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21 習字の始め

「ぬぬぬ」


 心を研ぎ澄まし、ぷるぷる震える手を必死にコントロールする。


「ぬぬぬぬぬぬ」


 持ち上げている手がつってきて、手先が揺れ出す。


「もうだめー! 怜良さーん!」


 筆をぼとりと半紙に落とし、隣に座っていてくれた怜良のお腹に抱き着く。


「あら、甘えん坊さんね。もうだめなの?」

「だめなのー!」


 新たなお稽古ごと、習字が始まった。

 先生は怜良さん。

 今日は漢字の「一」の字の練習だ。


「力の入れすぎよ。まるで工場のロボットみたいだったわ」

「だって、ロボットみたいな動きじゃん!」


 優は前世ではパソコンしか使っていなかったので、字を書く経験が全くない。せいぜい署名だけ。送付物受領はハンコで済んでいた。しかもヘルパーさんが代理して。

 そして今世でも字を書く経験はほとんどなかった。


 そんな優にとって、筆を持って真っ直ぐに動かすのは、曲芸のように思えた。

 肘を机についていいなら少しはできそうだが、空中に維持したまま平面に強弱をつけて字を書くなど、まるで宇宙人と交信している動きのように感じた。


 ちなみにこの国の文字は前世と大体同じ。いくつか前世にはない文字もある。仮名に多い。漢字が共通していることから、東洋漢字文化圏の影響下にあったことをうかがわせる。ただ前世と発音が全く違う。そして意味が違う言葉や前世にはない単語が結構ある。これは歴史が異なる影響だ。その他算用数字と十進法は同じ。


「これは予想以上に困難なミッションなのだ……」

「急に難しい言葉を使ってどうしたの。さあ、続けるわよ。動きが悪いってことは、そこを鍛える必要があるってことなんだから。頑張るわよ優くん」


 情け容赦ない言葉が続く。怜良さんて実は怖い人? と優は少し思った。少しだけ。


「あい」


 ちょっと幼児化してみるが、意味はない。

 ひたすら「一」を書く。ひたすら。

 そのうち、「一」がなんだかよくわからない記号に見えてくる。きみはだあれ?


「優くん、なんか目がおかしくなってるから手首の柔軟体操するわよ。私の真似をして」


 そう言って怜良は自分の半紙に点をぽんぽん打っていった。いわゆる筆の打ち込み。


「あい」


 優は少し気を取り直して真似をする。


 おかしい。同じように点を打っているはずなのに、僕のはなんかべちゃっとしてる。

 怜良さんのように行儀よく点にならない。

 力を入れすぎかな? でも力を抜くとただのシミみたいなのしかできないんだよね。


「怜良さん、同じにならないよ」

「優くんは肩に力が入っているから、ちょうどいいところで筆が止まらないのよ。筆は優しく持って、突き刺すんじゃなくて、紙に先を置くだけよ。手首で軽くぽんぽんって」

「言っている言葉は日常語なのに、僕の頭の中では宇宙空間の話のように感じるよ」

「何を変なことを言っているの。さあ、続けてごらんなさい」


 やっぱり怜良さんて、実は怖い人? 疑惑が深まった。少しだけ。

 それでも大好きだけどね!


 現世界では各国は高度に情報化が進んでいるから、本来は筆やペンで字を書く機会はほとんどない。それでも習字をするのは、情報化社会だからこそ直筆の価値が高いためだ。

 なんでもかんでもデジタル情報で済ませていると、人間性を疑われる。遠隔地での情報伝達が発達しているからこそ、アナログな伝達は人としての意味をもつ。だからこの世界の人間は結構直筆で字を書こうとする。これは文字だけではなく絵画などでも同じで、コンピューター合成した絵よりも、直筆の油絵の価値がはるかに高い。


