四章 精神と体
インファは、午後の温かな日の光に照らされた、応接間のソファーに座って、膝にいるモノを撫でていた。
黒い、靄の様な物体。それは丸まって、インファの膝の上に乗っていた。
『お父さん、ボクを犬か猫みたいに思ってません?』
「フフフ、バレましたか?あなたも、そのつもりではないんですか?」
それは、インファの手を押し戻すように顔を上げた。その頭には長い耳があり、その靄の形はウサギだった。
『この体、どんなモノにもなれて面白いです。大きさも自由自在ですよ。でも、人型になるとホラーです』
靄は、インファの膝の上で、猫のような姿になったり犬のような姿になったりした。
「そんなに動いて疲れませんか?インジュ」
『一応、煌帝・インジュのままみたいです。霊力の泉、健在です!まだ使いこなせないですけど。ビックリなのが、この姿でも、反属性返しできちゃいますってことですねぇ』
「それは何よりですが、あなたの体とエンド君、取り戻さなければなりません」
『はい!もちろんです!でも、お父さん、反省してくださいよ?こうなったの、お父さんのせいですからね!』
「オレのせいですか?乱入してきた、あなたの自爆ではないんですか?」
『違いますよぉ!お父さんのせいです!まったく、人間に刺されないでくださいよぉ!』
「あれくらいなら、滅多刺しにされても、支障はありませんよ」
『お父さん、可愛くないです!』
「あなたは神出鬼没すぎです。久々に焦りましたよ。もう、首に鎖が掛かっていたんですよ?あとは、あれを解体して、イシュラースに引きずり込むだけだったんですよ?」
『ボクに隠すからいけないんです!犬と1人でやりに行ったって、わかったときのボクの胸中、察してくださいよぉ!』
「……すみません。あなたは情緒不安定でしたし、言いづらかったんです」
『情緒不安定でしたけど、そうでしたけど!1言、言ってほしかったです。でも、お父さん、ボクがこっちだってよくわかりましたねぇ』
「わかりますよ。あなたはオレを、躊躇いなく庇いに来たでしょう?」
『攻撃しにきたって、思わなかったんですねぇ』
「叫んでましたよ?お父さんと、オレを呼んだでしょう?」
『でしたっけ?覚えてないですねぇ』
フイッとそっぽを向いて、インジュは再びインファの膝に丸くなった。インファは、その触れた感触のない物体を、小動物を撫でるように、再び優しく撫で始めた。
「ところで、触れられている感触はあるんですか?オレには、相変わらず、存在のない存在ですよ」
『……わかってて、やってるんじゃないんです?感じますよぉ!撫でられてる感触も、日だまりの暖かさも、お父さんの体温も感じてます!気持ちいいので、寝ます!起こしちゃダメです』
インジュはそう言い放つと、本当に寝てしまったようで、ピクリとも動かなくなった。
フッと優しい笑みを浮かべて、インファはそのままゆっくり撫で続けた。
「アニマルセラピーだな」
バサバサと音を立てて、リティルが舞い降りてきた。
「おかえりなさい、父さん。ずっと膝にいるので仕事になりませんよ」
リティルが笑って、ただいまと返すと、インファは即、今日のリティルの相棒の事を聞いてきた。
「シャビはもう、部屋に戻りましたか?」
「ああ、おまえとインジュによろしくって、言ってたぜ?大丈夫だ。傷一つ負ってねーよ」
今インファはここから動けない。無常の風という、死に1番近い風の精霊である彼が、インジュに遠慮してここを通らずに、鬼籍の書庫に戻ってしまうことは容易にしれた。副官として、仕事の割り振りをしているインファは、皆の身の安全を守るため、様子を知っておかねばならないのだ。
そんなインファの気遣いを感じて「おまえ、こんな状態でも仕事するのな」と笑い、リティルはインファの膝にいる物体を覗き込んだ。
「ハハ、おまえ、今どんな顔してるか知ってるか?緩みまくりだぜ?……安定してるか?ここへ戻したときは、もうダメかと思ったぜ……」
「オレの霊力を送っています。もとよりインジュは、源の力の使い手ですからね。使いこなしつつありますね。しかし、父さんは触れないでください」
「ああ、オレまで汚染されると、インジュが気にするからな」
辛そうに俯くリティルを、優しい笑みで見つめるインファの右半分の顔は、紫色に染まっていた。顔だけではなく、翼も、両手も、痣のような、しかし形を変える暗い色の紫色に、ところどころ染まっていた。
あの時、黒い犬がどこにいるのか気がついたインファは、捕獲することのできる鎖を作り出し、1人、あのジェーダイト バイオリン工房に乗り込んだのだった。
「インジュの心臓を、あなたに喰われるわけにはいきません!」
店の奥から姿を表した黒い犬からは、知性のない、ただ奪うだけの、単純な思考しか感じられなかった。
こんな存在に、なってしまうのか……インファは、親のエゴで、存在のない存在としてこの世に繋ぎ止められてしまった、憐れな命と対面した。母親だった花の精霊の遺した霊力は、すでになくなり、それを補うために多くの妖精達を捕食した。存在を保つ為に、それが有効であることを本能が知っているのだろう。
インファは、ヒスイを突き飛ばした。彼も罪人だ。安否など気遣う必要もないが、インファは情けをかけてしまった。
そこへ、捕食者の殺気で犬は襲いかかってきた。直線的な動きだ。インファは僅かな動きだけで、そのタックルを躱し、風の中から取り出した鎖をその首にかけていた。
「風の導き、受けてもらいます!」
インファは片手で鎖を引きながら、犬の靄の体の中に躊躇いなく手を突っ込んだ。霊力を感じたのだろう。犬の靄の体が、インファにまとわりつく。靄が触れた肌が、暗い紫色に冒された。霊力が冒される!長く触れれば、存在を取り込まれて消滅するだろう。生きながら喰われるような激痛が、襲ってきた。
それでも、退くわけにはいかない。この鎖を操れるのは、作り出したインファだけなのだ。この犬を滅する事ができるのは、これを理解したインファしかいないのだ。
──心に 風を 魂に 歌を 君といられるなら 怖いモノなど 何もない
──花の香りが この身を包む 叫べ 風に攫われぬうちに
──痛みと 涙が 君を曇らせても 歌え この旋律を 心のままに――……
カウンターを背に、尻餅をついていたヒスイは、歌声に我に返った。優しく導くような、あの日聞いたインファの歌だった。
犬の体が、内側から金色に輝いた。そして、丸い色とりどりの輝きが、靄の体を突き破って解放されていった。
「ガアアアア!」
犬は苦しいのか、身をよじった。鎖が鳴る。噛みつかれそうになったインファは、1度体から手を引き抜き、鎖を操って犬を引き倒した。激しい動きに見えるのに、彼の歌声は乱れなかった。そして再び犬の体に手を突っ込む。途端に虹色のシャボン玉のような光が飛び出していった。
「ガウウウウウ!」
犬の声が弱まる。
「お・父さ――ん……」
犬が呟くのを、ヒスイは聞いた。繰り返されるその声に、インファは苛立ったのかグイッと乱暴に犬の首にかけた鎖を引いた。
「インジュの声を……真似てその言葉を口にしないでください!」
呻くような、弱々しいその声が、ヒスイには助けを求めているように聞こえた。
『お父さん』とあれが呼ぶのなら、呼ばれたわたしから見て、あれはなんなのか?
「ガアアアア!」
一際大きく、犬が吠えた。
あれは、わたしの息子ではないのか?ヒスイは、蹌踉めきながら立ち上がっていた。
「っ!」
インファは背中に衝撃を受けて蹌踉めいた。インファは、背中に深々と、ナイフを突き立てられていた。
その隙をつかれ、犬が体を振るった。鎖が、インファの体を弾き飛ばしていた。
霊力を冒され、激痛と闘っていたインファは、反撃を防ぐことはできず、受け身も取れなかった。壁に打ち付けられたインファは、久しぶりに自分の骨が折れる音を聞いた。
立ち上がれないインファに、ユラリと立ち上がった犬が、顔を向ける。
「おい!逃げよう!」
ヒスイは犬に呼びかけた。だが、あれに知性はない。あれが「お父さん」と囁くのは、ヒスイが弾く風の奏でる歌が、犬の体に触れて、繋がりができてしまったインジュの意識を繋げ、インジュの声を投影しただけだ。犬の発するあの言葉に意味などない。
犬はやはり、ヒスイの言葉に耳を貸さず、インファに襲いかかった。
――あなたは逃げないと思っていましたよ。来なさい。トドメを刺してあげますよ!
インファは、顔も上げられず瞳だけで、襲いかかってくる犬を見据えていた。インファの右手が、グッと拳を握った。
「お父さん!」
声と共に、キラキラ輝く金色の風が、インファと犬の間に舞い降りた。
その声に、インファは弾かれたように顔を上げていた。なぜここに?インジュには知らせないでくれと、遠ざけて来たはずだった。リティルはインファの策を知っている。1人で行わなければならないことも、理解してくれていた。そのはずだった。
「イ――ジュ……!」
やっと、片足を立てることができたインファの目の前で、インジュの体は犬に貫かれていた。犬はインジュの体を通り抜けて、勢い余ったのか、インファの隣の壁に激突して、一瞬体が霧散して、再び集まったころには、その場に蹲っていた。
「インジュ……インジュ!」
こちらに背を向けて、立っているインジュの背中から、金色の翼が散った。羽根はインファを包み、その傷を癒やした。冒された霊力も浄化され、インファは激痛から刹那解放されていた。ヒスイの手で、背中に突き立てられたナイフも塵となって消えていった。
ヨロリと立ち上がったインファは、インジュに駆け寄ろうとした。
『お父さん!』
その声に、インファは動きを止めていた。そんなインファの前に、ザアッと黒い犬が割って入ってこちらに牙を剥いた。こっちに来るな!そんな心を、犬から感じた。低く唸り、口からはよだれのように、不浄な塊が滴っていた。
「インジュ!オレを威嚇してる場合ではありません!どうするつもりですか!」
インファは、明らかに犬に声をかけていた。声をかけられると思っていなかったのか、犬の方が一瞬戸惑いを見せた。何をしているんだ!と言いたげにインファが近づこうとすると、犬は低く唸り始めた。インファは足を止めたものの、鋭い瞳で見つめていた。
犬とインファが睨み合っていると、背を向けていたインジュが振り返った。無表情だったその顔に、ニタリと、捕食者の笑みが浮かんだ。
インファが身構えるのを見て、犬はバッとインファに飛びかかった。いや、インファの前でクルリと方向を変えると、庇うように四肢を張った。
『シェラ!ゲートお願いします!』
犬が叫ぶと、インファの背後にゲートが現れた。そして、中からリティルとラスが現れて、インファの体を掴むとゲートに押し込もうとした。
「待ってください!インジュ!策などないでしょう!」
『行ってください。この体じゃ、ボク、戻れないです』
わかるでしょう?そうその背中が言っていた。
ダメだ!とインファの心が叫んでいた。ここで息子の手を離したら、もう戻ってこないという恐怖が、インファを一瞬で支配していた。
「戻ってください!オレが何とかします!インジュ!どんなに変わり果てても、あなたがあなたであるなら、オレは手放しません!触れられるなら、掴んでいますよ!インジュ!失うわけには……いかないんです!」
ザアッと金色の風が、インファを中心に渦巻く。ジャラリと鎖の音がして、インジュはえ?と身の危険を感じて振り向けないまま体を強ばらせた。
『ええ?ちょっ!これ、虐待って言いませんかああああああ!ぎゃー!痛いですよおおおおお!』
鎖が犬の体を縛り上げていた。そして、インジュは総勢15人の精霊に引っ張られて、風の城へ強制送還されたのだった。
鎖を解かれたインジュは、応接間の隅に走ると、皆を威嚇するように四肢を張った。
『この城に連れ込んで、どうするんですかぁ!これ、不浄ですよ?穢れマックスですよ?みんなわかってます?』
応接間に集まっていた、インファとリティルを除く皆は、思い思いに顔を見合わせると、インジュに視線を戻し「うん」と頷いた。まるで、それが何か?と言いたげな顔だ。
『もっと、危機感持ってくださいよぉ!無常さん!今のボク、即行葬送レベルですよねぇ?』
意見を求められた、老人無常の風、門番・ファウジが、隣に立った中年無常の風、司書・シャビと顔を見合わせ言った。
無常の風は、風の城の最も恐ろしい風だ。無情に断罪する死神。輪廻の輪を乱すモノには情け容赦ない。攻撃が通用する相手だったなら、黒犬は彼等の獲物だった。それと同時にヒスイも、有無を言わさず斬られていたはずだ。彼等は戦場に立つと、無表情かつ無言だ。
「確かに、即行葬送レベルじゃが、それは体の話で、そなたはインジュじゃ。そなたが罪を犯したわけじゃなし、家族は助けるモノと、ワシは思うぞ?」
相棒のファウジの言葉に続き、シャビが物腰柔らかく言う。その幸薄そうな顔に浮かぶ優しげな表情は、とても、冷酷な死神には見えなかった。
「そうでありまするよ。インジュ殿、あなた様の父上ならば、その術見つけられまする。我らも助力いたします故、大事ありませぬ」
危機感なく「ところでその体、何製でありまするか?」と、シャビは興味深そうだった。
