二章 妖精を喰らう獣
インジュは、朝日に輝く、天窓のステンドグラスを見上げていた。
虹色の輝きで、白い木の床が色づいている。
「お待たせしました。始めましょうか?インジュ」
ピアノホールの、向かい合うイヌワシとオウギワシが、爪を合わせている彫刻がされた扉を開いて、インファが姿を現した。
「はい。兄さん!」
インファを振り返ったインジュは、柔らかく笑った。そんなインジュの背後、ピアノの周りに置かれたギター、ベースが、宙に浮かぶ。見る間に存在感を得た風が、透き通った人の姿に落ち着いた。ドラムセットのその場所にも、2人にとっては見慣れた者が透き通って収まっていた。
「行きますよ!準備いいですかぁ?雪夜!ソエル!ノートン!」
インジュの明るい声に、透き通った3人は「おお!」と答えた。
彼等は、インサーフローのかつての専属バンドの3人の若い頃の姿をした、妖精だ。
インファは彼等の「オレ達以外での演奏で歌わないでくれ」という言葉に従い、彼等の演奏する上で必要な意識と記憶、そして恐ろしく高かった演奏技術をコピーした。「作り物ですが、オレ達はあなた方と共に、永遠に歌いますよ」とインファはこれで納得してくれないかと、彼等に言った。
グロウタースの民は、やがて老いて死ぬ。永遠である精霊はそれを見送るしかない。
歌う緑の魚大陸での事案が解決した後も、請われるままに、専属バンドメンバーの1人が老いて引退するまで、インファとインジュはインサーフローであり続けた。
彼等は、インサーフローの音楽が、自分達の老いと死で、失われてしまうことを寂しがった。そして、おまえ達の音楽を奏で続ける為だけに、精霊にしてくれとまで言ってきた。命の生き様を見守る風の精霊であるインファが、彼等の頼みを聞き入れるわけにはいかず、苦肉の策だった。生涯をかけて、インサーフローの音楽を奏で続けてくれた彼等の願いを、インファも叶えてやりたかったが、できようはずもなかった。精霊という不老不死の、永遠という時間はグロウタースの民には呪いでしかない。愛する彼等に、一時の感情で、呪いをかけるわけにはいかなかったのだ。
彼等は、インファの優しさを汲んでくれ、コピーを残して、見送られることを選んでくれた。
「さあ、今日も世界を喜びの音で、満たしてやりましょう!」
インジュは、仕事だから仕方ない!と嬉しそうにしながら、慣れた手つきでマイクを握った。そして歌い出す。突き抜けるような高音で、聞く者の心を空のずっと高みへ、一気に連れ去りながら。
風の王の補佐官・ノインの暴走から、半年。
彼は未だ目覚めなかった。音楽夫妻によれば、音の力が、ノインの心に、楔のように突き刺さっていて、それを無力化しなければ心が戻らないらしい。
具体的にどうすればいいのか、音という力が未知のモノで、彼等にもまだ為す術はなかった。が、音という力がどういうものか、歌の精霊・エーリュはノインと一緒に調べていた。
その研究書を紐解いたインファが、1つの性質を見つけた。
それは、音という力が、感情によって形を得る力だということだった。ノインの心に突き刺さっている音の力は、色で言えば深い青色で、その色は哀しみを表していた。ならば、反属性の法則が効くのではないか。
哀しみの反対は喜び。喜びの色に溢れた歌を歌うのは、インサーフローのインジュだった。
それを知ってインジュは、ノインの為に、インファを巻き込んで再び歌うことを決意した。決して嫌で離れていたわけではなかったインジュは、請われて歌えることにを喜んだ。
旋律の精霊・ラスが声に音の力を乗せる術を、風一家の1人で、魔導に精通した、時の魔道書・ゾナと共に1週間で編み出して、インジュはそれをインファと共に特訓した。
音魔法を意識すると通常通りには歌えず、インジュは苦労したが、それも半年経った今や、すんなりできるようになっていた。
ノインの様子を観測し続けるエーリュによると、徐々に、哀しみの音は力を失っているらしい。もうすぐ目を覚ますかも!という嬉しい言葉を励みに、インジュは持ち前のねあかさで、毎日歌い続けていた。
「インジュ、ありがとうございます。オレでは、無駄なのではないかと思ってしまって、ここまで歌ってはこられませんでしたよ」