「ふにゃあ~。つかれたあ~~。もうだめー」

「よく頑張ったわね。始めのうちはこんなものよ。そのうち慣れてくるから頑張りましょう」

「うん」


 優は今日の練習が終わって、怜良に抱き着いて甘えていた。怜良が優しく頭を撫でていてくれる。

 途方もない道に感じるけど、まあ、続けていけばそのうち成果がでてくるんだろうね。

 でも習字はある程度でいいかな。うん。





「じゃあ、始めようかな」


 優はコンピューター端末画面を立ち上げた。

 前世の歌の再現作業の開始である。



 この端末はコンピューター本体と無線接続されている。もちろん処理速度、処理能力は優の前世を超える。そもそも一般家庭であっても普段処理されている情報量に圧倒的な差がある。できるだけ処理が日常生活に目立たないようにしているだけである。


 なおアクセスできるネット情報にはある程度の制限が設定されており、前世界の具体的な情報は基本的に一般市民には非開示となっている。これは音楽情報についても同じ。

 ただし文書による文献は禁書扱いではないので、自分で調べればその内容を知ることができる。アクセス制限はデータベースに関してだけである。


 この世界では、情報は国家が独占しているのではなく、未成年者への配慮もあり、単に市民の要望で前世界の情報が忌避されているため、ネット上の非開示処置がとられているに過ぎない。

 これは神の罰への反省をする必要があると考えられているのに、神の罰がもたらされた原因を完全封印することは、神への挑戦と考えられ危険だからである。



 すぐに立ち上がった端末に音楽ソフトを起動させる。

 優はすでに自分の端末の全ての音楽AIを機能停止させており、ソフトはすべてマニュアル操作設定をしている。


 前世でパソコンを常用していた優は、プログラミングの知識は身に着けなかったが、運用や操作には習熟していた。だから性質の違うこの世界のコンピューターでも、それほど手間取ることなく使いこなせるようになった。前世では優にとって、パソコンがほとんど唯一の情報処理・情報収集道具だったから当然のことであった。


 怜良に基本的な仕組みと操作を教えてもらい、前世の歌をマイクに簡単に歌って、楽譜変換ソフトを通して単音の楽譜に起こしてある。すでに数百曲の楽譜がデータ化されている。

 これらの楽譜データをフォルダに分類整理して、許可なくアクセスできないようにロックしてある。これは知らないうちにAIが起動してデータを書き換えないようにする予防措置である。


 歌の歌詞自体は、歌詞を全て覚えているのでデータ化はしない。曲が出来上がってから、歌詞をこの世界の言語に変換し、語調と曲調を整える。それまでは再現の邪魔になる。


 演奏の知識がない者にとっては、音楽を聴いてもその楽譜構成はわからない。メロディーをたどることができるだけで、何の楽器が使われているか、それぞれどのような楽譜になっているかわからない。そしてメロディーをたどれても、複雑な和音はわからない。

 つまり素人にはっきりわかるのは音の高低と強弱とテンポだけ。

 この単音でつながれた曲から、もとの曲を復元する。



 優はまず、よく知っている曲を一つ選び、覚えている限りの伴奏をできる限り再現することにした。

 使われていそうな楽器を選び出し、記憶をたどりながらそれぞれの楽器の演奏を曲に合わせて再現していく。

 かなり覚えているが、どうしてもその場その場の目立つ楽器の音に引きずられ、細部の再現ができない。

 電子音が使用されていることも多く、音の特定にも手間取る。


 しかも重大な問題に気付いた。

 ベース音がわからないのだ。


 優は前世でノートパソコンで音楽を聴いていた。生活すべてを扶助で賄ってもらっていた優は、必需品であるノートパソコンを養護施設を介した寄付の中古品で手に入れていた。そして体外からの感覚情報が右耳だけだったために、イヤホンは使用できなかった。イヤホンを使用すると、周囲の音が聞こえなくなってしまい、危険だからだった。

 そうするとノートパソコンのスピーカーで音楽を再生することになるが、近所迷惑にならないように、また安全のため部屋の細かな生活音の変化に気付くように、音量を小さくしていた。