『ああああ!この城の死神が、家族愛に冒されちゃってます!見てくださいよ!壁!見えます?近づいただけで、こんな紫色になっちゃうんですよ?ここにボクがいたら、風の城が魔界になっちゃいます!ちょっ!リティル、それ以上近づいたら、囓りますよ?』
埒があかないと痺れを切らしたのだろう。インジュに近づこうとしたリティルは、牙を剥かれて立ち止まざるを得なかった。
確かに、インジュが背にしている壁は紫色だが、そんなこと大した問題ではない。この城は、住人が死ななければいいのだから。城が魔界になるくらい、皆、ああ、インテリアが変わったなと思うだけだ。そんなことで動じるような者はいない。皆、それくらいの修羅場潜っている。それに、隔離する部屋くらい、この広大な城にはいくらでもあるし、必要ならば皆の霊力をつぎ込んででも作る。一家のために、助力を惜しむ者など、この城にはいないのだ。インジュだって、一家の誰かがこんな目に遭ったら、有無を言わさず、この城に連れ帰るはずだ。城にさえ帰れれば、誰かが何とかしてくれると、信じているだろう?とリティルは思いながら、家族を傷つけないように牙を剥くインジュに、ため息をついた。
「落ち着けよ。何とかできるかもしれねーだろ?インファ、処置の途中だったんだろ?それが終わると、どうなるんだ?」
「本来の小さな命の塊に戻ります。しかし、精霊殺しをしてしまっているために、穢れが完全に消えることはありません」
『ほら!お父さんでもお手上げじゃないですかぁ!どこでもいいので、幽閉するか封印するかしちゃってくださいよぉ。もう、イシュラースじゃ辛いです。この体、なんかモゴモゴして、体から何かが飛び出しそうで、もう、抑えてるのも限界です!』
「それは、取り込まれた妖精の魂のせいです。インジュ、今からすべて解放しますから、苦痛に耐えてください。オレも一緒に耐えますから」
インファはそう言うと、インジュが身構えるよりも早く、俊敏に飛んで近づくと、その靄の様な体に、一瞬の躊躇いなく手を突っ込んだ。あまりに躊躇いなく、インジュは逃げる暇もなかった。
『な――い、痛い痛い痛い!あわわ!お父さん、顔、顔!』
インジュはインファの綺麗な顔の半分が、殴られたような痣に覆われるのを見て、悲鳴を上げた。
「何ですか?ああ、この紫の痣は仕方ありません。この靄に触れると、霊力が冒されますから。離れれば、超回復能力で癒えますから、問題ありません」
『問題あります!お父さんも、凄く痛いでしょう?止めてくださいよぉ!うう……痛い』
インジュは襲ってきた激痛に、立っていられなくなって、その場に寝そべった。
「これくらい、何でもありません。あなたを失う苦痛に比べれば、何でもありませんよ」
インジュは、インファの優しい笑みが、涙に歪むのを見た。
『お父さん……わっ!でも、抱きついちゃダメですって!』
犬の首に下から手を回し、インファはその首に顔を埋めた。
皆が見守る中、魂の解放はゆっくり時間をかけて行われた。1度に大量に解放すると、インジュの被る苦痛が大きいのだ。インファは、その苦痛を最小限に留めるべく、解放する量を調節していた。
インファは、あまり強い精霊ではない。何度か翼を保っていられないほど霊力を使ってしまい、その都度リティルとシェラに引き離された。その処置が終わったのは、4日目の朝だった。
疲れ果てたインファと、彼等に付き合い続けていた風の王夫妻は、それからたっぷり1日寝ていた。インジュは、2日間ウンともスンとも言わなかった。インファは、インジュの体が、その形を保てないことに気がついた。触れれば、穢れの苦痛を受けることを承知で、インジュを膝に乗せて、霊力を送るという応急処置を行うことを、息子が昏倒している間に決めてしまったのだった。
そして今は、インジュが体を失ってから10日目だった。
インジュが寝る!と言った気持ちが、インファにはよくわかる。ここにこうして座っていると、暖かくて眠くなる。インジュが膝にいて、殆ど動けないこの姿勢にも問題がある。
帰ってきたリティルと、向かい合わせで、書類の整理をしていたインファは、思わずウツラウツラしてしまった。
「寝てていいぜ?」
向かいで書類に羽根ペンを滑らせていたリティルは、顔を上げないまま言った。インファは、ソファーに置いていた簡易の小さな机を、召使いのハトに頼んで机に置いてもらい「少し寝ます」と断って、頭をソファーの背もたれに置くと瞳を閉じた。視線を上げたリティルは、インファの手が、インジュにそっと触れているのを見たのだった。
「リ・ティ・ル・様」
「ん?セリア、そんなところに座り込んでどうしたんだよ?」
リティルは真後ろから声をかけられて、ソファーの後ろを覗き込んだ。
「わたしが近づくとあの子、怒るのよ。母親なのに、何もできないって辛いわね。インファはどう?」
「安定してるぜ?おまえの霊力が守ってる。おまえが妃でよかったぜ。今のインファ、触るのも躊躇われるレベルだからな」
チラッとインファに視線を向けると、彼の美しい翼が所々紫に変色しているのが見えた。おそらく、見えない服の下も斑なのだろう。妖精達の魂解放前よりは、触れても苦痛ではないだろうが、それでも、あれだけの痣だ。インファは笑っているが、常に苦痛を受けているだろう。しかし、それを決めたのはインファ本人だ。リティルは、インファの気持ちを尊重した。それに、この親子には必要な時間のような気がした。
「そ、そう?超回復能力で、あの痣すぐ消えるし、宝石にも浄化能力あるから、霊力の交換くらいどうって事ないわ!」
「おまえ、そういうこと、さらっと言えるようになったな。照れ屋克服したのかよ?」
霊力の交換とは、相手の霊力を自分の物にする、特別な魔法だ。婚姻を結んだ精霊同士が、交わることで勝手に発動する。極度の照れ屋のセリアが、強がるのを聞いて、リティルはすかさずからかった。
「ヤ、ヤダぁ、意識させないで!もお!あ、あのね、もしかすると、霊力が冒されるの、防げるかもしれなくて」
「へ?何か見つけたのかよ!」
思わぬ言葉に、リティルは思わず大声を出してしまった。セリアはアタフタとして、唇の前に人差し指を立てた。
「しぃ!インファ起きちゃう!インリーと探してたの。あの子、守りと癒やし得意でしょう?お兄ちゃんを助けたいって、慣れないのに、魔法の構築手伝ってくれてたの」
風の姫巫女・インリー。風の王夫妻の娘だ。インファとは実の兄妹だ。守りと癒やしの魔法が得意な、優しい女の子だ。
「へえ、インリーのヤツやるな。さすがオレの娘!で?なんか相談か?」
「ええ。わたしが作り出した物じゃない、天然の宝石がいくつかほしいの。グロウタースに、加工済みの上質な宝石が手に入るところないかしら?」
「宝石……ああ、あるぜ。ちょっと待ってろよ」
そう言うと、リティルは何も書かれていない紙をハトに持ってこさせると、サラサラと何事か書いた。
「この場所なら絶対にあるぜ。おまえ、金勘定できるか?」
リティルは、大陸の名、地名などを書いたメモを手渡した。
「たぶん、大丈夫」
「宝物庫にある、通貨じゃ足らねーかな?ノイン、どっかにいたよな?あいつに付き合ってもらえよ。あいつなら、換金も交渉もできるからな」
「ノイン、鬼籍の書庫に降りるって言ってたわね。探してみるわ。ありがとう!リティル様」
セリアは深々とお辞儀すると、音もなく、インファの寝ているソファーの後ろに移動した。そして、夫の顔を見て何かを躊躇っていたが、意を決して思わぬ行動に出た。
「!」
リティルは思わず視線をそらしていた。あの、極度の照れ屋なセリアが、リティルがいるのにも関わらず、背もたれに頭を預けて寝ている為に、上を向いていたインファにキスしたのだ。普段なら起きるはずのインファは、やはり無理をしているらしく、全く無反応だった。セリアは「きゃーやっちゃったー!」と言いたげに声もなく身悶えると、ウキウキした様子で、城の奥へ続く扉に消えた。
「はは、大したヤツだよ、セリア」
セリアは、少しの接触なら、宝石の浄化能力を使って、穢れを防ぐことができるようだ。だとしても、よくキスできるなと思った。本当に好きなんだなと、いろいろな理由から、彼女が雷帝妃でよかったなと、リティルはセリアに頭を下げたのだった。
インファの今の状態は、グロウタース風にいうならば、肉が腐って落ちるような病に冒されている状態。だ。匂いはないが、今のインファからは、僅かに、不浄の残滓が立ち上っていた。故に、この城の殆どの者は、インジュと一緒にいるインファに触れることはできなかった。
太陽光には殺菌という浄化能力がある。インファが皆が集まるこの部屋にいるのは、副官の仕事をこなすため、ということもあるが、この聳えるような窓から注ぐ、日の光を浴びるためということもあった。
リティルは、少し悔しくて、そっとソファーを立った。そして、そっとインファの、変色した頬に触れた。風にも、空気を清浄に保つ為の浄化能力がある。スウッとリティルの風が、触れた頬からインファの中に流れ込んだ。すると、インファを冒していた穢れが浄化されて、彼の肌や羽根から暗い紫が消えた。これ以上は、インファが起きてしまうなと、リティルは手を放す。リティルの手は、その手首まで黒く染まっていた。
指の感覚がない。指を動かそうとすると、感覚がないのに激痛が走った。
リティルの右手を冒した穢れは、程なくしてスウッと消えてなくなった。傷が徐々に癒える、超回復能力の成せる技だった。
リティルはそっとソファーを離れると、風の奏でる歌を、守るように優しく歌い始めた。
午後の日差しの中を、風がゆっくりと渦巻く。
風に体を撫でられ、耳に歌声が届いて、インジュは目を覚ました。この体に、霊力を巡らせるために、普段よりも長く眠らねばならない。霊力の消費が激しくて、まだ完全にはインジュ本来の力を上手く使えず、インファに頼らねばならないことが、とても歯痒かった。
インジュは、寝ているインファの体をよじ登り、肩に乗った。そして、何も家具がないその場所の真ん中に立って歌う、リティルを見たのだった。
金色の風が、ゆっくりとたゆたうように吹いていた。インジュは、ピョンッと床に飛び降りた。リティルの風の中なら、インジュの穢れは影響を及ぼさなかった。インジュは、リティルが歌っているときだけ、インファの膝から降りて、こうしてこの体は何ができるのかを探っている。とりあえず、どんな形になれるのか変形を繰り返していた。ようは、使いこなそうと修行中なのだ。
インジュは、体など本当はどうでも良かった。あの体ごと、あれを滅してくれてよかった。インジュのもう1つの人格であるエンドも、もう少しこの体に馴染めば、インジュの意識のそばに呼び戻せる。あの体を滅して、原初の風を取り戻せれば、肉体を再構築することもできる。たぶん。もっと言えば、この体が他を穢さないなら、このままでもよかった。インファがこれ以上の危険を、冒さないなら、このままマスコットでいても構わなかった。
「インジュ、エンドと話せねーか?」
リティルの歌が止み、風がゆっくりと力を失っていく。インジュは機敏に動くと、インファの所に戻った。インジュがインファのそばを離れられるのは、リティルが歌っている時と、インファに約束させた就寝の時だけだ。その時間、インジュに触らないことを条件に、浄化の能力を持つ精霊達が代わる代わるに、インジュが城を魔界にしないために穢れを浄化すると共に、彼に霊力を送っているのだった。
『お互いに気配は捉えてますよぉ。もう少しです。もう少しで、戦えます』
インファを傷つけたくない。けれども、今は離れることができなかった。インジュの力だけでは、体の形を保つことが難しいのだ。インファのくれる風に導かれて、この体を維持しているにすぎない。それも、霊力が定着すればインファの力を借りずにすむようになる。そうなれば、戦える。そうなれば、インファに命を削らせずにすむ。
「ホントにそれでいいのかよ?インファの気持ちを、無視することになるぜ?」
『リティルの目から見てどうです?お父さん、また無茶しちゃいません?ボク、お父さんがボクのために、独断で動くとは思わなかったんです。あのままだったらお父さん、死んでましたよぉ』
「かもな」
いつになく真面目に思い詰めるインジュに、リティルは笑いたいのを堪えた。
『かもじゃないです!どうして、そこで笑えるんですかぁ!』
「はは、悪い。インファ、相当キレてたからな。ただな、あそこでおまえが邪魔しなかったら、勝ってたのはインファだったぜ?」
『え?何ですか?それ』
「まあ、インファはあんな状態でも、生き残る策を持って、臨んでたってことだぜ?おまえは?絶対に生き残るって自信、あるのかよ?それがねーなら、やるな。インファを泣かせるなよ。甘えろよ。オレとインファに。オレは、そっちを期待するぜ?」
リティルは明るい笑顔で、インジュの体を撫でた。あまりに自然で躊躇なく、インジュはその手を避け損なった。
『リティル!ボクに触っちゃダメです』
穢れが、リティルの体に染みをつけた。
「はは、インファだけじゃなく、これくらい、オレも平気なんだぜ?おまえはな、そういう精霊の血縁なんだ。頼る気になったら言えよ?フライングするなら、オレは止める。オレを殺す気でこいよな?」
リティルを穢した穢れは、スウッと消えてなくなった。
