“自分”ってなんだろう
みなさまこんにちは、こんばんは、城河です。
暑いです。
と~っても暑いです。
みなさんも、水分補給をしっかりしながら、そろそろ熱中症への対策もきっちり始めてくださいね。
さて、今日のお題は〖“自分”とは?〗と言うもの。
先に言っておきますが、“我思う、故に我あり”みたいな小難しい話は私には一切分かりません!
哲学なんかも未履修です!
なので、もっとくだらない事を適当に思い付きで話してます(笑)
哲学みたいな話がお好みの方には、合わないかもしれません(笑)
事の発端は、とある友人と話していた時です。
ある発言がとっても気になってしまいました。
それは「自信なんか持てないよ。 人に誇れる部分なんてないんだから」と言うものです。
発言その物については、今更感がありました。
だってその友達、普段から「自分なんて……」が口癖の根くr――ゲフンゲフン――自己評価が低い子なので。
正直、耳タコなくらい似たセリフを聞かされてます。
「なんで自分はこうもダメなんだろう」
とか。
「知らずに傷付けるかもだから、一人でいる方がいいよね」
とか。
2つ目のセリフとか「じゃあなんで私と友達やってんの?」ってなもんです。
まぁ、それは置いといて。
その人、以前のエッセイでチラッと書いた事がある、私に小説書く時の基本みたいなのを教えてくれた、所謂創作仲間なんですけど。
要はさっきのセリフも、「自分の書いたものに自信は持てない。 他人に誇れるような人間じゃないから」って事だったわけです。
――で、ですよ。
私、その時に思ったんですけど――
自分を、他人に誇れるか誇れないかなんて、関係あります?
私自身は、ぶっちゃけどうでもいいと思ってるんですけども……
この時の話みたいに、作品を作ったけど、自信は持てないって時に大事――と言うか、意味があるのは、自分がどう思っているかよりも、他人にどう映ってるかだと思うんですよね。
自分がどんなに「うまく書けなかった駄作だ!」って思っていたとしても、それを読んで「面白かった」「よかった」って思った人がいたら、その読者にとっては、ひとつの名作でしょ?
それなのに、「ここがこういう風に駄作なんです! これは褒められるような作品じゃない!」とか言われたら?
私がそれを言われた読者だったら、間違いなくビンタしたくなります(笑)
書いた作品をどう思うかは作者の自由です。
他人にどうこう言われる筋合いはありません。
でも同時に、読んだ作品にどう感じたかは、読者の自由です。
例え作者であっても、そこにどうこう言う資格はありません。
自分自身をより高めていくためには、自分の意見、見えかた、感じ方は大事です。
でも、それに固執したり、縛られたりすると、視野が狭くなって、周りから本来得られたはずの情報(経験)が得られなくなっていくと思います。
これは創作に限らずの話なんですけど――
みなさんは『昔こう言う事で失敗したから、これをしないようにしよう』って考えるのって、いい事だと思うでしょうか?
まぁ、反省して改善策を練ると言う意味なら、“悪い事”とも言いきれないんですけど。
これは私の持論ですが、それがすでに、 『過去の失敗に引きずられてる』と思ってます。
過去は変えられない事実であると同時に、すでに終わった事です。
それをあの時はこーだったあーだったって、終わった後にグダグダ言ってても何も変わりませんし、時間の無駄です。
それは反省ではなく、ただの後悔。
反省して改善するつもりなら、『あの時どうだったか』ではなく、『次はどうするか』だけに集中して、何パターンも対策を考えたりするべきだと思います。
なぜなら、1つの人生において、過去に起こった事と、寸分違わず同じ事は二度と起こりません。
似た状況にはなったとしても、自分の年齢も、事情も、相手も、何もかもが違うはずなんです。
そんな時に、『昔はこうやって失敗したから』なんて事を考えていたら、また失敗 しかねません。
だって、“今”を見てないから。
過去の出来事の「あの時はこうしたから」って言うのは、1つの“経験”です。
その時はそれで失敗をしたとしても、状況が変わった“今”なら、その時の選択肢が最適解になるかもしれないんです。
しっかりと前を向いている人は『経験』を活かします。
ついつい後ろを向いちゃう人は『経験』に固執します。
ポジティブだとかネガティブだとかよりも、もっともっと根っこのメンタル部分を、前に向けられるかどうかが、とても大事ではないかと思います。
メンタルが伴わない行動は、“ただやっているだけ”の惰性。
行動が伴わないメンタルは、”ただ思っているだけ”の妄想。
――とは言っても、急に前向きに生きろ、なんて言われても不可能です。
私もどちらかと言えばネガティブ寄りの性格ですが、それでも、少しの意識の違いだけでも、多少はモノの見えかたが変わりました。
たとえば、“自分”がどういう人間なのかを決めるのは、いったい誰でしょうか?