「何言っちゃってるんですか?兄さん!半年なんてチョロいですよ!ボク達、歌う緑の魚で何十年歌ってきたんです?本当に、いつ用済みになるか、ヒヤヒヤモノでしたよぉ。そのころのプレッシャーに比べたら、どうってことないです。それに、インフロはデュオですよぉ!ピアノの兄さんがいるから、ボクはヴォーカルでいられるんです」
大手を振って歌える今が楽しい!と、インジュは楽しそうだった。その笑顔に、リティルの明るい笑みが重なるようだった。インファの息子である彼にも、リティルの血が流れている。インファは、それを、たまに実感していた。
「それはそうと、お父さん」
それにしても、インジュのこの切り替えの速さは、誰に似たのだろうか。インフロのインジュから煌帝・インジュに瞬時に切り替わった息子を見ながら、インファは思わず苦笑した。
「妖精の大量消失。全部、歌う緑の魚って何なんですかねぇ?また、人間に化けて潜入しちゃいます?」
「後手に回っていますからね、そろそろ犯人の手がかりくらい、掴みたいですね」
半年前、インファがノインの目から隠した事案『妖精大量消失事件』あれから定期的に起こっているが、風から知らせを受けて現地に急行しても、何の痕跡もなく、豊かなあの地はいなくなった妖精達の穴が、すぐに埋まってしまう。大きな不具合を引き起こすには至らず、優先順位を引き揚げられず、人員を割けないでいた。補佐官・ノインのいない穴は、大きいのだった。
「例の、バイオリンの音のことも謎ですし。でも、よかったですねぇ。ボクの歌、それにも効いちゃうみたいで!お父さんとノインを傷つけたあの音、エンド君が相当怒ってます。見つけたらただじゃおかねぇって、怖いです。ボク、エンド君に乗っ取られちゃうかもですよぉ。お父さん、乗っ取られちゃったら、エンド君のことお願いしますね!」
風一家の風の精霊達は、インサーフローの歌の込められたビーズのブレスレットを、着用していた。それだけで、あの音が聞こえたとしても暴走しないはずと、エーリュが一生懸命作ったのだった。
「乗っ取られないでください。エンド君にまであんな真似をされたら、オレは立ち直れません」
それを聞いたインジュは、眉根を潜めた。
「……お父さん、ボクがせっかく言わないでおいたのに、レジーナに聞きに行くとかどうなんです?ボクを裸に剥いた場面なんて見ても、凹むだけでしょうに。一撃必殺なお父さん、どこ行っちゃったんです?もお、ホントにねちっこくて、困っちゃいましたよ」
インジュに真顔で「笑うだけで、無言だったのが救いでしたよ!」と、言われてしまった。
「インジュ……言い方に悪意が溢れていますよ?気になるのは性分です。これは変えられませんが、さすがに見てはいけなかったと後悔しています」
すみませんと、インファは肩を落とした。それを見たインジュは、言い過ぎたと慌てた。
「落ち込まなくていいですよぉ。もしあの時、一撃必殺されてたら、ボクでもヤバかったです。意識奪わないように嬲ってくれたんで、何とか勝てましたし」
あれはもう、殆ど拷問だった。戦略以外すべてが格上のインジュを相手に、あれだけ翻弄する力がある事にも驚きだったが、インファは自分の中に、猟奇的に獲物をいたぶって悦ぶ、残忍な面があるのだと、恐ろしくなった。そして、なぜインジュが笑顔で隠したのかを知った。あんなモノを知られては、父が壊れると、そう案じてくれたのだとわかったのだ。
「でも、リティルの紳士ッぷり!思わず惚れそうでしたぁ。顔色一つ変えずですよぉ?それで、布をこう、バサッて!体隠してくれて、それで、大丈夫か?って。うひゃあー!ボク、女の子だったら惚れてますぅ!」
大げさに身悶えるインジュに、インファは苦笑した。
冗談のように笑うインジュが、話題をすり替えたことを、インファは察した。気を使われているなと、思わずにはいられない。
インファの暴走の後、インジュは、リティルとかなり激しく手合わせしたようだった。それは、インジュが危機感を持つくらい、暴走状態のインファが手強かったからだ。今のところ、暴走した風の精霊を止められるのは、インジュの反属性返ししかない。ノインが思いの外簡単にすんだのは、リティルが意識を引き付けておいてくれたからにすぎない。