インジュは、悠々とソファーを迂回して、向かいに腰を下ろした小柄な王を、見つめていた。
『リティル……ボクの体、たくさん殺してます?』
「ん?いや、それがな、動きがねーんだよ。ヒスイって言ったか?あいつの親父がずっとそばにいる。それでなのか、森の奥に引きこもったきりなんだ。心配するなよ。おまえはその体、使いこなすことだけ考えてろよ」
『お父さんは、どこまで把握してるんです?』
「インファは全部わかってるぜ?情報収集はインファの十八番だからな」
『……あの、さっき言ってた、ボクが邪魔しなかったら、勝ってたのはお父さんだったって話、どうするつもりだったんです?』
やっと気になったのかよ?とリティルは思った。
「おまえが捕まったあの鎖をな、口の中にぶち込んで縛り上げて、イシュラースにお持ち帰りだ。オレならそうしたかなー。あの時インファは、諦めてなかったぜ?そんな目をしてたからな。それから、右手を握ってたなー。あれは、機会を待ってたんだよ」
『……ボク、自爆だったんですねぇ……』
「ハハ。今更落ち込むなよ!インファが策のねー無謀、するわけねーだろ?息子の命がかかってたんだ、死んでる場合じゃねーよ。おまえの親父は、おまえが思う以上に強いぜ?オレから見れば、おまえらはコミュニケーション不足なんだよ」
『全部、ボクのせいです……』
「おまえ、精神力ものすげーくせして、情緒不安定だからな。それは、インファのせいだ。気にするなよ。だからなインジュ、インファに甘えるだけ甘えて、その穴埋めろよ!大丈夫だ。おまえは愛されてるさ。おまえの親父は、おまえがどんな化け物でも愛してるんだよ。おまえが、インファを想う以上に、インファはおまえを想ってるぜ?」
『リティル……』
「ん?」
『力、貸してください。体とエンド君、無傷で取り戻したいんです』
インジュは昔、インファに愛されたいと思っていた。けれども、今は、自分が愛せばいいと思っていた。インファが、ボクを嫌いでないなら、それでいい。こうやって自分が穢れるのも構わずに膝に置いてくれているのが、自分にしかできないから、という理由だったとしても、それでよかった。
父でも、兄でも、何でもいい。インジュは、雷帝・インファが大好きだ。その気持ちに嘘さえつかなければ、インファがどう思っていようが、どうでもいい。
大好きなこの人を、守るため。あの体と片割れの人格が必要だ。1人では取り戻せそうにない。だから、王と副官を頼ろう。インジュはそう決めた。
リティルは、ニヤリと笑った。
「ああ、力貸してやるぜ?なあ、インファ!」
「……はい。もちろん、そのつもりですよ?……どうしました?インジュ、起きていますか?」
『お、お父さん!いつから起きてたんですかぁ!』
「リティルが歌っていた辺りからですかね。インジュ、今度こそ完全勝利です。エンド君にも働いてもらいますよ?早く、話せるようになってください」
インファは小さく欠伸をかみ殺すと、体を起こした。
『お父さんも戦うんですか?』
「今回有効な攻撃手段を持っているのは、オレしかいません。あなたは、体がこの通りですし」
『この姿でも全然戦えます!お父さんは、もう戦わないでくださいよぉ!ボク、今回のこと知ってたとしても、手出してたと思います!』
「あなたは、オレの監視下にいてもらいます。オレの策通り、動いてもらいますよ。あなたは、予想外なことをしでかしますからね」
『予想外って、予想通りですよねぇ?お父さん、あれ絶対骨折れてましたよねぇ?あんな姿見せられて、動くなって言う方が無理です!でも、安心してください。この体、なかなか使えそうなので、ボクが一緒にいる以上、無傷で完全勝利です!』
「ハハ、インジュ、復活早えーな」
『急浮上は、ボクの取り柄です!それでですねぇ、この穢れ、浄化できません?』
「それは難しいですね。この穢れも含めての存在ですから」
『取り込まれた魂だけ、引っ張り出すのはできましたよね?』
「インジュ、その方法では、あなたの体は助かりませんよ?」
『ボクの体に1度入れて、ボクの体の中からこの靄を取り出すっていうのは、できません?』
「おまえ、内側から壊れるぜ?」
『うーん……そもそもどうやって、滅するつもりだったんです?』
「それは、これから考えるつもりでした」
『え?お父さんフライングだったんです?』
「あなたの身の安全を、確保したかったんですよ。極限まで無力化して、瓶にでも封じ込めて、輪廻の輪に乗せる方法を模索するつもりでした」
「存在しねー存在に、死を与える方法なんて、初めからねーからな。オレ達が理を作るしかねーよ。今回の事案、結構大変なんだぜ?」
構築は始まっていると、王と副官は言った。この状況でどうやって?と、インジュは震撼していた。ああ、やっぱり敵わない。こんな人達を頼らずに、ボクは何をしようとしていたのか?とやっと思い知った。
机の上の水晶球が光を発した。一家の誰かからの通信だった。インファはそれに手を伸ばして、すぐに対応した。通信は再生の精霊・ケルディアスからで、狩りが思いの外早く終わったから、近くに魔物はいないか?とそういう内容だった。それを聞いていたリティルは、召使いのハトにいくつかのキーワードを伝え、書類を集めて目を通し、その中の数枚をインファに手渡した。サッと目を通したインファは、その中からさらに厳選してケルディアスに伝え、彼はその中の1つを選んで通信を切った。
その流れるような作業をボンヤリ見つめながら、インジュは一家のことを考えていた。
今の通信相手、ケルディアスの化身の姿はドーベルマンだ。黒い犬だ。靄とはいえ、黒い犬にしか見えないこの姿を「なんかすげぇ親近感だなぁ」と苦笑していた。彼の気に障ったら嫌だなと、インジュは普段ウサギのような姿でいるようにしていた。
彼は風の精霊ではない。リティルとインファを慕って、この城に住んでいる居候だ。恐れを知らない大男で、乱暴で、再生の力があるから痛くねぇと、帰ってくるとインジュに気安く触っては「感触ねぇ」と言って、凶悪犯罪者のような顔で笑っている。インジュの歌を好いてくれていて「おめぇ、この姿じゃ歌えねぇんかぁ?」と残念そうにしていた。
歌……体を維持することで精一杯で、歌おうと試しかことはなかった。歌えるのか?この体。歌、歌いたいなーと、インジュは、歌う緑の魚の広場で熱唱した時のことを、思い出していた。あの時、捜していた人の子供が、この靄犬だったなんて、すごい偶然――ん?あの人、バイオリニストだったっけ?それで、音魔法の使い手?音魔法?
『バイオリン……音魔法……あっ!エンド君が、音の力を感じるって言ってたんです。ボク、よくわからないんですけど、ボクから音の力、感じます?』
「……感じません。ラスとエーリュにも診てもらいましょう」
『2人とも、どこ行ったんです?ボク、寝てることの方が多かったんで、会えないだけかと思ってたんですけど、いないですよね?』
「歌声の丘に戻ってるぜ?あのな、ラスの男性恐怖症が悪化したんだよ。おまえ、あいつが暴走しねーように、何かしてたのか?3日目くらいだったよな?」
「ええ、それくらいだったと記憶しています。オレはインジュにかかりきりだったので、全く対処できませんでした」
背後で騒ぎになって、さすがに困ったとインファは苦笑した。
『え?ラス、暴走したんです?』
あんなに安定してたのに?とインジュは驚いて、ウサギの耳がピンッと立った。
「ああ、物の見事にな。本人もビックリしてたぜ?おまえには言うなって言われてたんだけどな、でももういいだろう?おまえもやっと落ち着いたしな」
皆を傷つけないように、体内に力を抑え込んだラスを、シェラは浴室にゲートを開いてエーリュと共に落とした。妻であるエーリュが対処して、事なきを得たが、ラスは迷惑をかけられないとあれから城へは来ていなかった。
『うう、ラス……すみません……。たぶん、ボクとお父さんの苦痛の声が、トラウマ刺激しちゃったんです。もお、ちょっと悲鳴上げないとか、できない痛さだったんで……』
ラスに見せちゃいけなかったと、インジュは再び風の城に来られなくなってしまった相棒を思った。
「場所も応接間だったしな。おまえ朦朧としてて、インファ以外近づけなかったからな」
『ボク、そんな酷かったです?』
妖精の魂を解放する処置をしていた頃の記憶が、曖昧だった。目が覚めてから、一家の皆が本当に心配してくれて、元気だったインジュは恐縮したが、どうやら、その時の状態が原因だったようだ。
「獣でしたね」
『鳥ですよ!く、屈辱です……どうして4つ足……この体、なぜか鳥にはなれないんですよぉ』
「それは仕方ねーだろ?それの母親は花の精霊だぜ?大地の精霊だよ。風とは反属性じゃねーか」
『この世の理外なのに、変なとこは、この世の理に縛られてるんですねぇ』
インジュは恨めしげに吐き捨てた。
「おそらく、それにはそれの理があるんです。オレ達がまだ、それを解き明かしていないだけなんですよ。しかし、音の力ですか……あれも今制御不能の未知の力ですね」
『グロウタースの人達、どうやって魔法使ってるんです?』
「霊語で精霊に呼びかけて、妖精達が答えてくれると発動するぜ?」
基本だろ?とリティルは今更なんだよ?という顔をした。
『音っていう妖精、いるんです?』
「ん?そういや、見てねーな。ん?へ?まさか、音が制御不能なのは、下級中級の精霊がいねーからか?」
リティルがガバッと体を起こした。
『え?でも、それじゃ発動しないんじゃないんです?』
「だから暴走状態なんだよ。司の精霊はいるだろ?エーリュとラスの力が、盗まれて使われてるんだ。それで、発現してる力がやたらと強力なのか……」
リティルはやっとわかったと言いたげに、足と腕を組んでソファーに身を沈めた。
『風の妖精って、リティルが作ってるんです?』
「勝手に産まれてくるんだよ。この城からな。風の王の大きな仕事は、死を導くことだ。輪廻の輪が回るように産まれてきた者に、天寿を全うさせる。それで肉体から離れた魂を、始まりと終わりの地、生命の大釜・ドゥガリーヤに帰すのが仕事なんだ。空気を循環させたり、天候を動かしたりとかは、妖精達に任せてるんだよ。他の4大元素と光と闇も同じだ。自然界を動かすほうは、奴らに任せてるんだよ」
へえと、インジュは、妖精の産まれ方を今やっと知ったのだった。彼等が、力を使い切ると消えてしまうことは知っていたが、まさか、城が産んでいるとは思いもよらなかった。かといって、リティルが作っているようでもなかった。ようは、今まで疑問に思っていなかったのだ。
「歌声の丘では、力不足だったと、そういうことですか?」
「ラスとエーリュは、この城に住みたいんだよな?あの場所が自分達の居場所だって、思えてねーんだ。場所の力を使えてねーんだよ」
『城から産まれるって、この城、魔導具なんですかぁ?』
「王の居城はみんなそうだぜ?だから、王が代替わり中で不在でも、城に残った力で多少は妖精達は産まれられるんだ。インファ、ラスの男性恐怖症、本腰入れて何とかしねーといけねーな」
『ラスが城に住めれば、正常になるんです?』
「ここを居場所って決めて、それ相応の部屋を用意すればな。ほら、この城、時計塔あるだろ?あれはゾナのためにあるんだ。ゾナはこの城に時計塔があるから、時を制御できるんだぜ」
時計塔……あの、図書室の上にある塔かとインジュは思い浮かべていた。しかしゾナは、この応接間の暖炉のそばの椅子に殆どいて、時計塔には殆ど帰らない。それでもいいんだなと、インジュは思った。
「この城には、ピアノホールがあります。2人がこの城の住人だと思ってくれれば、あの部屋が、音の妖精を産んでくれる可能性はありますね」
『ピアノホール……ノートン達がいますよね。インフロバンドトリオは、音の妖精じゃないんです?』
「彼等は、オレが風で作った風の妖精です。オレ達風の精霊は、楽器の名手でもありますからね、彼等が楽器を天才的に弾けたとしても、驚くことではありません」
「そういや、おまえ、何の楽器が弾けるんだ?」
『え?ボク、弾けませんよ?歌は歌えますけど……』
「おまえの情緒不安定、それが原因かもな」
『楽器が弾けないの、そんなに深刻なんです?』
「風の精霊は、とても不安定なんです。それが、王が15代も、代替わりした理由の1つでもあります。心を安定させるために、いろいろ必要なんですよ」
「そうなんだよ。オレなんて最たるモノだぜ?みんなに寄って集って守られてるだろ?」
『それは、リティルが1人で、みんなを背負ってるからですよぉ!リティル、ただでさえ小さいんだから、こんな人数背負ったら潰れちゃいます』
「はは、背負ってねーよ。みんなに助けられてるだけだぜ?でもなあ、インジュ、あれだけ歌えれば、楽器はいらねーような気もするけどな?」
「歌いながら弾ける楽器なら、相乗効果が狙えますよ。それは実証済みですからね」
「ああ、それで早朝リサイタルだったのかよ?意地張らねーで、インジュ誘えばよかったのにな!」
インファは半年以上のことを持ち出されて、閉口した。
『仕事で時間合わなかったんだから、仕方ないですよぉ』
「ハハハハ!おまえ、まだ気がついてねーのかよ?避けられてたんだよ。この城の切り盛りしてるの、インファだぜ?その気になれば、それくらいの時間合わせるのなんて、簡単じゃねーか!ハハハハ!インファな、おまえが息子にしか見えねーって悩んでたんだぜ?」