私は、自分自身じゃなくて、周りの人達だと思うようになりました。
『自分は本当はこう言う人間だから』
――って言うのは、“そう思ってるだけ”で、さっきの例で言えば“行動が伴わない、ただの妄想”です。
例をあげるとすれば――
いつも、自分より誰かを優先する行動が多くて、ボランティア等にも積極的に参加し、困っている人を見つけたら、ついつい手を差し伸べてくれるような人が、心の中では『俺はそんな善人じゃない! 世の中の全てを呪って、人類を皆殺しにしたいと願ってるんだから!』って思ってたとして、その人って悪人でしょうか?
私は、ただの"いい人”だと思います。
心の中でなんと思っていようが、それまでに行動した結果が“自分”だから。
今まで“自分”で「こうしよう」って決めて、行動してきた結果、今の“自分”があります。
そしてそれは、結果しか見えない周りの人達にしか、その人がどんな人間なのかは判断できないんです。
自分が思う“自分”って言うのは、空想上のもの。
他人から見えている“自分”が、現実のもの。
少なくとも、私はそう思っています。
とある人物について、どんな人だと思うか100人に聞いてみたとして、その結果を全部集めたら――
“優しくて、天然の人タラシで、自分が知らない間に仲間を沢山作ってて、トラブルほいほい体質の癖に、悪運か何かで毎回うまく回避して、色んな事に興味を持って、その内の1つの創作で素敵な文章を紡ぐ、凝り性で、根が捻じ曲がってて、鈍感で、仲良くなった相手はとことん大事にする、ツンデレ”
――だなんて、とんでもなく属性盛り盛りになった人が、仮に居たとしましょう(笑)
なら、その人は、“そう言う人”でしょうか?
まぁ、もしもその全ての要素を、一度にまとめて認識している人がいれば、その人から見たら"そう言う人”なんでしょうけど……
ほとんど場合は、その内のいくつかしか知らないはずです。
そして、その人達からすれば、その見えている部分が真実になるんです。
つまり、人によっては"人タラシの鈍感”だったり、“他人に優しい作者さん”だったり、“悪運が強いツンデレ”だったりするわけですね。
人からそう見られてると言う事は、さっき挙がった要素の全てを、自分の中に持ってはいるんだと思います。
でも、それを全て同時には見せてないはずなんですよね。
相手によって、見せてる部分、見せてない(見えてない)部分が必ずあるはずですし、相手もまた、その全てをわざわざ見ようとまではしないでしょう。
結局、見えてる部分が“その人”で、見えてない部分は“存在していない”のと同じだから、相手によって“自分”像が変わってしまう。
例えるなら、あれです。
オンラインゲームとかで、実際に活動(生活)している“自分"がアバターで、その身体を動かしている“自分"がプレイヤーって感じ。
プレイヤーがどんな人だろうが、相手に見られるのはアバターだけなんです。
自分が作り出して、動かしてるそのキャラが、周りにどう見られるようにしたいのか。
どんな性格で。
何が好きで。
何が嫌いなのか。
現実世界にあるアバターは、プレイヤーの好きなように、周りの相手への見え方を変えていけるはずなんです。
むしろ、“自分”が“自分”に対して出来るのは、もしかしたら、たったそれだけなのかもしれません。
それならいっそ、いくつもある“自分”の1つくらい、思いっきり“理想の自分”に改造してしまうのも、面白いかもしれませんね。
いつもの事ですが、私が勝手にそう思ってるだけなので、誰かにその考えを押し付ける気はありません。
ただ、自分探しの一助になれたら嬉しいかなぁ、なんて思ってます。