18 世界地図
三月。
菜の花が咲くようになった。公園に行くと一面の菜の花畑でまっ黄色の絨毯。
梅の花も咲いて、世の中は春らしさを増してきた。
すっかり日差しも暖かくなって、散歩が楽しい。
前世と違って自分の目で直接景色を見ることができるから、色が鮮やかで何を見ても楽しい。
怜良さんが春コートを着せてくれて、二人で手をつないで花を見て歩くのが幸せ。
ここに住むようになって、もうすぐ一年が過ぎる。
たくさん勉強して、発声練習して、水泳をした。
咲坂家のみんなと知り合いになって、千景さんとも知り合った。
季節も一回りした。
前世ではできなかった沢山の経験をした。
僕は恵まれた環境に生まれ育って、恵まれた一年を過ごした。
それでも僕の幸せは怜良さんと出会ったこと。
去年の三月、初めて怜良さんが僕に会いに来てくれて、その時から僕の幸せは怜良さんと過ごすことが全てになった。
家族として怜良さんと過ごして、怜良さんが優しくしてくれて。ご飯食べたり、お風呂入ったり、一緒に寝たり、散歩したり。
いつも怜良さんが一緒にいてくれた。
怜良さんが一緒にいてくれるから幸せだった。
怜良さんが手をつないでくれるのが幸せだった。
怜良さんが微笑んでくれるのが幸せだった。
これからもこんな幸せが続くといいな。
「これが世界地図よ」
「わあ」
怜良さんにお願いして、地図を見せてもらった。
電子式ではなくて大きな紙。
テーブルいっぱいの紙には世界が描かれていた。
山脈、川、森林も描かれている。
そしてやはりというか、予想していたけど、前世と全く同じ地形だった。
違うのは国境だけ。
僕は前世で地誌の勉強は沢山していたから、この地図が前世と全く同じなのがすぐにわかった。この世界は暦法も度量衡も自然環境も星の動きも、全て前世と同じ。言葉と歴史が違うだけ。
だからこの世界はパラレルワールドなんだね。
きっとクローン技術が開発されたころが、前世の死亡したころじゃないかな。この世界の電気自動車ははるかに進歩した技術だしね。でもそこで歴史が分岐したんじゃなくて、近似しているだけで元々違う歴史だと思う。似て非なる世界ということだね。
すでに転生体験をしているけど、また不思議体験をして面白い。
「ここがエルス国。この大陸で唯一の国よ。世界経済と政治の中心ね。五大会議の議長国となっているわ」
そう言って怜良さんが指さしたのは北米大陸の部分。それから続けて東西欧州大陸はハイド国、アフリカ大陸はナンガラ国、南米大陸はファリア国と教えてくれた。エルス国以外は大陸諸国の代表国。
「そしてここが曙国。私たちの国ね。ここの大陸は神の罰と狂暴化による損失が大きくて、混乱の終息に時間がかかったこともあって、未だに国家としての活動は形骸化しているわ。前世界から比較的政治経済が安定していた曙国が、島国でありながら大陸代表となっているわ」
怜良さんが指さした場所は日本の場所。
「僕たちがいるところはどの辺?」
「この辺りね」
僕が聞くと、怜良さんは東北と関東の境目辺りを指さした。
地図は海洋部分で不規則に切れ目の入った図で描かれていて、大小の大きさや形は大体分かりやすくなってる。
この地図では、前世と地質や自然は何も変わっていないように見えた。
前世との違いを知るために、いくつか聞いてみることにした。
「この辺は砂漠になってる?」
「よく知ってるわね。その通りよ」
チリの海岸とオーストラリア中西部に該当する場所を指さすと、怜良さんはそう答えた。
海流と風の動きは同じようだね。
「こことここはどうなってるの?」
「そこは政府が機能していなくて、周辺国に住民が依存している状態ね。人口の減少も大きかったわ」
ロシアウラル山脈から東と中東、中央アジア、インド亜大陸は無政府状態かあ。そもそも居住するためにインフラを整備するにはコストがかかりすぎるかもね。それに女性優位の社会を構築するには文化的には難しかったかも。
「こことここの森林はどうなっているの?」