「父さん!それはバラさない約束でしょう?」
「おまえなあ、今回の失態、誰のせいだと思ってるんだよ?おまえだぜ?インファ。インジュをこんなにしたのは、おまえだよ」
リティルは、インファを正面に見据えると、言い切った。
『ち、違います!ボクが乱入したせいです!ボクの自爆です!お父さんのせいじゃありません!』
「ほら、インジュがこんな庇ってくるぜ?おまえ、胸の内、そろそろインジュに教えてやれよ。言わなくても伝わる事ってな、少ないんだぜ?特に好意が伝わる事なんて、ほぼねーよ。おまえ、それに気がついてるんだろ?だから、インジュをそうやって膝に乗っけてるんだろ?言ってやれよ。おまえら、一方通行なんだよ!」
そう言ってリティルはソファーを立った。どこへ?と話が見えなくて置いてけぼりのインジュは、リティルを引き留めた。だが、リティルは明るく笑うと「シェラ、捜してくる」と言って、さっさと行ってしまった。
インファは、フッとため息をついた。そのため息に、インジュは所在なさげに恐る恐る父を見上げた。すると、見下ろしたインファと目が合った。インファは、憂いを帯びた、優しい笑みを浮かべていた。
『お、お父さん?』
インジュはソワソワと不安になった。何か、知りたくないことを知らされてしまうような気がして、怖い。
聞きたくないと思った。今、この距離感にいられるだけで幸せだ。それを、壊したくなかった。
「伝わりませんか……そうですよね。あなたが幼いころの関わりを思えば、伝わるはずがありません」
『ボクは――お父さんが大好きですよ?』
「インジュ……やめてください。オレは、あなたに好かれるような、父親ではありません」
『そんな!そんなことないです!お父さん!』
インジュは申し訳程度にしかない小さな前足を、インファの腹において必死に見上げていた。
「兄さん。その方がしっくりきてましたね。歌う緑の魚では、本当にあなたは頼りになりました。インサーフローが、オレとあなたを繋げてくれました。楽しかったです。オレにとっても、あの場所は、特別でしたよ。煌帝・インジュ。四天王としてのあなたも、とても信頼に値しますよ。けれども、息子としては……」
『ボクは……お父さんって、呼ばない方がいいんです?ボクが、あなたを、狂わせてるんですか?』
自覚したくなかった。雷帝・インファの息子という居場所を、望んでも得られないのだということを、知りたくなかった。
「そうですね。狂わされていますよ。あなたを思うと、冷静ではいられなくなります」
そっと、インファの手がインジュの頭を撫でた。言葉は、拒絶するようなのに、その手はとても優しくて、わからない。インジュには、インファの気持ちがわからなかった。
好かれなくてもいい。ボクはこの人が好きなんだから、それでいい!だから、迷惑かけないように、役に立つとき使ってくれたらそれでいい。そう思えるようになって、インジュはインファに気兼ねがなくなった。
ラスが武官として相棒になってくれて、四天王として、頼ってもらえるようになった。そして、インファとの距離はさらに縮まった。冗談のように「大好きです!」と伝えると、ニッコリ笑い返してくれる、インファの優しさが嬉しかった。それでよかったのに、その距離をインジュは、不安から壊してしまった。泣き縋ると、インファは抱きしめ返してくれた。その優しさが嬉しいと同時に、失う事への恐れが増した。インジュは自分がインファに何を求めているのかわからないまま、不安に混乱していった。そして、捨てたはずの、息子として、この人に愛してほしいという大それた願いに、気がついてしまった。
妖精達の魂を解放し終わり、インジュは、インファの命令でこうして膝に乗っていた。
インファを常に傷つける事になるため、インジュは当然抵抗した。だが、体の維持が難しいことと、城が汚染されるからと、いろいろ畳みかけられて、仕方なくこうしてインファの膝にいた。インファは暇さえあれば、仕事しながらでも、この不浄の物体を優しく撫でてくる。だから、勘違いした。
ボクは、もしかすると、お父さんに息子として、好かれているかもしれない。お父さんが、あの時、ボクを間違えなかったのは、愛されていたからだったんだ。と。
でも、それはやはり勘違いだったのだと、思い知った。父は、インジュが父と呼ぶことが、本当は嫌だったんだとわかった。今でもインサーフローの時は、インファを兄と呼んでいる。間違えたフリをして、そう呼び続ければよかった。あの時は、確かに、確かな信頼関係があったのだから。
インジュは俯いた。インファの、泣きそうな優しい微笑みが辛かった。勘違いしたことが、恥ずかしかった。
しかし、温かな雨のように降ってきた言葉は、思いがけないものだった。
「愛していますよ?インジュ、あなたは、オレの宝です。あなたを……授かったときからずっと、あなたはこの雷帝を狂わせ続ける、至高の宝石です」
『…………………………え?』
「だから、困っているんです。無茶を無茶とも思わないようなあなたを、心配してしまうんですよ。ラスと2人、大型の魔物を任せても平気なあなたのことが、心配でならないんです。副官としては失格ですよ。技量的に、オレは守る側ではなく、守られる側だというのに、あなたを守りたくなってしまうんです」
耳を疑ったインジュは、インファを見上げるばかりで、言葉を失っていた。
「どこまでも不甲斐ないんですよ。あなたの父は。あなたに、慕われる資格はないんです。だからインジュ、こんな父に愛されてください。もう、オレの心臓を止めるようなことはしないと、誓ってください。あなたが、犬に貫かれたとき、オレは1度死にましたよ?」
『お父、さん……!お父さん!だった――ら、だったら!ボクに隠れて酷い怪我、しないでくださいよぉ!お父さんはボクに、愛されちゃってるんですから、盾を差し置いて怪我しちゃダメです!ダメなんですからぁ!うあああああ!ボク、どうして今こんな体なんです?涙も流せないし、お父さんに――抱きつけないですよぉ!』
「人型になればいいですよ?」
『そういう問題じゃないです!ボクが触ったら、穢れが!ただでさえ痛いのに、全身痛くなっちゃいますよぉ!』
「オレが今、抱きしめたいんです。インジュ、あなたが呼んでくれなければ、オレは間違えていました。そんな父親ですが、これからも、オレを父と、呼んでくれますか?」
『ボクのお父さんは、雷帝・インファ、ただ1人です。お父さん……ボク……この体になったボクを、お父さんが間違えなかったあのとき、ああ、ボクはこの人に愛されてたんだって、わかりました。ボクを間違えないでくれて、ありがとうございます。お父さん……ボクを放さないでいてくれて、ありがとうございます!』
人型はホラーだ。床に降りられないインジュは、インファの膝の上で上半身だけの人型を、極力元の体に似せて形作った。黒い亡霊にしか見えないそれに向かい、インファはおいでと言うように、両手を広げた。人型になったものの、抱きついたら苦痛が……と躊躇ったインジュに、インファは痺れを切らしたのか自ら抱きしめてきた。
そんな父を、インジュは抱きしめ返せなかった。傷つけたくなかったから。
『……お父さん、体を取り戻したら、もう1度、抱きしめてくださいよ。その時はボクも、気兼ねなく、抱きしめ返します。その時まで、ボク、我慢します!』
さすがに全身の苦痛は辛いだろう。インファはドッとソファーに背を預けて、膝の上から生えるようにしている人影を見上げた。
「わかりました。約束しますよ。インジュ……あなたが強い精霊で、よかったですよ」
『風一家副官の息子ですよ?強くなくちゃ務まりません。情緒不安定ですけど!』
インファは、辛そうに息が上がっていたが、フッと微笑んだ。スウッと、インファが気を失ってしまう頃、見計らったかのように、風の王夫妻が戻ってきた。
慌てている上半身だけ人型のインジュと、全身を汚染されたインファを見て「おまえら、激しいな」と、苦笑された。
そしてインジュは、しばしリティルに抱っこされることとなった。
4つ足で強そうな獣というと、形は限られてしまう。
風の城の芝生の中庭に、立ち上る黒い靄の様なオオカミが四肢を張っていた。
辺りを警戒していると、右後ろで気配が動いた。
襲いかかってきた金色の三日月型の刃を躱しながら、前足で触れると、その刃はバラリと解けて空気に溶けた。今度は真上から、闇の玉が落っこちてきた。ヒラリと飛び退くと、オオカミの首で、様々な宝石の散りばめられた首飾りが揺れた。地面に当たって砕けた闇の玉の影響で、オオカミの視界は闇に閉ざされた。
バチ、バチバチと何かが弾ける音が聞こえるが、中庭は壁に囲まれている。音が反響してどこから仕掛けてくるのか掴めない。気配は4つ、オオカミを囲むように配置している。――指令、リティルじゃなくてラスですかぁ?上手く音使ってるじゃないですか。みんなの魂の声、聞こえないですよ。でも、舐めないでくださいよねぇ!
オオカミが吠えると、その体が波打ち、無数の手が生えて解き放たれた。靄の手に触れられた闇が消え去る。闇の向こう側にあった、雷の玉を靄の手は正確に消し去っていた。
「!」
無数の手を掻い潜り、金色の光が落ちてきた。オオカミはそれに狙いを定め、手を伸ばす。インファは伸びきった腕を、雷で断ち切りながら、オオカミに急降下で襲いかかる。
――そうは、させませんよ!
オオカミは、断たれて漂う靄を再び集め、インファを大きな手で掴む。背後から迫った手にインファはチラリと視線を送ると、フッとその口元に笑みが浮かんだ。
!2人、いない?インファの笑みに神経を研ぎ澄ますと、上空のラスと、捕らえたインファ以外の2人の気配が消えていた。どこに?と意識を背後に向けた時だった。
「勝負ありだ」
『あ――やられました』
背後から、2本の刃がオオカミの首の前で交差して宛がわれていた。振り仰ぐと、風の王と補佐官が立っていた。インジュは降参だと、インファを拘束していた手を解いた。
「4対1でこれだけ戦えれば、十分なんじゃないかな?」
落ちるような速さで、ラスが舞い降りてきた。しかし、インジュは不満そうだった。
『……四つ足、動きづらいです。翼あったら、4人相手でも勝てる自信ありましたよ!』
「はは、オレ達2人を、完全に見失ってたくせに、よく言うぜ!」
リティルは隣で涼やかに笑うノインを見上げて「なあ?」と同意を求めた。
「ラスさえ潰せば、勝てます!もう1回やりません?」
「いいですが、他にやりたい人達がいるようですよ?」
インファがインジュの背後に視線を送った。誰が?とインジュが振り返ると、彼はうっと息を飲んだ。
そこには、青いガラスのような翼を生やしたライオンと、ドーベルマン、ユキヒョウがいたからだ。
『4つ足も結構楽しいぞ?インジュ、教えてあげる。わたし達とやろう』
少女の声でユキヒョウが言った。
『あなた達、翼なくても飛べるでしょうが!どうして、この体飛べないんです?靄なのにぃ!』
『それは、その体が大地属性だからって聞いたぞ?レイシは飛ぶけど、わたし達は飛ばない。インジュ、遊ぼ』
ユキヒョウは、有翼ライオンを見やった。
『オレ、飛んでいいの?上から狙い撃っちゃうよ?遠慮なく』
ライオンは、意地悪に笑った。それを受けて、インジュはフンッと鼻を鳴らした。
『いいですよぉ?この体、遠距離、中距離、近距離自由自在ですから、3人とも沈めてあげます』
「3人じゃない。4人だ」
『いいんかぁ?ラス』
3頭の前に舞い降りてきたラスを、ドーベルマンが窺うように見上げてきた。ラスは、控えめに笑った。
「うん。インジュ相手に、バラバラじゃ勝ち目ないよ。オレが指令を務める。その姿なら、触れられてもトラウマ発動しないから、気にしないでくれ」
『ラス、1番最初に沈めてあげます。さっきも、最初にラスをやるべきでした。指令、リティルだと思ってたんですよね。それが最大の敗因です』
『おめぇ、あんな高いとこにいるヤツ、どうヤルつもりだぁ?』
ドーベルマンは、先の手合わせで、ラスのいた辺りを見やった。
『フッフッフ、案外使えるんですよぉ?この体。レイシ!ちゃんと守らないと、即頭脳潰しちゃいますからね?』
『はあ?本気で言ってんの?空中で、獣王のオレと鬼神のラスだよ?インジュ、叩き落としてやるよ』
インジュの挑発を受けた有翼ライオンは、フンッと鼻を鳴らした。
「鬼神って……そんな大それた認識なのか?」
『あんた、父さんの意識一撃で奪ったんだろ?そんな真似できるの、この城じゃノインだけだよ』
オレが……リティルの意識を一撃で奪った?何のことだと思って、ラスはすぐに思い出して青くなった。それは、初めてこの黒い犬と対峙した時のことだ。退却を選択したラスは、リティルを蔓で絡め取って、風の城の応接間の床に、投げつけてしまった。家臣にあるまじき不敬を働いてしまったのだ。
「あれは手元が狂っただけだ!故意にやったわけじゃない!」
動揺して声を荒げたラスに、畳みかけるようにインジュは言った。
『あれは、鮮やかでしたねぇ。何が飛び込んできたのかと、思いましたよ。ボクもまったく反応できませんでしたし。大地魔法、舐めてましたよぉ』