ノインとリティルの死闘を――いや、あれは戦いなどではない。一方的な殺戮だった。
リティルのことが自分の命よりも大事なノインが、笑ってリティルをいたぶる姿を目の当たりにして、インファは記憶の精霊の所へ行った。それまでインファは、インジュには一瞬で無力化されたと思っていたのだ。普段の息子との力量の差なら、その結末しか考えられなかったからだ。インジュは風の城最強、対するインファは風の城最弱なのだから。だが、そうではなかったかもしれないことに、インファは気がついてしまった。
そして、インファは知った。
オレは、息子を殺しかけた――大事な宝を、この爪で、引き裂いたのだと、インファは自分が信じられなくなった。心の底から恐怖で震えた。こんな心で、どうやってこれから戦えばいいのか、副官を続けていいのか、わからなくなった。
インジュには、そんなインファの心が、わかっていたのかもしれない。普段は、リティルにしか抱きつかず、ラスにしか戯れ付かないインジュが、ことあるごとに、抱きつくわ戯れ付くわしてきた。それが始まったのは、インファがこっそりレジーナを訪ねた後だった。
半年経った今でも、インジュに上げさせた悲鳴が、不意に蘇る。それでもインファは変わらず、風の城の副官としてここにいる。いられる。
抱きついて、戯れ付いて笑うインジュが”インファ”というこの心を、ここへ繋ぎ止めてくれたから。
――忘れちゃったんです?風の城は、住人殺さなければいいんですよぉ?ボク、生きてますよぉ?お父さんは、変わらず、お父さんです!
そう、言葉にはしないが、インファが「わかりましたから、もうやめてください」と心の底から思うまで、インジュの奇行は続いたのだった。
もう一曲!とインジュに請われるまま、歌い終わった時、不意に扉が開いて、リティルが姿を現した。
「おはよう、美形2人組!」
その言葉にインファは「何ですか?」と苦笑し、インジュは「愛でてもいいですよ!」と笑っていた。おはようございますと2人返すと、リティルはヒュンッと飛んできた。
「なあ――」
「ダメですよぉ」「却下です」
「まだ何も言ってねーよ!」
「どうせ、一人でどっか行くとかですよねぇ?」
「父さん、どこへ行きたいんですか?皆さんの予定調整しますから、軽率なことはしないでください」
雷帝親子に、行動を先読みされたリティルは、反論できなくて苦笑いした。
「歌う緑の魚だよ。影響が出てねーっていってもな、もう見過ごせねーからな。1度調査してーんだよ」
おまえら予定入ってるだろ?とリティルは言った。雷帝親子は顔を見合わせると、お父さんの予定は――インジュは――と短く言葉を交わしたのち、風の王に視線を戻した。
「なら、ラス連れてってくださいよ。元そこの住人なんだから、詳しいですよねぇ?ボク、帰って来るまで大人しくしてますから」
「ノインがいないですからね。インジュとゾナに城を任せて、オレが代わりに飛ぶことにします」
四天王のインジュと頭脳のゾナがいれば、何かあっても城は回せると、副官は煌帝を見た。
「すみませんねぇ。ボクに合わせられるの、ラスとリティルしかいませんから。ラスがいないと、ボク、ホント役立たずですねぇ」
「そんなことありません。と、慰めてほしいんですか?抱きしめて、頭を撫でればいいですか?」
「ひっ!だ、大丈夫です!ボク元気です!」
インジュはバッと飛び退いた。「遠慮はいりませんよ?」とインファはニッコリ微笑んだ。そんなやり取りに笑ったリティルに「半年前と逆だな」と言われた。
「じゃ、武官借りてくな!」
リティルはそう言って、元気に部屋を飛びだしていった。そんなリティルの背中を見送りながら、インジュは呟いた。
「何か、起こっちゃうんじゃないんです?リティル、天災ですよ?お父さん、城にいた方がいいんじゃないですかぁ?」
リティルが思いつきで動くとき、何かを引き寄せると、インジュは心配そうにしていた。
「城にはシェラがいますよ。何かあれば、ゲートで連れ戻してください。ラスなら、冷静に対処してくれますし、何か起こってくれた方が、好都合です」
「風の王は釣り餌です?さすが副官!でも、竿持つの、煌帝でいいんですかぁ?」
「あなたなら、何があっても王を助けられます。あなたの判断に任せますよ、煌帝」