「そこは人が住んでいない地域になっていて、植物だらけよ」
南米とアフリカの森林破壊は無くなったんだね。
「ここの砂漠は、何か変化がある?」
「いいえ、変化はないわ」
サハラは変化なし。温暖化や乾燥化は無いようだね。大陸上空の大気や風は安定していると言っていいのかな。
どうやらこの世界は今のところ、惑星環境は安定していて、気候変動からの災害の心配をする必要はなさそうだ。前世から八百年が過ぎている計算になるけど、それはよかった。これなら世界経済は管理しやすいだろうね。
「この辺りに何か大きな軍事施設とかないのかな」
「昔から特に何も聞いたことはないわね」
ロシア周辺や米国のミサイル軍事基地のあった場所を指すが、怜良さんはそう言った。どうやら核兵器は開発されなかったようだね。核兵器による大規模破壊の心配はしなくていいようだね。
「曙国は地震で大変になったことはないの?」
「大丈夫よ。前世界では大きな被害が出ることがあったけど、現世界では国土が広域に効率利用されているから、大きな地震が来ても被害は小さくて、復興も早いわ」
どうやら巨大地震の大規模被害を心配する必要はなさそうだね。安心したよ。
怜良さんに教えてもらって、この世界は人の居住地域をむやみに広げずに、社会経済的観点から効率的に国土を利用できていることがわかる。だから意外と居住地域が少ないけど、世界人口三十臆人が生きるにはちょうどいいんだろうね。国土を効率利用だけに絞って再開発できたのは、軍隊と戦争の廃止が大きな理由と言っていいのかな。
「ありがとう。世界は広いんだね。勉強になったよ。また見せてね」
そう言って地図をしまってもらった。
優はソファーに座り、足をぶらぶらさせて、怜良に話しかけた。
「……怜良さん、相談があるんだけど聞いてくれる?」
「もちろんよ。何かしら」
「多分だけどね、中学生の勉強の範囲は、こんどの五歳の年度で終わっちゃうと思うんだよね。でね、その先をどうしようかなって。十年間分、先に進んでるでしょ」
「そうね。高校生の勉強をするのもいいと思うわ。優くんはそれも早く終わってしまうでしょう?」
「多分そうだね。でも学校に通学しなくていいの?」
「ええ、男性は通学しなくてもいいのよ。教育は実施されるけど、成果として要求されるものは何もないわ。男性は働く義務がないし、男性にとって学歴は社会的にほとんど意味が無いのよ」
そうか。まあ、前世で僕は寝たきりだったから、実技科目は履修できなかったし、大人になっても仕事はできなかったから、前世と立場が変わらないんだよね。ただ、通学に憧れはあるんだよね。
ここで、今まで気になっていたことを思い切って聞いてみることにした。
「……僕がもうじき高校生の勉強まで終わってしまうのは、怜良さんはおかしいことと思わないの?」
「おかしいこと?」
「うん。……小学生にもならない僕が成人間近の勉強を理解するなんて、気味が悪いんじゃないかなって思って」
優は目を伏せた。
すると怜良は優しい声で微笑んで言った。
「気味が悪いことなんてないわ。この国では子供でも大人でも、人に応じた環境を用意するのが社会の考え方なのよ。優秀な子供にはそれに応える環境を。だから優くんが秀才なら、それに見合う学習計画を用意してあげるだけよ。これは逆の場合でも同じよ。能力が劣るからといって社会から排斥されたり不利益を受けることはないわ。
たしかに優くんはこの国で一番の頭脳優秀な幼児よ。でも優くんほどではなくても、他にも優秀な子供はそれなりにいるの。頭脳に限らずね。だから優くんが気味が悪いなんてことはないわ。
優くんだって頭脳は優秀だけど、水泳はまだまだでしょう? だから普通の子供なのよ。発声練習や水泳を頑張る優くんは、とっても可愛いくて大好きよ」
怜良さんがそう言って頭をなでてくれた。
怜良さんは優しいな。怜良さんが僕を受け入れてくれるならそれでいい。
今まで抱いていた不安の一つが解消できて安心した。