ボク、動体視力いいんですよ?とインジュは遠慮がなかった。
「やめてくれ!ご、ごめん、リティル……」
「ハハハハ!おまえ、何弄られてるんだよ?気にしてねーよ。それよりインジュ、その首飾り、調子よさそうだな?」
リティルは、インジュの首を飾る、とても豪華な首飾りを見やった。
『はい!お母さんとインリーに感謝です。穢れをまき散らさなくなったんで、やっとお父さんの膝から降りられました!』
セリアと、リティルの娘のインリーが作った首飾りは、浄化の魔法が込められていて、インジュの体の表面を覆っている。その魔法が穢れを封じ込め、皆、インジュに触れられるようになったのだった。しかし、まだ体の形を維持できず、1日に数時間インファの霊力をもらわねばならなかった。歯痒いなぁと思いながら、インファの膝は不覚にも気持ちが良くて、この体を使いこなせたらもう乗れないんだなーと、インジュは少しだけ名残惜しかった。傷つけている手前、口が裂けても言えないことだが、産まれてから今まで、こんなにインファと話をしたことはなかった。今が楽しいと言ったら、怒られてしまうだろうか。
『時間なくなっちゃうんで、始めましょう!覚悟してくださいよぉ?ラス!』
「ハヤブサに、空中で勝てると思うなよ?」
皆には腰の低いラスだが、インジュ相手には挑戦的だ。フンッと鼻で笑いながら、腕を組んだ。そんなラスに、インジュは余裕だった。
『草食獣にやられる屈辱、味わわせてあげますよ!』
『草食獣?』
ユキヒョウが可愛らしく小首を傾げた。
『それ以上は秘密です!行きますよ!』
そう言って、4頭と1人は戦い始めたのだった。
風三人は、戯れる獣たちを見ながら、東屋に避難していた。
「インファ、大丈夫か?」
リティルはインファの体を支え、石の椅子に座らせてやった。あまり激しいとは言えない戦闘だったはずだが、インファの頬を汗が伝っている。
「ええ、問題ありません」
そう答えたインファは、だが、とてもそうは見えないほど疲労していた。
「インジュには、伝えてあるか?」
ノインの気遣うような声に、インファは力なく、だが安心させるように微笑んだ。
「ええ。彼に隠すと、いいことはありませんから」
穢れを長く受けすぎて、インファは霊力の流れに深刻な傷を負っていた。5人で戦ったのは、インジュの鍛錬ということもあったが、インファがどの程度ならば戦闘に耐えられるのか、その実験も兼ねていた。
触れられない相手に、触れることのできるあの鎖を操れるのは、インファだけだ。インジュの体とエンドを取り戻すには、インファが行くしかないだろうなと、それは一致した見解だった。
だが、問題が発生していた。
「エンドとは話せるようになったのかよ?」
「ええ。ですが、オレは関わるなの一点張りで、インジュも困っていました」
「ハハ、ずいぶん好かれたな」
親父殿って呼ばれてるんだってな!とリティルにニヤニヤ笑われて、インファは苦笑した。
「あちらは、どうなっているんでしょうかね?見た目には穏やかに、時間だけが流れているようにしか見えませんが、エンド君が隠している事は、一体何でしょうか?」
あちらとは、森に引きこもっているヒスイと、インジュの体の様子だ。本当に、何もといっていいほど動きがないのだ。インジュの体を得たあれも、あれから妖精を襲うことなく、日柄一日、ボンヤリと座っている。
「さあな。インジュが仕上がったら、仕掛けるのかよ?」
「ええ、そのつもりです。不愉快ですからね」
インファの雰囲気が殺気立った。
「そりゃ、そうだろうな。人形相手に、親子ごっこしてるみてーにしか見えねーよな。多少は同情するけどな」
「あれが、インジュの体でなければ、同情しています」
当たり前でしょう?とインファは辛辣だった。
「フッハハハ、親父殿はハッキリしているな。しかし、エンドに口を割らせたほうがいい。理由を知れば、対策も取れるかもしれない」
「ええ、インジュが説得していますが、おまえが1人で来いと、そう言われているらしいですね」
インジュは、1人では行かせてもらえないと、エンドに言っているらしいが、彼も折れず、困っていた。インジュが行動しないのは、勝手に動けば、インファが巻き込まれると、警戒しているのだ。
「そろそろ、止めましょうか」
見ると、ウサギ型のインジュが黒い靄を足場に、跳びはねて、上空のラスに肉薄していた。体が大きいために、ライオンは小さなウサギを捕らえられず、大いに翻弄されていた。ドーベルマンとユキヒョウは、飛ばないと言ってしまった手前、何もできずに見上げている。
インジュが優勢だった。が、インジュの体の表面がぼやけ始めていることに、インファは気がついた。
「まだ、大丈夫じゃねーのか?決着つくまでくらい、保ちそうだぜ?」
ノインも同じ見解だったが、インファは腰を上げた。
「面白い戦いかたですが、靄を使いすぎですね」
そう言うと、インファは翼を広げて、雄々しく戦場に乱入したのだった。
「はは、インファのヤツ、インジュを負けさせたくねーんだな?」
東屋を出て、上を見上げたリティルが苦笑した。
「そのようだ。迷いが晴れたようで、何よりだ」
涼やかに微笑むノインを、リティルは見上げた。
「おまえ、インファが悩んでること、知ってたのかよ?」
「薄々な。親子のことは、オレにはわからない。だが、心配はしていなかった」
「はは。だよな。オレも心配してなかったぜ?ただ、インファが、インジュを過保護にしたかったってのには驚いたけどな」
「それには語弊がある。相棒はただ、失いたくないだけだ。その思いが、インジュに対して強かったというだけだ」
「まあな。あいつは、この城の命を戦略で守る守護者だからな。あいつの策があるから、オレ達は安心して飛べるんだ。はは、どっちが王だかわからねーな」
「自虐的なことを言うな」
「へいへい。慰めてくれねーんだからな、補佐官様は厳しいな」
冗談を言って笑いながら、リティルとノインは空中戦の行く末を見守ったのだった。
その頃、ライオンを振り切ったインジュは、ラスの背後をとっていた。だが、ラスはチラッとこちらを見ただけだった。
――あ、これはマズイです!
インジュはゾクッと、身に危険を感じた。
「レイシ!」
ラスは翼を畳むと一気に急降下した。インジュは、自分に迫る光の流星を見た。ライオンの咆哮が、ビームとなって打ち出されていたのだ。翼のない状態に慣れていなかったインジュは、回避行動を瞬間誤った。
「――ここからは、オレがお相手しますよ」
あ、ちょっと逃げられないと竦んだウサギを、大きな存在が包んでいた。ビリビリと空気を揺るがし、ライオンの放った流星と、雷の玉が激突していた。光の洪水の中、インジュはインファの片手の中で、刹那急降下の浮遊感を味わった。インファの出現には気がついたようだが、光の中、目が眩んで空中に止まっていたラスを正面に捉え、糸状の風が放たれていた。絡め取られたラスは、為す術もなく、地上へ落下した。
『兄貴!狡いじゃないか!』
襲いかかってきた有翼ライオンの太い腕を躱し、手の平から鎖を出現させたインファは、鮮やかにライオンを縛り上げていた。そして、地上へ叩き落としてやる。ドーンッと落ちてきたライオンを、地上の2頭は飛び退いて避けていた。
ハッと飛び退いたユキヒョウは空中で気がついたが、空中ではどうすることもできず、襲ってきた金色の槍達と共に地上に落ち、突き立った槍の林に閉じ込められていた。ユキヒョウに一瞬気をとられたドーベルマンは、ドンッと、落ちてきたインファに背中に乗られ、地に伏していた。
勝敗は決した。
『お、お父さん……』
「はい」
押しつぶしたドーベルマンの上から退きながら、インファは涼しい顔をしていた。
『さっき、手抜いてたでしょう!片手!片手って何なんですかー!』
胸に押し抱かれたウサギは、喚いた。
「左手1本って……さすがに凹むよ……」
風の糸を解かれて、体を起こしたラスは項垂れていた。
「皆さんの動きを見ていましたからね。奇襲が成功して何よりでしたね。インジュ、さっきも手は抜いてはいませんよ?連携しただけです」
それにしたって……と、3頭と1匹と1人は何も言えずに大きなため息をついた。
化身とはいえ、ドーベルマンとユキヒョウは最上級精霊で一家の主力、上級だがライオンは風の王の養子息子で、懐刀と言われているこちらも主力の1人だ。そして、ラスは指令として優秀だった。それを、不意打ちしたとはいえ、ほぼ一瞬で壊滅させたインファの強さは、圧倒的だったと言わざるを得なかった。これで、風の城最弱とは、何かが間違っていると皆は思った。
『お父さん?大丈夫です?まだボク大丈夫ですから!』
ぐらっとインファが蹌踉めくのを感じて、インジュは慌てて地面に飛び降りると、地面から生える大きな手のような姿になって、インファの体を受け止めた。
「問題ありません。少し目眩がしただけです」
『お父さん……』
ゆっくり地面に座らせたインジュは、オオカミの姿を取って、心配そうにインファの顔を覗き込んだ。そんな息子の頭を、心配ないとインファは撫でた。
応接間に戻りましょうと、インファはインジュと共に、先に城へ戻ってきた。
フウとソファーに身を深く沈めたインファを見て、インジュはソファーに上がると、インファの膝の上に顎を乗せた。
『ボク、やっぱり1人で行っちゃダメです?エンド君があんなに頑ななのには、理由があります。エンド君に考えがあるなら、乗っても――』
「許可できません。エンド君は死を理解していません。言えないのは、それを選択するつもりだから、とは考えられませんか?口を割らせてください。オレが共に行けないとしても、策を練ることはできます。あなたなら、オレよりも上手く立ち回れます」
『自分が今、鳥なのか獣なのかすら、わからない状態ですよぉ?さっきも、迷っちゃいましたし』
「それでもあなたは、強いですよ。あそこまでよく頑張りましたね。インジュ、本当に、エンド君から何も聞いていないんですか?」
『……お父さん、ボクとエンド君との会話、聞くことできます?』
「霊力に干渉すれば、おそらく。オレに聞き出せと言うことですか?」
『たぶん、お父さんが関係あるんです。ボクに言えないことでも、お父さんになら喋るかもです。だって、エンド君、お父さんのこと、親父殿って呼ぶようになっちゃったんですよ?風三人には逆らえないように作りましたけど、あの人の1番はリティルのつもりでした。それを、お父さん、エンド君の1番になっちゃいました』
「あの呼び方の変化には、そんな意味があったんですか?好かれることは、した覚えがありませんが、そうですか。わかりました。エンド君と話してみます」
「あ、今じゃなくても――」
「大丈夫です。インジュ、エンド君を呼んでください」
「本当ですかぁ?」と、訝しがりながらもインジュは応じて、ウサギになると、インファの膝に上がり込んで丸くなった。インファは、そんなインジュを両手で包むように触れ、瞳を閉じた。
『インジュ、踏ん切りついたか?おい!インジュ!』
「こんにちは、エンド君」
『親父殿!ちっ!インジュのヤツ……』
「無理を言ったのは、オレですよ。あなたが、何も語らないと困っていますよ?なぜですか?何も言わなければ、対策のしようがありません」
『対策なんざ、できねぇからだ。親父殿、あんたは、絶対に来ちゃならねぇ!この体に入り込んだヤツは、事もあろうに、あんたを狙ってる!』
「はい?インジュを欲した次は、オレですか?ずいぶん欲張りですね。オレの何がほしいんですか?」
『あんたのすべてだ!あんた、なぜそんな固執されてんだ!お父さんがほしいって、こいつ、気色悪りい。親父殿は、オレ達の父親だってのによぉ!』
「落ち着きなさい。しかし――」
『笑ってる場合か!なんでそんな余裕なんだ!あんた、霊力の流れもズタズタなんだろう?インジュのせいでなぁ!』
「余裕などありません。冷静さを欠いてもいいことはありませんから、そうしているだけです。エンド君、インジュと敵対しないでください。彼はあなたの半身でしょう?喧嘩はいいですが、不信感は持ってはいけません。オレが傷を負っているのは、インジュのせいではありませんよ。インジュは、オレが触れることを嫌がっていましたよ?オレが好きでやっているんです。あなたに、咎められるいわれはありません」
『親父殿……くそっ!なぜオレは、こいつらと一緒にいなけりゃならねぇんだ!』
「エンド君、この状況下で犠牲にすれば、二度と、あなたはオレに会えませんよ?少しでも惜しいと思うのならば、生き残ることを考えてください。具体的には、それは、何をしようとしているんですか?」
『あんたの体に入って、精神を乗っ取る気だ。こいつは、産まれられなかった命なんだろう?インジュの体を乗っ取って、今までの体がいかに不自由だったか、学んじまったんだ。殆ど動かねぇけどな。それで今度は親父殿だ。話も通じねぇし、どうにもならねぇ。こいつには、欲望しかねぇ』
「それは仕方ありません。それは、赤子なんですよ。インジュの体は飢えませんから、食欲は満たされているんですね……。そして、次はオレ、ですか……記憶など、覗かれましたか?」
『いや?そんな頭もねぇらしいぜ?感情ってヤツかな?それには反応する。オレが怒ると一丁前に怯えやがる。それで……』