 そのために低音が大幅にカットされて聴いていたのだ。

 低音が強調される曲ではそれなりに聞こえていたので、普通の曲を再現してみるとベース音が大きく欠けていることに気づいた。要するに「スカスカ」な曲に聞こえる。前世と違って高性能な音源再生システムだから、低音の欠落が目立つ。


「うーん、困ったな。歌謡曲なら典型的なコードを使っていることが多いから、ある程度は再現はやりやすいんだけど、ベース音はほとんど聴いていないんだよね。それでも曲としては成り立つから無視してもいいんだけど、それだと曲を作った人にも申し訳ない気がするしなあ」


 優はしばらく悩んでいたが、この世界の音楽を参考にしてみようと考えた。

 そして次々に色々な曲を再生してみる。

 しかしどの曲もおかしな曲にしか聞こえない。


「これじゃあ参考にならないな。ベース音を鳴らせばいいという訳じゃないしね」


 うーん、と唸ることしばし。


「そうだ、いま再生できるのは現世界の曲だけなんだよね。前世界の曲には何かヒントがあるかも」


 そして怜良のもとに向かった。


「怜良さん、前世界の音楽にアクセスできるように、アクセス制限を解除してもらうことって出来るかな」

「前世界の音楽? そうね、ちょっと聞いてみるわね」


 怜良は六勝に連絡を入れ、しばらくして許可を得た。怜良の事前の報告で、六勝はすでに優の再現活動を知っている。


「優くん、許可が取れたわ。ちなみに前世界の情報のアクセス制限は全て解除されたから、優くんは全ての情報にアクセスできるからね。ただし他の人に内容をむやみに明かしたらダメよ」

「ありがとう、怜良さん。作業がはかどるよ。開示制限のことはわかったよ」

「頑張ってね。でもあまり根を詰めすぎちゃだめよ」

「うん、わかったよ」


 早速前世界の音楽にアクセスしてみる。


「あれ、結構いい曲だな。現世界の音楽と違って、ちゃんとしてる。前世とはやっぱり違う曲だけど、ちゃんといい曲になってる」


 調べてみると、前世界の音楽はAIではなく、人間が自力で作詞作曲編曲していることがわかった。


「やっぱりAIがおかしいのかなあ。まあ、前世界の音楽を参考にしてみよう」


 前世と同じようにヒットチャートもあった。しばらく再現を忘れて、前世界のヒット曲に聴き入っていた。


「ああ、この時代の歌はクローン人間が作って、クローン人間が歌っているんだね。単純に考えると数百年の経験値を持っている人間と言っていいのかもね」


 能力至上主義時代の人類が生み出していた音楽。非人道的と言えど、その音楽の完成度は高かった。現世界の曲が全く前世界の曲の水準に追いついていないことから、現世界の作曲AIは前世界の曲を参考にしていないことが、はっきりわかった。

 それでも現世界の曲を怜良たちがおかしいと思っていないことが不思議だった。


「あ、そう言えば、この時代の曲を人間が作っているなら、作曲の教本とかあるかも」


 そう思って調べてみると、ちゃんと前世界には音楽学校が存在し、様々な音楽教育課程を発見することができた。


「やった! これを使えば音楽のことがわかるよね。これからは音楽の勉強を追加しよう」


 音楽教本とカリキュラムを手に入れて、歌の再現は一旦中断して音楽の勉強をすることにした。





「以前彼が言っていた軍事施設の調査結果が出た」

「結構時間がかかりましたね」

「ああ、外務省に前世界まで遡って、当該大陸の軍事施設情報を広範囲に調査させたからな。それで、どちらも前世界の地上軍と航空軍の複合大規模基地だったよ。だが四百年前までにはどちらも完全に放棄されている。今は地図にも載っていない。時間が経過しすぎていて、整備しなおしても兵器の使用は困難だろうとの結論に至っている。従って現在では全く脅威ではないと言っていい」


