
「そうだよ。おいしくできてるといいんだけど」
「おいしいに決まってるじゃないか。ありがとう」
昼ご飯には、畑に出ていた彩と巴も帰ってくる。
咲坂家と優と怜良は食卓について、食事を始めた。
「もしかしてゴボウを掘り出したのかい」
「そうだよ。怜良さんが掘り出してくれたの」
「大変だっただろう」
「慣れてますから大丈夫ですよ」
「どんどん掘ってたよね」
ゴボウ掘りに慣れているとはどんな経験だろうかとみんな思ったが、聞かないでおいた。
「天ぷら、上手に揚げられてるわ。おいしくできてるわね」
「ほんと? 僕が揚げ物はしたんだよ。かき揚げがちょっと難しかった」
「それはすごいわね。やけどしなかった?」
「うん、大丈夫。ちゃんと割烹着着て長袖だったからね」
「それならよかった。いろいろ用意してくれて、嬉しいわ」
「天つゆもご飯も吸い物もきんぴらごぼうも、怜良さんと作ったの。いろいろ勉強になったよ」
「ほう、全部手作りしたんだね。大したもんだ」
「天つゆの材料は意外と簡単だったんだね。知らなかったよ」
「そうだね。和食の味付けは似たような材料で事足りるからね。でも作るのは大変だから、ありがとう」
和やかに昼の食事時間が過ぎていく。
「まだら模様の猫が軒先にいたけど、あれって飼ってるの?」
「ああ、あの猫か。あいつは勝手に住み着いてるんだ。時々餌をやるけどね」
「あの猫は台所に餌をもらいにくるわよ。この家のどこかにいつもいるんじゃないの」
「なんか自由な猫だね」
「冬はストーブの前にいたりするからな」
「家の中にもいたりするの?」
「そうだよ。足ふきのマットが置いてあっただろう」
「軒下のあれって、猫用だったんだね」
「そうだよ。あの猫が出入りしてるから置いとくことにしたんだ。ちゃんと使ってるみたいだよ」
「おかしな猫だね」
「猫は気ままに散歩するのが日課だからね」
「のんびりしてていいね」
こうして咲坂家での時間が過ぎていった。
「怜良さん、作った曲を聴いてもらいたいの」
「あら、聴かせてくれるの?」
夕食を済ませた後、優は怜良に声をかけた。
「今日のは歌じゃなくて、曲だよ。前に声だけで歌ったときがあったでしょう? あれは本当はピアノ曲だから、今度はちゃんと楽譜を作ったの。だから再生してみようかと思って」
「そうなのね。優くんの好きな曲はいい曲ばかりだから、嬉しいわ」
二人でソファーに座り、優がコンピューターを操作して再生する。
まるでその場でグランドピアノを弾いているように、音の粒がきらめいた音場が再現される。
この世界の情報再現技術は、基本的に三次元だ。映像も立体映像を再生できる。ただ三次元映像は見ていると疲れるので、ほとんどの場合は平面映像を使用している。
音楽再生に関しても、同様に三次元再生を行う。音楽に関してはその方がいいので、一般に三次元再生で行われる。
優は歌の復元の合間に、クラシック音楽の復元も試みていた。ただしクラシック音楽は楽譜の再現が難しく、記憶だよりになる部分が多いため、たまにしか復元できない。
「こういう曲だったのね。優くんが歌ってくれたときより少し複雑になっているかしら」
「そうだね。強い打撃音や細かいメロディーは声で表現しにくいから、ピアノ演奏になるとそういうところが違うね」
「とてもいい曲だわ」
「気に入ってくれたみたいで嬉しいよ」
「優くんが歌ってくれるのも好きよ。とてもかわいいの」
「そうかな?」
しばらく音楽が流れ続けた。
「とても素敵な時間だったわ。ありがとう」
「夕ご飯のあとにピッタリかと思って、聴いてもらったんだ」
「そうなのね。楽しかったわ。優くんは自分で考えて作っているの?」
優は前世の話をすることはできないと思っているので、少し言葉を変えることにした。
「自分で考えているんじゃないよ。頭の中に曲があるから、それをたどって再現しているんだ」
「そうなのね。いつも頑張っているから、大変そうで心配していたわ」
「大変じゃないよ。楽しいんだ」
「優くんは音楽が好きだものね。それを聴かせてくれて嬉しいわ」
「怜良さんが喜んでくれるのが一番嬉しいよ」
「優くんはいつも私のことを考えてくれるのね。ありがとう」
そう言って怜良は優の頭を撫でた。
怜良にとっては優がきちんと育ってくれることが一番大事なので、優の知識や感性がどこから来ているかは関心がなく、六勝たちが困惑するようなことを優が言っても、何も関心を示さなかった。
そういう怜良の態度が、いつも優を安心させた。
「昼間に怜良さんが言っていたことだけどさ、怜良さんが僕を大事にしてくれるのは、思いやり?」
「そうね。そう言っていいかもしれないわね」
「僕が怜良さんを大事に思うのは、思いやり?」
「少し違うわね」
「どう違うの?」
「優くんの気持ちは、好意ね」
「好意?」
「そう。好意」
「どう違うの?」
「それは、言葉ではなくて優くんが色んなことを経験して、心の中から感じて理解していく必要があるものなのよ。だから優くんがこれからたくさんの優しい人たちと関わっていけば、きっと分かる時が来るわ」
「そうなんだね。わかったよ。いつかその時が来るといいな」
「優くんなら大丈夫よ。安心していいわ」
そう言って怜良は再び優の頭を撫でた。
優は精神が発達し、理性も教養も得たが、人の心は「情報」として知っているだけで、経験が伴わないため、怜良の言っていることを理解するには未だ時間が必要だった。