「エンド君?どうしました?」
『……インジュの体にはなぁ、エンドっていう心以外に、あいつの感情が残ってるんだ。親父殿、あんたに対する感情だ。こいつは、そこへ逃げ込みやがる。気持ちはわからねぇでもねぇよ』
「ハッキリしませんね。何ですか?」
『親父殿!なぜあんたは、わかってくれねぇんだ?与えるくせに、受け取らねぇ!それが、インジュは寂しいんだ!あんたは、オレ達の父親だ。それは、物理的にじゃねぇ、精神的にもだ!なぜそれを、わかってくれねぇ?だからオレは……くそっ!そんなあんたは、大嫌いだ!』
拒絶だった。弾き飛ばされるように、インファはインジュの心から追い出されていた。
『大丈夫です?お父さん!』
インジュの声に我に返ると、ズキリと両手の平が痛んだ。見れば、手の平が焼けただれて血が滴っていた。インファは手の平を見つめながら、軽く意識を集中した。すると、傷は跡形もなく消えてなくなった。
「怒らせてしまいました。もう、彼はオレとは話をしないでしょう」
『すみません……いろいろ上手くいかないから、苛立ってるだけです。気にしないでください。でも、お父さんが狙われてるって……しかも、ボクの――』
「インジュ!そんなものは切っ掛けにすぎません。狙われているモノがわかっていれば、何とかできるかもしれません」
『……はい』
しょげるようにインジュは、頭を垂れた。素直に感情を表すインジュが可愛くて、父性を刺激されてしまう。ああ、オレはどうしようもない父親ですね。と、インファは心の中で苦笑と共に観念するしかなかった。
「インジュ、そもそもなぜ、体が入れ替わってしまったんですか?」
『あの時、ボクの体の中に、この体が入ってきたんです。酷い穢れだったんで、エンド君がかなり抵抗して、一瞬3人でもみ合いになったんです。ボクも中から追い出そうとして、そこをエンド君に突き飛ばされて、気がついたこうなってました』
「一瞬のうちに、そんなことをしていたんですか?では、あれは、インジュ自体を、乗っ取ろうとしていたと言うことですか?」
『迷わず入ってきたんで、そうなんじゃないかな?って思ってます。ボクに入っても、ぼくになれないのに……エンド君が教えようとしてくれてるんですけど、ダメなんです』
「赤子では仕方ありません。あれは本能でしか動いていないんですよ。ですから、恐ろしい化け物と言えます」
『赤ちゃんですかぁ。育てられます?』
「オレでは無理です。風の王夫妻なら容易いでしょうね。……やはり、あれをこの体に戻し、心が体から出ないように封印して、対処するしかなさそうですね」
策を考え始めたインファを見上げながら、インジュは、言わなければならないと思った。たぶん、この人は言わなければ、こういうことに気がついてくれない。様々な難解なパズルを組み立ててきたのに、愛憎の愛の方にはトコトン疎いのだ。
『お父さん』
意外にも、インジュの声にインファは思考の海から戻ってきてくれた。
「どうしました?」
『……エンド君が言ってた、ボクのお父さんに対する感情、なんですけど……』
「あれがオレに狙いを定めた、原因のようですね。オレのすべてがほしいとは、なかなか熱烈ですが、あなたも、そんな猟奇的なことを思っているんですか?」
雷帝・インファは、こういう人だ!とインジュは、やはり理解していないインファに哀しくなった。
『……お父さんが大好きだから、こっちを向いてほしいって気持ちです!大好きだから、愛されたいって気持ちです!お父さんに、愛されてたんだってことは、この前知りました。だけど、ボクが好きだって気持ちを、お父さんは受け取ってくれないです!それでいいんだって、思ってましたけど、それはやっぱり、凄く寂しいです……すみません……ボク、子供みたいです……こんな自分、イヤです……』
気まずくなって、インジュはインファの膝から飛び降りようとした。しかし、それはインファに阻止されていた。
両手で捕まえられて、インジュは思わずインファを見上げていた。そして、困った顔で笑う、父と目があったのだった。
「受け取っていますよ?父である自分に、自信が持てませんから、受け取りがたいですが、受け取っています。伝わっていますよ?だからこそ、狂わされているんです。インジュ、ありがとうございます。伝わっていますよ?」
『うう……もの凄く恥ずかしいですぅ……どうして、平然とそんなこと言えるんですかぁ!』
「言わなければ、わかってもらえないので、言うしかありません。オレの愛情は、信用ないですからね。しかし、それでオレを?あれは、親の愛情を求めていると、そういうことですかね?あれを引き受けたとしても、オレには荷が重いですね」
『あれを引き受けるんです?あれ、化け物なんですよねぇ?あんなの心に入れて、大丈夫なんです?』
「あれに入られているあなたの体は、大人しくしていますよ?大人しくしてくれるのであれば、オレが引き受けるのも、1つの手ではあります。ですが、エンド君が過剰に心配していますね。精神的なものではなく、物理的にもオレを欲しているとなると、この手は使えません」
『あれに乗っ取られちゃうってことです?お父さんがです?あれに負けちゃいます?』
「オレは慎重なんです。インジュ、オレを守りたいなら情報をくれと、エンド君に働きかけてください。何も言わないのであれば、ヒスイのこともありますし、オレが行きます」
『お、お父さん!早まらないでくださいよぉ!』
インファの膝から下ろされてしまったインジュは、不安に駆られ、立ち上がったインファの服を引っ張っていた。
「大丈夫です。黙っては行きませんし、対策はしていきますから。インジュ、情報収集お願いします。大丈夫ですよ。すぐ戻ります。王達と、少し話をしてくるだけですから」
インファはニッコリ笑い、インジュの頭を撫でると、未だ楽しそうに戦っている皆のいる、中庭へ出て行った。リティルとノインは未だ東屋にいるようだった。
1人残されたインジュは、息を詰めると、意識を集中し、もう1人の自分に話しかけた。
『エンド君!』
片割れに声をかけると、すぐさま怒り狂った熱を感じた。
『インジュ、てめぇ!』
『ボクのことは、元に戻ったらどんなに責めてもいいですから、今は情報くださいよ!このままだと、お父さん、ボク達を守るために、ギリギリの選択しちゃいますよ!いいんです?』
『親父殿の入れ知恵かぁ?てめぇ、オレを脅すのか!』
『何でもします。情報はお父さんの力なんです。それを手に入れて、お父さんを助けられるなら、何だってしますよ!』
『じゃあ、今すぐ来い!親父殿を守らせてやる。こいつは、体さえなければ、消えちまうような脆弱な精神だ。靄の体に包んでこの体を殺せば、一緒に消滅する。原初の風さえ取り戻せば、おまえ、その体でも元の体作れるだろう?』
『エンド君は、それと一緒に逝くつもりなんです?ボクが作ったからって、エンド君を犠牲になんかできないですよ!』
『消滅の瞬間、オレを呼び戻せ!できるだろう?未知の存在なんだ、オレ達だってなぁ、ギリギリ選択しなけりゃ勝てねぇんだよ!』
『わかってます。わかってますけど。……エンド君、ボクの魂、その体にありますよね?』
『ああ?何言ってんだ?あるぜ?なけりゃとっくに死んでるぜ?オレはただの人格で、魂じゃねぇんだ。おまえが置いていってくれたから、何とかなってんだぜ?』
『一緒にいるそれは、魂なんです?』
『おい、何言ってんだぁ?そんなわけねぇだろう?こっちに魂があったら、おまえ、どうやって動いてんだぁ?』
『お父さんの霊力で動いてます。煌帝・インジュの力は使えるんですけど、遠隔になっちゃうんで、なかなかボクだけの力じゃ維持できないんですけどねぇ。エンド君、それから何か力感じません?なんでもいいんです!』
『何でもって、言われても……あの野郎が、バイオリン弾くと元気になるくらいしか、動きがねぇ……』
『あの野郎?バイオリン?』
『こいつのホントの親だよ!なぜあの野郎じゃなくて、親父殿なんだよ!』
エンドの苛立ちは、その一点に尽きるようで、ああ、ボクは本当にお父さんが好きなんだなと、思ってしまった。エンドはもう1人のインジュだ。多少の違いはあっても、エンドはインジュの強い想いに同調するのだ。
『何の曲です?』
『性懲りもなく、風の奏でる歌だ。舐めてやがるぜ!』
『歌が、魂の代わり?エンド君、もうちょっと時間ください!』
『もう、好きにしろ!』
すみませんと、断って、インジュの意識は戻ってきた。
『歌』インジュは、オオカミの姿になると、ソファーの上に立ち上がった。ガラス窓の向こう、中庭が見える。皆が化身の姿で戯れるその向こうにある、東屋に、インファ達風3人とセリアの姿があった。
インジュにとって歌は、大切なモノの1つになっていた。
歌えないと不安定になる。インファが、楽器が弾けるとまた違うと言って、歌いながら弾ける楽器をと、ギターを教えましょうか?と言ってくれていた。元に戻ったら、教えてもらう予定だった。
この体でも、歌えるんだろうか?インジュは不安に思いながら、意を決すると、ソファーを飛び降りて、何もない床の真ん中に立った。
そして、歌い始めた。
――さよなら 止まない雨
――手の平を空に掲げれば 金色の光が 君にさす
――恐れない わたしには 言葉がある
――歌え 君のくれた言葉を 今こそ 響かせて
――青空の向こう 君に この歌が届く――……
ああ、濁ってる。声が濁ってる。嫌だなと思いながら、インジュは歌っていた。この体は、大地属性で風の要素が皆無だ。心は風でも、やっぱり思うようには歌えないんだなとガッカリした。
産まれられなかった命。魂がないのに、この世に存在している、存在しない存在。
いや、魂はあるのだ。未熟すぎてエンドにすら認識できないくらい弱いのだ。それを、ヒスイという父が今、風の奏でる歌を弾くことで補っているのかもしれない。
可哀想だな。インジュは唐突にそう思った。ヒスイは、あんなでもこんなでも、愛しているように見える。なのに、その子は、インファを欲してしまった。ヒスイの心は、受け取られなかった。
そんな罪なことをさせてしまったのは、ボクだなとインジュは思った。
強すぎた想いが、未熟な心を感化してしまった。愛情を受けているのに、インジュのインファを想う心が邪魔をして、あれにはヒスイの想いが届かないのだろう。
歌が、守っている。それは奇跡などではない。音という力を使った、魔法なのだ。ヒスイという父が、我が子のために使い続けている命を繋ぐ魔法だ。
音を制御できれば、あれに、引導を渡すことができる?けれども、それをしてしまうと、あの”お父さん”は哀しくなるだろうか。
──君が守ると言ってくれるから わたしは隣で生きよう
──たとえ 辛くとも
──たとえ 輝きを失っても
──たとえ 疲れ果てても
──心に 風を 魂に 歌を 不可能じゃない 繋いだ手を 放さずにいこう
──願いの果て 君の微笑みに 会えたのだから
──わたしは この風の中 生きていける――……
「インジュ!何をしているんですか!」
ああ、こうやって助けてくれるお父さんを、悲しませるわけにはいかない。と、インジュは、膝をついて抱きしめてくれたインファのぬくもりに、強く思った。
ボクの体も、ボクのお父さんもあげられない。ならばもう、戦うしかない。
『お父さん……音・魔法――で・す……』
ああ、ボクの歌は喜びの音だって、言ってたなと、今更思った。こんな効果てきめんなら、それを知っていたら、あの時、歌ったのになと、インジュは自分をあざ笑った。
体を形作っていた黒い靄が浄化され、透明になっていっていた。思いつきだったのに、自分で自分の体を殺してしまった。
『ラス、音、何とか、してください――そう・すれ、ば――』
ああ、もう、意識を保っていられない。インジュの霊力と、今、インファがくれている霊力とで眠りそうになる意識と戦っていた。
「インファさん、インジュから離れて!」
インファはインジュから引き離されていた。代わりに消え去りそうなインジュを、エーリュは抱きしめた。
途端に、辺りが日が陰ったように暗くなった。透明になっていっていた、インジュの体が黒く染まり始める。
そばで見ていたインファは、エーリュが歌っていることに気がついた。その声は、暗く沈んでいて、この歌に意識を集中してはいけない!と本能が警告してきた。
翳りの音。そうラスが言っていたことが、思い出された。エーリュはあえて、穢れを呼んでいるのだと、インファは悟った。
「グルルル……」
低い獣のうなり声が聞こえた。ハッとして、インファはエーリュの肩を乱暴に掴むと、後ろに引っ張り、インジュから引き離していた。
隙をつくように、インジュが動いていた。
あっ!と、応接間に集まっていた皆が、息を飲んで身構えるのを、インファは背中に感じていた。
「インジュ……目が覚めましたか?」
インファに飛びかかり、その左肩に牙を立てていたインジュは、耳元で聞こえた静かに落ち着いた声に、ハッと我に返り牙を引いた。
『あ……あ……』
今――ボクは何を思ってた?目の前にいるモノが、とても美味しそうに見えた。口の中に広がるこの味が、実際にとても美味しく感じられていた。
――ボクは食べた!お父さんを!