 六勝が怜良に答える。


「そうですか。どの国の状況とも一致しますね」

「うむ。どうして彼がこれらの基地を特に指定したのか、その理由はわかったかね」

「いえ、この話題はあの時だけですので、未だに何もわかりません」


 六勝は腕を組んで考え込む。


「世界地図を初めて見て、人口減少地域を判断できたのは不思議ではない。地形を見ればある程度はわかりやすいからな。南半球やナンガラ国地域の砂漠を指摘したことも、地球の自転と自転軸と、気象原因を理解していれば判断できる可能性がある。森林は見た通りだな。地震も、発生メカニズムを理解できていれば推測できるだろう。

 だが軍事施設は推測できないはずだ。政治関係を具体的に理解していなければ場所の特定はできない。自然科学は天才なら思いつくだろうが、社会科学は知識か経験がなければ思いつくはずがない」


 沈黙が流れるが、怜良は飄々としている。六勝はそんな怜良を見て考えることを止めた。


「まあ、わからないことを情報もなく考えるのは生産的ではないな。彼にはわからないことが多すぎて、最近は麻痺してきたしな」

「ふふ。顧問もやっと優くんに慣れてきていただけたようですね」

「……そう言う君は余裕だな」


 六勝が皮肉まじりにあきれた顔で怜良を見る。


「余裕ではなくて、それが優くんだから、当たり前に思っているだけですよ」

「まだそこまでは達観できないな」

「男性人格教育の必要がないので、毎日暖かい目で優くんに接しているだけです。優くんは驚くほど頭がいいですが、それ以外はただの可愛い男の子です。優くんとの生活が始まって一年が過ぎて、彼にも余裕が生まれてきましたよ」

「それは羨ましい限りだな」

「優くんが、最近顧問の元気がないから心配していましたよ」

「陛下も君も余裕がありすぎて、ふと自分がちょっとバカみたいに感じる時があるだけだ」

「顧問が難しいことは考えてくださるから、私は優くんと安心して保護生活ができています。感謝しておりますよ」

「ふう。君はまったく」


 天然なのか短絡なのかよくわからない返答を聞いて、六勝は半ば諦めたような顔をした。


「新しい歌を披露したり、前世界のアクセス権限を要求したり、何だかまた私だけ忙しくなりそうな予感がするな」

「歌はとてもいい曲でしたよ。生後の歌とは違って、きちんと完成していましたから。だから生後の歌は完成したらきっと素晴らしい歌だと思いますよ。楽しみではありませんか?」

「楽しみではあるが、楽しむ前に調査しなければならないことが増えそうで、気が重いな」

「多分、優くんは難しいことは考えてないと思いますよ」

「私の立場では、根拠なくそのようなことを断言できないのだ」

「咲坂家のご家族も喜んでましたし」

「外部の人間が彼の歌を聴いたのは初めての事例だ。その影響の調査もしなければならないから、忙しくなるな」

「スタッフが大変ですね」

「陛下のご指示で人員を三倍に増やしている。何とかするさ」


 六勝の目が少し遠くなる。


「彼が君にお礼の歌を披露したときの、記憶の後退現象も調査しなければならないな」

「あれは素敵な経験でした。優くんの気持ちがたくさん伝わってきて、幸せでしたよ」

「それについては陛下が強い関心をお持ちだったぞ」

「そうなんですか。他の調査事項の方が重大な気がしますけど」

「陛下は我々の考えつかない見方をなさるからな。きっと何かおありなんだろう」


 六勝が深く息を吐く。すると怜良が言葉を継いだ。


「そういえば」

「何だ! まだ何かあるのか!」

「先ほど優くんが、顧問に許可してもらった前世界情報のアクセス権限で、前世界の歌を聴いたら、現世界の歌と違っていい歌だって言ってましたよ。私には違いがわかりませんでしたが」


 怜良の爆弾発言に、六勝は目をまん丸に見開いた。


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