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19 初めての歌

 三月下旬。

 もうすぐ桜の花が咲く季節。

 桜はとても綺麗で、日本人には特別の思い入れがあるから、本当は四月の桜の咲くころに聴かせてあげたかったんだ。


 でもね。

 日本では卒業とかお別れの季節は三月。

 だから感謝の気持ちや、恩返しの気持ちを伝えるには三月なんだと思うんだよね。


 怜良さんにお世話になるようになってから、一年が過ぎる。

 その間、僕は怜良さんから受け取るばかりで、何も返せていない。

 怜良さんは家族を実家に残して、ずっと僕のそばにいてくれた。

 いつも僕のためにそばにいてくれた。

 だから何かお礼をしたいんだ。


 でも僕には何もないし、どんなお礼をできるかな。

 そう思って考えてきたんだけど、僕は歌をプレゼントすることにした。

 発声練習を始めてからまだ一度も歌ったことはないんだけど、怜良さんには前世の歌を歌ってあげたい。

 この世界の歌は前にも聴かせてもらったけど、どうしても好きになれない。

 だから前世の曲を歌うことにしたんだ。


 まだ僕の小さな身体では低い声は出せないし、肺活量も少ないから細い声しかでない。

 でも部屋の中で怜良さん一人に聴かせるくらいなら頑張れる。


 まだ歌詞を声で歌う力がないから、メロディーだけの歌。

 前世のクラシックを声で歌うことにしたよ。


 僕が歌う声は、声じゃなくて音だよ。

 「ラー」とか「アー」とか「ハー」とかの声の中間音声。文字にできる音じゃないね。

 他にも口と喉の形でいくつかの音の種類ができる。

 一年間の練習で少しできるようになった音の上下と強弱を使って歌うんだ。

 呼吸をコントロールして。

 身体全体を使って、楽器と同じように。

 前世のピアノ曲やバイオリン曲、オーケストラ。

 うまくいくといいんだけどな。





 朝ごはんを食べて、その後二時間勉強。

 食後に発声はできないんだよ。喉の調子が安定しないから、食後からかなり時間を置く必要があるの。だからいつも通り勉強をして、飲み物も無し。


 それから身体全体をリラックスさせて柔軟に筋肉を使うから、ストレッチや呼吸訓練を時間をかけてやるの。それを一時間やって、ようやく準備完了。

 今日は発声練習はお休みにしてもらったんだ。


「怜良さん、少し時間いい?」


 練習部屋から出て、家事を終わらせた怜良さんに声をかけた。

 いつもは一緒に発声練習の部屋にいてくれるけど、今日は発声練習は休みだし外に出てもらっていたの。


「いいわよ。どうしたの?」

「こっちに来て」


 僕は怜良さんの手を引いて、リビングのソファーに連れてきて座ってもらった。


「怜良さんにお世話になるようになって、一年になるよね。何かお礼をしたいって考えていたんだ。

 僕には何もないし何もできないから、歌をプレゼントすることにしたの。

 歌詞もなくて怜良さんは知らない歌だと思うけど、聴いてもらっていい? 気に入ってくれると嬉しいな。」


 そう言って部屋の真ん中に立った。


「私に歌を歌ってくれるの? 嬉しいわ。でも優くんが元気に育ってくれているのが一番のお礼よ」

「そう言ってくれるのが嬉しいよ。でもいつもお世話になるばっかりだから、せめてもの気持ちだけど頑張って歌うね」


 僕はそう言って、目を閉じて、息を自然に吸い込んで声、音を出した。


 まずは有名な作曲家のピアノ曲。


 ゆっくりと。元の曲よりずっとゆっくりと。

 刻む音は使えないから、原曲通りじゃなくて緩やかに。

 メロディーを途切らせないように。

 音が途切れそうなところでも、小さな音をつないで流れるように。

 息継ぎが難しいけど、呼吸を工夫して。

 絶え間なく流れるバイオリンのように。


 この曲は午後の日差しを思わせる曲。

 穏やかな時間が、木漏れ日とともに過ぎていくような。

 怜良さんと手をつないで歩くときみたいに。


 僕はゆっくりと歌った。

 高音が透き通るような、きれいな音がでた。

 長い時間が過ぎたように感じて、歌が終わって目を開けてみた。


「素晴らしいわ。こんな曲は聴いたことがないわ。とても上手になったのね」


 怜良さんは笑顔で拍手をしてくれて、褒めてくれた。

 僕は何も答えずに、ゆっくりと一礼をして、目を閉じて次の曲を歌い始めた。


 次は夜の曲。

 

 低音が多い曲だから今の僕には難しいけど、音階を少しだけずらして自分の音に合わせてみた。それから首の角度でなんとかできるかな。楽器そのものではないから、色々と工夫はできる。