この体は、ボクにふさわしいんだと、インジュは唐突に思っていた。ボクの心は化け物だ。どんなに姿形を、両親のように美しく取り繕っても、殺さない戒めがなければ、殺し尽くしそうなこの心がとるべき姿は、霊力をむさぼるこの穢れた姿がふさわしいのではないのか?インジュはインファから離れようと、後ずさろうとした。
「落ち着きなさい。大丈夫です。インジュ、何でもありません。わかりますね?」
何でもないわけがない。穢れを纏った牙は、インファの肉体を毒のように冒して、超回復能力でも血が止められていなかった。それを、癒やしの力を持つインジュには瞬間わかった。それなのに、インファは動揺したインジュを抱きしめて、その背を宥めるように撫でていた。どこにも行かせない!そう言われた気がした。
「何をしていたんですか?」
インファは、努めて落ち着いた声色でインジュに尋ねた。
その声に、弾かれたようにインジュは喋っていた。
『す、すみません!そんなつもりじゃ、なかったんです。むこうにもこっちにも、あれの魂がないらしいんで、どうやって維持してるのかなぁ?って思ってですねぇ。あっちのお父さんがバイオリン弾いてるらしいんで、試してみようと思っただけなんです!』
体が浄化されるとは思わなかったと、インジュは再び、インファから離れようと藻掻いた。だが、インファの手がそれを阻止した。
「魂がねーって?」
聞き捨てならないと、リティルが寄ってきた。インファにやっと解放され、インジュはうなずいた。
『はい。エンド君に確認したんです』
「魂がねーなら、あっちのおまえの体、どうやって動いてるんだよ?」
『ボクの魂あっちにありますから、大丈夫です』
「待ってください!インジュ、では、今この体には魂がないんですか?」
『あ、あの、そう……なんです……』
オドッとインジュは言いづらそうに白状した。インファは1度短く息を吐くと、インジュをギロッと睨んだ。
「なぜ言わないんですか!生き物は、魂を中心に心と肉体を持っています。魂とは生きるエネルギーを生み出す装置ですよ?それがなければ、体は死へ向かうだけです!なぜ体の維持ができないのかと思っていたら、そんな基本的なことだったんですか?……見落としました……初歩的すぎて……精霊大師範が、聞いて呆れます……」
インファが動いた拍子に、肩の傷からボタボタッと血が滴り、インジュは慌てて「動いちゃダメです!」と叫んだ。
「おまえ……霊力だけで体保ってたのかよ?シェラ、力貸してくれ。疑似の魂作ろうぜ?」
リティルは「呆れたなー」と苦笑しながら、隣にいたシェラに声をかけた。
『そんなことできるんです?』
「オレを誰だと思ってるんだよ?風の王だぜ?魂はオレの専門だぜ?それでオレの妃は、産み出す方の専門家だ。偽物くらいなら、すぐできるんだよ」
そう言うと、リティルとシェラは向かい合って立つと、そっとお互いの両手を合わせて、何かを受けるように形作りながら手を離した。金色と白に輝く光の球が2人の両手の上に乗っていた。
「インジュ、受け取れ!」
フワリと解き放たれたその光を、インジュはパクッと飲み込んだ。
『わっ!凄いです!魂のありがたみがわかります!』
霊力の消費が普通になった!とインジュは、そんな当たり前のことを喜んだ。
「ハハ、わかったら、インファに謝れよ?おまえのために、毎日霊力ズタズタにされてたんだからな!」
『すみません……何かおかしいことは、わかってたんですけど、わかったのはさっきなんです』
「今まで気がつかなかったと?どんな霊力をしているんだ、おまえは……」
落ち込むインファの肩の傷を確かめているノインも、「オレも気がつかなかった」と、苦笑した。彼も、インジュが体を保てない理由を、探してくれていた。しかしノインは、雷帝親子に近づくなと言われていて、遠ざけられてしまっていた。彼が気がつけなかったのも、無理はなかった。
『もう少しで、お父さんの霊力がなくても、何とかなるはずでした……』
「霊力無尽蔵って、半端ねーな」
『うう……すみません。体にも不慣れで、気がつかなくて……霊力が凄く消費するの、体のせいだと思ってたんですよぉ』
インジュは、消滅しかけ、穢れを受けて我を失ったが、疑似の魂を得て元気を取り戻していた。情緒不安定だが、インジュはねあかで前向きな性格だ。空元気ではなさそうだなと、インファは緊張が解けてしまった。その途端に、ドッと疲労が襲ってきた。
「今まで無事で、良かった、です――よ……」
ハアと長くため息をついたインファの体が、前へ傾いだ。誰も止められないまま、インファは床に倒れていた。
『お父さん!あわわ、霊力全然ないです!しかも血、止まってないじゃないですかー!もおおお!待っててくださいよ?ボクが癒やしますから!』
インジュは、倒れたインファにトンッと前足で触れた。インジュの黒い靄の体の表面を、金色のキラキラ輝く光が、波の様に移動していった。インファの体に収まりきらなかった霊力が、風となって応接間に解き放たれていた。日だまりの温かさを乗せた風が、キラキラと輝いていた。
疑似とはいえ魂を得たインジュは、煌帝・インジュとしての力を、不慣れな体で瞬時に使いこなしていた。こいつも優秀なんだよなとリティルが感心していると、ゾワワッとインジュの黒い靄の体が乱れた。
『……い……たーい!痛い痛い痛い!ぐぬぬ、この穢れ、邪魔です!』
インファから前足を離したインジュは、突然痛がって床を転げ回った。リティルが苦笑交じりに近づいてくると、そっと体に触れてきた。
「待ってろよ?痛みくらい、とってやるよ。はは、ホントはな、おまえに霊力を送る役、シェラがやれば誰も傷つかなかったんだぜ?」
リティルに霊力を送られて、インジュは、体がバラバラになりそうな苦痛から解放された。うつ伏せに寝そべって「えっ!そうなんです?」と、ゼーゼー言っていると、倒れたインファの膝の上に仰向けに転がしたセリアが、リティルに話しかけた。
「え?そうなの?インファじゃなくちゃ、ダメなんだと思ってたわ。リティル様も送れるみたいだから、少しくらい代わってもらったら?って、言ってたのよ?そうすれば、毎日こんなに傷つかなくてすむじゃないって」
セリアは、肩の傷がちゃんと癒えていることを確認して、ホッとしていた。
『お母さんが治してたんです?』
「そうよ?わたし以外、誰がやるのよ?あ、インジュまさか、インファが自分でやってるって思ってたの?さすがに無理よ!あんなズタズタじゃ」
「おまえは、インファを何だと思っている?インファは上級精霊だ。最上級と上級の間には、越えられない壁がある。相棒は、おまえの為にかなりの無理をしていた。なぜなのか、伝わっているか?」
『受け取ってますよぉ!ボクも、薄々わかってたんですけど……甘えちゃいました……。ノイン、ノインから見てどうです?この穢れ、浄化しちゃうとマズいです?』
寝そべったまま顔を上げたインジュの前に、膝を折ったノインは、探るような視線でインジュを見つめた。
「そういう存在だと言っていたな。しかし、魂はその輝き……おまえの力も――試してもいいが、やるのならば、エーリュとインファの2人に立ち会わせろ。ラス、少し付き合え」
そう言うと、ノインはオオタカに化身した。この姿ならいいだろう?とノインは言った。
「うん、大丈夫。気を使わせてすまない」
指名されたラスはノインに促されて、部屋を出た。
どこへ行くのかと前を飛ぶノインについて、ハヤブサに化身してついて行くと、たどり着いた場所は、イヌワシとオウギワシの向かい合う彫刻が彫られた扉、ピアノホールだった。オオタカは風を使って、重いはずの石の扉を難なく開くと中に飛び込んだ。
『ラス、この部屋をどう思う?』
「え?綺麗で、音に溢れてて、凄くいい部屋だよ。ここにくると、ホッとするんだ。風の城に来ると、この部屋には必ず来てしまうくらいだよ」
ラスは、深呼吸するように、部屋の中心の天窓を見上げて、両手を広げた。
『今、音の力は暴走している。それは、音を運営する妖精達がいないせいだ』
「え?妖精?……そうか、妖精がいないとどうにもならないほど、音の力は強いのか……」
『理解が早くて助かる。ラス、この城を、住処と定めたいのだな?』
「それができたら、どんなにいいか……でも、迷惑がかかってしまう」
俯いたラスが、自身の暴走する男性恐怖症を恐れていることは明白だった。
『この城の住人は、迷惑とは思わない。だが、気にする気持ちわからないでもない。ラス、霊力が干渉することだけが問題なら、これで止められる』
ノインが一羽ばたきすると、目の前にインジュのしている宝石の首飾りと同じ宝石を使った、首飾りが現れた。こちらはインジュの持っているものよりは小振りで、男性が身につけていても違和感はないデザインだった。
『インジュの穢れの影響を、他に及ぼさない為にと、セリアとインリーが作った時、偶然できた。他と霊力のやり取りを完全に遮断できる』
ラスは、金色の風の中に浮かぶ首飾りに手を伸ばした。
『ラス、インファを、おまえはどう見る?』
「え?うーん……一言でいえば、なぜ最上級じゃないんだろうって、疑問に思うくらい強い精霊だと思う。理由はたくさんあるけど、あの力の理解力の高さは、誰にも真似できない強みだよ。みんな、頼りにしてる。しすぎてると思う。リティルとは違う、リーダーシップの取り方だ。でも、同時に凄く孤独に見える。インファは、頼りにしてるって言ってくれるけど、本当に頼ってるのは、両親と補佐官の3人だけなんだ。インジュは、そんなインファを心配してるよ」
『おまえは、恐ろしく目がいいな。インファがほしがる理由が、よくわかる。相棒はこの城の兄貴分だ。この城にいて、彼に導かれた者は多い。インファも、頼りにしていないわけではない。副官として皆の命を預かる責任を、全うしようとしているだけだ。最近のインジュは不安定だが、インファの癒やしにはなっている。だが、あの方法は、長くは続けられない』
ノインは化身を解いた。ハッと警戒して、ラスは首飾りを身につけた。それはノインに何かされると恐れたわけではなく、ノインに危害を及ぼさない為だった。「気遣いは無用だ」とノインは涼やかに笑った。そうだ、彼ならラスが暴走したとしても、一瞬で意識を奪って風の障壁に閉じ込められる。ラスに近づかなかったのは、本当にラスの精神を思っての事だったのだ。
「ラス、この城にいろ。おまえは、インファの孤独を癒やせる存在になれる。そして、インファの癒やしになりつつあるインジュを、エーリュと2人で、支えてやってほしい。風の王夫妻は親だ。オレは相棒だ。必然の関係だ。その枠の外にいるおまえ達2人は、文字通り、この城の新たな風だ」
ノインは、グランドピアノの鍵盤を撫でた。
「インファは、被害を最小限に食い止めるため、己の時間を賭けようとしている。オレは半年で助けられたが、彼にその選択をさせれば、どれくらいの時を費やさなければならなくなるのか、見当もつかない。音の司、インファとインジュが、引き離される時間を、短くしてやってほしい」
「あなたは、インジュとエンド君が負けると思ってるの?なぜ?その理由がわかっていても、インファを守れないって言うのか?」
「オレは、親の気持ちも、子供の気持ちもわからない。だが、純粋であればあるほど、強い力を持ってしまう。インジュとエンド、そしてヒスイも、名もなき産まれ損ないと、インファの想いには勝てない。相棒は、あれでいて激情家だ」
「想いの強さ?そんな得体の知れない戦いなのか?」
「得体は知れている。音の力だ。おまえには聞こえているだろう?心の音が。奏でられている音楽が。今回の事案は、初めから音の力の暴走だ。音の力は、感情によって左右されるのだろう?此度、皆、知らず知らずのうちに、音楽で相手と戦っている。そして今、この城で1番大きく音楽を奏でているのは、雷帝・インファだ。彼の音楽に、あのインジュでさえ、太刀打ちできないでいる。この戦い、勝つのはインファだ」
心の音が聞こえなくとも、それくらい、オレにもわかるとノインは言った。
「オレに、インファの音に勝てと?」
「そうではない。制御しろと言っている。戦いは避けられない。おまえ達も間に合わないだろう。インサーフローのインジュには期待するが、彼はピアノの方がいなければ、真価を発揮できない。インファが時間を稼ぐ間、おまえ達は妖精を産み出し、音という力を、世界に認めさせなければならない」
「……残された時間は?」
「インジュとエンドが決断するまで、もう猶予はない。インファは保険のことを、話すだろう。もう子供扱いはしたくないと、インジュを息子として信頼すると決めてしまったからだ。インジュはそれに答える。彼ももう、大人だ。インファを守るのではなく、支えるのだと、すぐに気がつくだろう。インジュにはもう、その強さがある」
「そんな!なぜ、待ってくれない!」
「おまえ達の努力は認める。だが、間に合わなかった。オレとリティルは、できることをするだけだ。インファを勝たせなければならないからな。オレ達も本意ではない。リティルには苦渋の決断だ。命は助かるとしても、息子を、犠牲にする選択であることには、変わりはない。そしてそれを阻止することも、守ることもできないのだからな」
ラスはホールを飛びだしていった。
ノインはそれを見送らずに、天井を仰いだ。花の姫とオオタカの戯れる丸いステンドグラスから、華やかな光が落ちてきていたが、いつもは光り輝いて見えるそれが、今日は色褪せ暗く見えた。
「こんな、無様な戦いは、風の騎士・ノインとなってから初めてだ。これだけ考える時間があり、導き出せた答えが、おまえの犠牲などとは……インファ……」
ノインはここで、インジュを誘えないでいたインファに付き合って、歌っていた。さすがに、音域が違いすぎて、インジュのキーでは歌えない。インファは、ノインの為にわざわざ曲を書いてくれていた。
――やりますね。あなたは本当に、なんでもそつなくこなしてしまって、嫉妬しますよ
悪意なく、純粋にインファはそう言って微笑んだ。
――前世の記憶のおかげだ。オレの実力と言っていいものか、疑わしいな
――あなたの歌は、あなたのものですよ。あなたと組んでいたなら、インサーフローは、双子のデュオでしたね
――いや、普通に兄弟だ。オレの方が3つ年上だ
――オレが弟ですか?その位置に、甘んじてみたかったですね
――フッ、おまえに兄と呼ばれるのも、悪くはなかったな
――フフフ、演技でも呼びづらいですね。あなたが兄に見えたことはありません
――それは、インジュも同じだ。おまえは、彼にとって父親以外の何者でもない。未だにインサーフローでは、兄と呼んでいるが、あれは努力の賜物だ
――そうですね。インジュに兄と呼ばれるたび、ホッとしていました。その時だけ、インジュを対等に扱えましたから。態度は変わらないのに、呼び方1つで、オレは乱されずにすみます。その点、あなたといると楽ですよ。気兼ねがいりませんからね
――インファ、オレにとってもおまえはそういう存在だ。友、相棒、その方がシックリくる。血縁を疑われながらも、他人を貫いてインサーフローというのも、面白かったかもしれないな
――こんなに似ていてですか?生き別れの兄弟が再会したという設定で、あえて兄とは呼ばないとしたほうが、説得力ありますよ。オレは弟のリティルと、あなたを捜していたんです。そして再会して、歌手デビューするんです。どうですか?
――インファ、売り込みに行くか?