僕は嬉しくて怜良さんにぎゅっと抱き着いた。
しばらくして落ち着いてから、質問を継続した。
「男性はみんな何してるの?」
「男性は男性として生活することが仕事のようなものよ。女性の狂暴化対策を徹底するために、この国では男性一人と女性が二十世帯、合計約百人で一つの単位になっているの。その中で女性の話し相手になったり、時々男性乳幼児施設の手伝いをしたりしているわ。咲坂家の村も同じよ。何かを固定して仕事とすることはないわ。基本的には女性集団の中で生活することが役割ね」
「そうなんだね。それは重要な役割だよね。他にはないの?」
「他には村や行政区の外に出る人もいて、学校の手伝いとか、行政の手伝いをすることもあるわね。どれも固定ではなく、必要に応じてかしら。それから芸能人になる人も結構いるわよ。どれも居住地での生活が中心になるけど」
「芸能人?」
「そうよ。演劇、ドラマ、映画、歌手などかしら。それからスポーツ選手になる人もいるわね。女性プロスポーツチームにもいるわよ。相当優秀でなきゃできないけど。」
「思ったより男性でも色々できそうだね」
「ええ、そうよ。この国には男性は全年齢合わせて五十万人いるから、全体としてみれば結構好きにやってる男性は多いわね。でも仕事としてやるのではなくて、臨時とか参加とかいう感じだから、女性の場合とはだいぶ違いがあるわ。
男性は義務や責任がある立場ではないから、あまり固く考えずに、咲坂家と同居して村で楽しく過ごすのもいい人生よ」
「そうだね。八弥が大きくなって、子供を生んで、お世話してあげるのも楽しそうだね」
「優くんの周りには優くんを大事にしてくれる人が沢山いるから、きっと幸せな人生を送れるわ」
怜良さんはそう言ってくれた。
でも大人になった僕の幸せって何だろう。
今以上の幸せは考えられないな。
怜良さんがそばにいなくなった生活は、楽しくはできるけど幸せとは思えないし。
「まだ優くんは身体が小さいから、身体づくりに重点をおくのがいいわ」
「うん。いつも怜良さんが考えてくれてるよね。ありがとう」
「優くんが第一だから当然よ。午後の予定は減らしていいのよ?」
「うーん。今のところはこのまま続けるつもりだよ」
僕はまだ幼児だから、本当はお昼ご飯のあとはお昼寝がちょうどいいはずなんだよね。
だけどプールや勉強をしたいから、お昼寝は夕方にしてる。
幼児の身体のリズムとはちょっと違うんだよね。
前世では寝たきりだったから、いくらでも寝ていられるし、だらけていられた。
でも身動き取れない身体だと、そういうだらけた生活は逆にストレスになるんだよね。
だからすごくきっちりと生活していて、朝五時に起きて勉強して、昼ご飯のあと勉強をして夕方二時間寝て、勉強して夜十二時に寝る。そういう生活を崩さず送ってた。勉強と言っても受験勉強とは違うけど。
そういう生活リズムだったから、今世でもだらけた生活ができないんだよね。
幼児のリズムで午後を過ごすと、どうしても午後すぐにできることが夕方にずれ込む。それが慣れないんだよね。しかも今は夜寝る時間が早いし。夕方に勉強やプールをするとバタバタしちゃって落ち着かない。
そうすると午後も勉強やお稽古ごとを優先しているように見えちゃうんだよね。
「小学三年生、九歳の年度の時には一般市民区画に住むから、色々なところに行けるようになるし色々なことができるようになるわ。その時に好きなことを体験していくのがいいかもしれないわね」
おお、そうだよ。それがいい。咲坂家とも近くになれるし、畑のお手伝いができる! 前世では勉強ばかりだったから、今世では体験をしなきゃだよね。そうだそうだ。
それじゃあ、ここを出るまでは勉強や発声練習なんかを頑張ろう。習字とか、まだやりたいことがあるんだよね。
「ここにいる間は今までの生活でいいのかな」
「それでもいいと思うわ。いつでも優くんがしたいようにしていいからね」
「うん。ありがとう」
怜良さんにまたぎゅっと抱き着いた。いつもありがとう。