 昼間に夜の曲は変だけど、聴いたことがない曲なら大丈夫だと思う。

 もの悲しい曲調が続いていく。

 本当の曲は途中で激しくなる部分があるけど、そこは歌わないよ。作曲家に怒られちゃうけどね。素人だった僕の感性で。


 これもゆっくりと。

 発声はいくつもの音の変化のさせ方があるから、予め考えていた音を重ねていく。

 歌い終わって目を開けると、怜良さんがまた拍手をして褒めてくれた。


 次は朝の曲。


 爽やかな朝の日差し、小鳥のさえずり。

 森林を思わせるような空気感。

 軽やかさと、その後にかさなる重厚さを表現するのは結構難しい。

 でも身体の使い方を工夫すると、何とかできそう。


 その後も歌を続け、五曲が過ぎたころ、この歌い方に慣れてきた。

 だから「感謝の気持ち」を込めてみることにした。


 ここからはバレエ曲。

 綺麗で流れるようなわかりやすい曲が多くて歌いやすい。

 聴いているほうも聴きやすいと思う。


 僕は胸の前に手を組んで目を閉じて、気持ちを心に浮かべて歌い始めた。



「怜良さん、いつもありがとう。


 始めのころから変わりなく接してくれてありがとう。


 優しくしてくれてありがとう。


 笑顔を向けてくれてありがとう。


 おいしいごはんをありがとう。


 僕の身体の調子が悪いときに看病してくれてありがとう」



 優の気づかぬうちに、音が二つに重なりだす。人にはわからない重なり。人にはできない重なり。

 優の身体を巡って、優の気持ちに共鳴する。



「怜良さんと手をつないでお散歩するのが、とても幸せ。


 怜良さんとお風呂に入るのが幸せ。


 怜良さんと眠るのが幸せ。


 怜良さんと出会ってから、幸せばっかりだよ。


 こんな奇妙な僕に優しくしてくれてありがとう」



 優の身体を巡って共鳴し始めた音が、怜良に共鳴を始める。

 怜良の心と精神に。



「普通の子供じゃなくてごめんなさい。


 前世の記憶があるなんて、変な子供でごめんなさい。


 すまし顔が多くて、他の子供みたいに可愛げがなくてごめんなさい。


 甘えすぎてごめんなさい。


 いつも独り占めしていて、怜良さんの娘さんにごめんなさい。


 たくさん恩返ししたいのに、何もできなくてごめんなさい」



 優の共鳴は怜良の心と精神を元の通りに戻そうとする。

 曇った心と精神から、その曇を取り払うように。



「僕は怜良さんに何もしてあげられないのに、それなのにいつも一緒にいたいって思っちゃう。


 いつまでもずっと一緒にいたいって思っちゃう。


 大人になんてなりたくないって思っちゃう。


 いつか怜良さんと離れ離れ。


 そのときには立派な大人になれているかな。


 怜良さんが安心してくれるような大人になれるかな。


 大人になったら何か恩返しができるかな。


 ねえ、怜良さん。


 僕にとってかけがえのない家族だよ。


 家族ってこういうものだって思えるよ。


 それを教えてくれてありがとう。


 これからも何も返せないけど


 大人になるまでだけど、よろしくね。


 いつもありがとう」




 かなり長い時間だったと思う。

 連続して五曲を歌った。

 優が歌い終えて目を開けると、いつの間にか怜良は泣き崩れていた。

 慌てて優は駆け寄った。


「怜良さん、大丈夫?」


 怜良はハンカチでグズグズと顔をぬぐった後、優の手をとって答えた。


「優くん、ありがとう。とてもいい歌だったわ。優くんの気持ちが伝わってくるようで、涙が止まらなかったの」


 そう言って怜良は優を抱きしめた。


「歌のプレゼント、ありがとう。本当に嬉しかったわ。優くんと過ごした一年の思い出がいくつも思い出されたわ。出会った頃の小さな小さな優くんの姿を思い出しちゃった」

「今はこんなプレゼントしかできなくてごめんね。いつか僕が歌いたい歌を聴かせてあげたいから、もうちょっと待ってね」

「ええ、ありがとう。楽しみに待ってるわ。でも今日の歌もとても好きよ」

「えへへ、ありがとう。いつもありがとう、怜良さん」





「初めて歌ったんだね」

「はい、突然歌ってくれました。恩返しがしたいと言って」


 怜良は六勝に報告をしている。


「どうだったかね」

「歌詞は無く、メロディーだけの歌でしたが、どれも初めて聴く曲で、いい曲でした」

「出生後の特殊行動の曲とは違うのかね」

「はい、新しい曲でした」


 優の前世のクラシックを聴くのは初めてだった。


「一つだけ、従来にはなかったことを経験しました」

「ほう、どんなことだね」

「始めの数曲は綺麗な曲だと思って聴いていたのですが、途中から、自分が幼少期に戻ったような、さらにもっと昔に戻ったような感覚になりました。優くんの気持ちが伝わってきて、感情が抑えられなくなりましたが、それだけでなく何か自分ではなくなるような感覚がありました」

「それは今まで報告がないことだな。彼の歌の効果か」


 六勝は、優の歌には何かの効果があるのだと気づき、悠翔天皇の言う「神の手がかり」を思い出すのだった。


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