――いいですね。インサーフローとどちらが売れるか、勝負したいですね
――ライバルはインジュか?オレでは、インジュの天性の歌には勝てない
――そんなことは、ないと思いますけどね。あなたは涼しい顔で、負けず嫌いですからね。ですが、止めましょう
――そうか。残念だな
――どこまで本気なんですか?ノイン、あなたの歌、独り占めにしたいんですよ。だから、売り込みはなしです
そんなことを、サラッと言いながら笑うインファに、ノインは自然に笑ってしまった。
初めから、ノインはインサーフローの候補から外されていた。歌う緑の魚に行くことが決まっていた、リティルとインファのいない間、城を動かさなければならなかったからだ。
インファと歌おうと思ったのは、気まぐれでしかなかった。インサーフローをやっていなければ、インファが曲を書くこともなかっただろう。
風の奏でる歌だけで、今までは十分だったのだから。そして、あの歌は、個々に発現する効果の異なる歌故に、誰かと歌う歌ではない。
誰かと歌うことが、楽しいことなのだと、霊力抜きで歌っても意味があるのだと、インファは教えてくれた。インファといると、楽しい。この戦いに明け暮れるこの場所で、それでも笑っていられるのは、インファという友がいるということが大きいのだ。
半年の眠りの中で、インジュとインファの歌う歌が聞こえていた。
哀しみを癒やす歌声だった。だから目覚めた時、リティルを嬲ってしまった自責の念を、自分自身に向けずにすんだのだ。インサーフローに救われた。インジュの明るい声と、インファの寄り添う声が、ノインを手招いていた死を、消し去ってくれた。
歌には確かに力がある。
音魔法をこのまま、忌まわしいモノにしてはいけない。インファは、新たに加えた精霊達と、彼等の司る力を守るために己を賭けるのだ。彼は、この城の兄貴分だから。
彼ほどの力はないが、せめて歌おう。彼が守ると決めた者達を、代わりに守るために。
「インファ、オレはおまえがいないと寂しいが、おまえには最大限の安らぎを与えられるよう努力しよう。インファ、安心して、眠れ。おまえがいない穴は、オレが埋める」
ノインは、崩れるようにピアノの椅子に腰を下ろしていた。
嘘だ!インファが、諦めているなんて!と、ラスは信じたくなかった。
実際に何をしようというのか、ノインは教えてくれなかった。それは、オレが邪魔をすると思われたのだと、ラスは思った。
オレ達が音を制御しきれないせいで、恩人と親友を苦しめている。その事実も耐え難かった。ノインは、リティル達他の3人の風が言わないことを、あえて言ってくれたのだ。
ラスが応接間に飛び込むと、インファとインジュしかいなかった。
寄り添うオオカミの姿のインジュを、すでに目を覚ましていたインファは、優しく撫でていた。漂う悲愴に、決意した哀しい音に、ラスは、頽れるしかなかった。ノインが言ったことが、本当なのだと悟らざるを得なかったからだ。
インジュが負ける?そのことすら信じられない。だが、ノインは確信していた。インジュに失礼じゃないのか?いや、彼には見えているモノがある。
インジュが負ける?そして、インファが、犠牲に……なる?
「どうしました?ラス」
駆け寄ってきてくれたインファに、ラスは縋るように顔を上げた。
インファは、微笑みを浮かべていた。いつもは心まで取り繕ってしまう彼には珍しく、それは失敗していた。
――インファ、あなたもインジュが負けると思っている?その理由が、音の力のせいだって、確信してるのか?
インジュが、遠慮なくぶつかって、インファを素直にしてしまっていたのだろう。インファから感じる心の音は、決意した激しい炎のようでありながら、それをしたくないという、冷気のような悲愴があった。
インファの隣にジッと佇むインジュからは、まだ、勝つよ!という前向きな音がしていた。それだけが、ラスにとって救いだった。
だが、魂の声を聞くことのできるインジュは、インファの「守りますよ?」という優しくけれども激しい音に、飲まれていた。それを振り払って「ボクが守るんです!」と戦っていた。
『あー、ノインに聞かされちゃったんです?あの人、容赦ないですからねぇ。大丈夫ですよ、ラス!ボクとエンド君は負けません!お父さんが後ろにいるんです。勝ちますよ!』
――だったらどうして!インファに、そんな哀しそうな心の音をさせてるんだ!
言えずにラスは、頷いて、慰めてくれるインファとインジュを抱きしめていた。
「そんなにノインは、容赦がなかったんですか?ラス、心配しないでください。彼が言ったことをオレがするのは、万策尽きたときですから。インジュとエンド君は、やってくれますよ。そうしてくれなければ、オレはしばらく休暇です」
インファはラスの腕からヤンワリと逃げながら「それもいいかもしれませんね」と笑った。
『ダメです。長期休暇はあげませんよ!お父さんは、ここでボク達をこき使ってくれないと、ダメです』
「期待していますよ?これをすると、ますますエンド君に嫌われてしまいますから」
『あー、大嫌いって言ってましたね。大嫌いって。後悔してると思いますよぉ?』
「インジュ、エンド君に、あなたが嫌っていてもオレは好きですよ?と伝えておいてください。準備ができたらしかけます。インジュ、いいですね?」
『はい!見ててくださいよぉ!絶対勝ちますから!』
そう言って、靄のオオカミは遠慮なくインファにすり寄って、撫でてもらっていた。そして「この姿だと、ベタベタしてても変に見えないのがいいですねぇ!」と言って、押し倒す勢いでインファに戯れ付いた。
「インジュ、あなたは強いですよ?少なくとも、オレはそう思っています」
ピタッと、インジュは動きを止めていた。
「そろそろ自信を持ちなさい。あなたが弱かったことは、産まれてきてから1度もありませんよ?」
『お父さん……それはさすがに……ボク、落ちこぼれ精霊でしたよぉ?』
「そうやって自分自身をも偽っておいて、まだそんなことを言いますか?あなたは、心根1つで何にでもなれます。だからこそ、迷っていただけです。もう、あなたの心は1つに定まっているはずですよ?インサーフローのインジュ」
『それですかぁ?風の王の盾、煌帝・インジュじゃないんです?』
「心に風を 魂に歌を。あなたは、風の奏でる歌その者です。歌う者によってその姿を変え、聴く者に様々な効果をもたらす、オレ達風にとって、大事な癒やしの歌です。忘れないでください。歌うことを。歌と共にあるときのあなたは、向かうところ敵なしでしたよ?」
そう言ってインファは、力強く、大きく、包み込むように歌い出した。
──心に 風を 魂に 歌を 君と築く未来が 今 目の前にある
──さあ わたしに 手を伸ばして 掴んだ手が まばゆい羽根に変わる
──恐れるな 傷ついても 誓え 瞳の輝きを失わないと――……
インファの風の奏でる歌は、風の王に力を戻す以外の効果をもたらせない。誰かと歌うと、その人の歌の効果を底上げしたり、魔法の威力を上げる補助的な効果しかなかった。
――インフロのインジュが無敵だったのは、ピアノの方が一緒にいてくれたからです。ボクは、1人じゃ飛べないです。お父さん……お父さんと離れるのは、凄く怖いです。遠いと思ってたのに、気がついたらボク、お父さんのそばに、いたんですね?産まれる前夢見た場所を、ボクは勝ち取ってたんですね?やっと気がついたその場所を、守りたいです!
『お父さん、さっきのエンド君への伝言、元に戻ったら、お父さんが伝えてあげてくださいよぉ』
そう言われて、インファは何も言わずに、ただニッコリ微笑んだ。
決まったわけじゃない。
お父さんが、あれを捕まえて、自分諸共封印してしまうなんてこと、させない。と、インジュは死ななければいいなんて、とても割り切れないと、インファの変わらない微笑みに、強く思った。
魂を得て、インジュは今夜は久しぶりに自室に戻った。
エンドと話すからと、一緒にいてほしいと言われて、インジュに付き合っていたインファは、やっと解放されて、応接間に戻ってきた。
応接間では、リティルがまだ仕事をしていた。
「お、インファ、もう戻らないと思ってたぜ?」
リティルはすぐにハトを呼んで、机の上を片付けさせた。リティルがインファが戻るのを待っていたのは、明白だった。
「オレを、待っていたんではないんですか?父さん」
「まあな。オレが手も足も出ねーなんて、最悪だぜ?」
「オレが何とかできるのなら、最悪は回避できます」
「おまえ、オレの息子だなー」
「そうですが、何か?似てないとは、言わせませんよ。オレは、無謀なあなたの息子です。15代目風の王、烈風鳥王・リティルの息子です」
「……愛してるぜ?インファ」
「知っていますよ。疑ったことすら、ありません。……父さん、オレが我を失ったら、そのときは――」
「わかってる。オレが、おまえを封じてやるよ。誰も傷つけさせねーから、心配するなよ。でもな、インジュとエンドのこと、信じてるんだぜ?」
「信じていますよ。オレの息子達は、強いですからね。息子達が負ける相手に、オレが太刀打ちできるわけはありません。オレの出る幕はないことを、祈っていますよ」
「はは、おまえの力は、努力の賜だからな。おまえが最上級だったら、オレの存在意義が脅かされる。そんなどうでもいい理由で、おまえが最上級になれねーなんて、エンドに理破壊してもらおうぜ?」
「父さん、誰に言われたか知りませんが、そんなこと真に受けないでください。まず、オレの肉体で最上級は無理ですし、そこまでの実力はありません。そして、忘れたんですか?オレは、あなたのために存在している精霊です。オレが力を持てば、今まで以上に父さんを支えられるんですよ?拒まれる理由がありません」
「説得力あるよなー」
「ありがとうございます。それが仕事ですから」
「……今夜は一緒に飲まねーよ。無事に終わったら、2人で飲もうぜ?」
「はい、その時を楽しみにしています。大丈夫ですよ。きっと飲めますよ。息子達は、やってくれます」
インファは、シャンデリアを見上げた。そして、フフッと微笑んだ。
「あれの影響が抜ければ、インジュの幼児退行も治まりますね」
「はは、あいつ、こんなのボクじゃないです!って、真剣に悩んでたからな。あれと精神が繋がってるせいじゃねーのか?って言ってやったら、納得したみたいだったぜ?うっかりだよなー。愛嬌があっても、抱きつき魔でも、あいつちゃんと大人で男だからな。おまえを捜し回る姿には、違和感しかなかったぜ?」
リティルはそういったものの、シェラの見解は少し違うことをインファには言わなかった。インジュが、インファのことで不安を抱いていることは本物で、解消の仕方のわからないインジュは、インファを目の届くところに置いておきたかったのだ。その姿は、幼い子供が病気の親を心配する様に似ていると、シェラは言っていた。
「そうですね。しかし、無駄ではありませんでしたよ。インジュと、こんなにゆっくり話をしたのは、これが初めてです。幼い頃に与えてしまった劣等感を、拭えたらいいんですけどね」
「そんなの、あいつがおまえを守るんじゃなくて、支えるんだって気がつけば、自然になくなるさ。こんなことがなくたって、おまえらはとっくに仲良しだったぜ?」
「子離れできていないのは、オレの方でしたね」
インファはそう言って、少し寂しそうに笑った。
リティルはその微笑みに、不安になる。
産まれられなかった命。
それへの対処法を編み出すことは、それを認知するということだ。風の王が存在を認めれば、世界はそれをそういう存在なのだと受け入れてしまう。それは、風の城にとって新たな脅威の誕生を意味していた。
今回限りのイレギュラーな事案で終わらせるには、風の上級以上の精霊が、それと共に自殺するしかない。世界は、風の精霊の自殺を絶対に認めない。その事実を、なかったことにする、世界の刃である風の精霊を、守るためのシステムが働くのだ。風の精霊が自殺した事実がなくなれば、それの原因になった事柄も消滅する。世界は、産まれられなかった命の引き起こした事案自体を闇に葬る。そんなモノは存在しないのだと、あれが産み出される以前の世界が続いていくことになるのだ。
そうやって、代替わりした風の王が、幾人かいたことを、リティルとノインは知っていた。
だが、リティルはその選択をできなかった。
先代風の王の生まれ変わりであるノインも、その風の精霊最大の禁忌の存在を知っていた。
2人は、この王しか知らない世界の理を、胸に秘めることを選択した。
知られれば、インジュがその役をやってしまう。そして、それを横からかすめ取って、インファが実行するだろう。
ならば、新たな脅威となろうとも、皆と共に生き抜く方を選択する。幸いなことに、この禁忌は王の記憶にのみ受け継がれるもので、口外しなければ知られることはないのだ。
――大丈夫。雷帝親子の命を、命だけは守れる
そのはずなのに、なぜだろうか?リティルは不安に苛まれていた。インファに、言えていないことはたくさんある。嘘をついているわけではなく、言わないでいることなど、大小様々ある。なのに、なぜこんなに不安になるのか、インファが無駄に命を捨てないとわかっているのに、リティルは不安に心を掴まれていた。
インファが、そろそろ寝ると言って、ソファーを立とうとした。
「インファ!」
「――父さんまで、インジュに感化されたんですか?昼間、ラスにまで、抱きつかれましたよ?」
リティルはインファに、思わず抱きついていた。小柄で小さなリティルでは、長身な息子を抱きしめるという絵にはならなかった。
「大丈夫ですよ。オレが行かなければいかなくなったとしても、封じるだけで、オレは生き残ります。死ななければ、いつかまた、会えますよ。父さんが、オレを目覚めさせてくれるでしょう?信じさせてください。皆で生きる道を、副官として、風一家に導きたいんです」
「ああ、わかってる。インジュ達が負けるなんて、思ってねーよ!オレ達の出番はねーんだ!初めからな!」
「笑ってください。父さん。笑ってオレ達を導いてください。あれには、罪はありません。オレ達はいつも通り、新たに産まれるための死を、導くだけです」
「ああ、わかってる!わかってるんだ、インファ!」
「本当に……父さん、無償の愛、制御できるようになってください。オレまで泣かせることはないでしょう?」
「はは、ごめんな。そんな、固有魔法が、あるなんて、未だに、実感ねーんだ。だからな、どんな魔法なのか、教えてくれよ。精霊大師範!」
「父さんまで、そんなことを言うんですか?オレにちょっとは、楽させてくださいよ。ラスとエーリュの面倒も、見なければならないんですよ?」
「はは、おまえは、そういう、役どころなんだよ。諦めろよ、インファ」
インファは小さく笑って、リティルを抱きしめ返した。そして「こんなに泣いたのは、久しぶりですよ」と呟いた。