小章 とある場所
あの黒い丸いモノは、たまにいなくなる。
最初は妻がそうなったように、消えてなくなったのかと思った。それならそれで、べつに何とも思わなかった。だが、仕事場から戻ると、定位置のかごの中にそれは戻ってきていた。
「バイオリンが聞きたいのか?」
何とはなしに声をかけて、気が向くとバイオリンを弾いていた。鈍い痛みは止まない。だが、この丸い黒い体の上を、虹色が走るのを見ると、弾こうという気になる。
これは、妻が残したモノ。何なのか、わからないモノ。
あるとき、店に立ちバイオリンの修理を依頼にきた客と話していると、家の奥で大きな物音がした。何だ?とは思ったが、その場は、訝しがる客に取り繕ってやり過ごし、店の入り口にクローズの札を出して、部屋へ引き返した。
いたのか、いなくなっていたのか、わからなかったが、部屋の中を歩き回ったようで、一メートルくらいの本棚が見事に倒れていた。ああ、あの大きな音は、これが倒れた音だったのかと、合点がいった。
「怪我してるのか?」
血も外傷もよくわからなかったが、そんなような感じがした。ヒスイは、初めてそれに手を伸ばした。それは、触れないで!と言うかのように身をよじった。それでも手を伸ばすと、グニュッと変形した。ように思えた。
「おまえ、ただの丸い物体じゃなかったんだな」
これは顔なんだろうか?犬?と、ヒスイは思った。触れたそれは、確かに触っているはずなのに、手の平には何も感じる事はできなかった。