ニッコリ笑ったインファに、インジュは「はい!」と、自信ありげに柔らかい笑みを返した。
妖精。と呼ばれているのは、下級と中級の自我を持たない精霊達だ。
力を循環させるためだけに存在している、心のない力の塊。下級精霊。
中級精霊には2種類あり、人型を保てるが、存在理由は下級と変わらず、姿形も自分固有のモノではない者。そちらは妖精に分類される。
もう1つは、精霊に作られ、自我と名を与えられた者で、その力量が上級に精霊に満たない者。特殊中級とも呼ばれている。セリアは宝石の母の力を得る前は、この特殊中級だった。
大量消失しているのは、力を安定して循環させる、現場担当の精霊達だった。儚い者達とはいえ、生きている。リティルは、半年も手がかりが掴めない現状に、内心苛立っていた。
彼等を巡っては、過去に何度か事件が起きている。自我も、固有の姿も名も持っている、特殊中級、上級以上の精霊のことはどうにかできなくても、妖精ならばと思って手を出す輩がたまにいるのだ。そういう輩は決まって、彼等を生き物とは見ない。非人道的な行いに使われ、彼等はその尊い命を奪われた。
今回、消えている者達も、おそらく生きてはいない。
なのに、調査すらまともにできていなかった。ああ、腹立たしい。リティルの眉間には、深いしわが刻まれていた。
「リティル、調査だけだ」
「わかってるよ」
「リティル!」
「なんだよ?わかってるって、言ってるだろ?」
「……その先に、泉がある。少し休もう」
歌う緑の魚大陸は、緑という言葉が入ってる通り、自然豊かな所だ。大陸の大半が、森で覆われているその姿は、この地に関わっていた50年前と変わらない。
リティルとラスがいるのは、最初に妖精大量消失の起こった、楽音という都に近い森の中だった。
まだ疲れてなんか、と言い募るリティルの腕を引いて、ラスは強引に泉に連れてきた。
「鏡みたいな泉なんだ。早朝は霧が湧くから、霧の泉って呼ばれてる。インジュと来たとき、雰囲気あるって言って、熱唱してたよ。オレにインファのパート歌えって言い出して、本当に困った」
旋律の精霊であるラスは、1度聞いた歌を、寸分違わずコピーできた。そして、その曲を呼び出すこともできた。大ファンだったインサーフローの歌は妥協できなくて、ちょっとした仕草までもコピーしていた。だとしても、憧れのインフロのインジュと歌うなんて、プロでもないのにできなかった。
「何の話だよ?」
「顔」
「はあ?」
「だから、らしくないんだ!リティルは、明るく笑ってるとき最強なんだろ?だったら、そんな顔してちゃダメだ」
鏡みたいな水鏡に、顔を映して見ろと言われていることに、リティルはやっと気がついた。
「はは、笑うと最強って、それ誰に聞いたんだよ?」
懐かしい言葉だった。それをインファに言われたのはいつだったか。懐かしい記憶が、呼び覚まされる。
「インファ。笑顔が消えたら気をつけろって、言われてる。感情をなくせと言ってるわけじゃない。冷静になってほしいだけだ。……ノインが目を覚まさなくて、城のみんなもどこかおかしい。心配なんだ……」
「冷静なヤツがいるって、心強えーな。気使わせて悪かったよ。でも、ラス、みんなおかしいって?オレには普通に見えるぜ?」
「心の音が聞こえるんだ。風の城に来たときは、みんなの音は明るかった。でも、今はその音が陰ってる」
「心の音?」
ラスは頷いた。
「インファ、インジュ。特に音が陰ってるんだ。中でもインジュ。インジュは魂の声が聞こえるって言ってた。だから、城のみんなを癒やそうと必死なんだ。インサーフローが、辛うじてみんなを引き揚げてるよ」
「それ、どうにかできねーのか?」
「それができるのは、リティルだよ。リティルは怖い顔してるけど、心の音は1人だけ明るいんだ。それから、凄く大きくて輝いてるみたいだ。1人の音じゃないのかな?ああ、コーラスって言うのかな?」
「何人いるかわかるか?」
「……3……5人かな?1つの音を中心に、4つの音が重なってる。こんな複雑な音、他にいないよ」
その人数には心当たりがある。ずっと昔に輪廻の輪に乗った彼等が、未だに守ってくれている事実に、心が温かくなった。彼等の絵は、風の城の応接間に飾られている。
「そっか。オレは恵まれてるな……わかったよ、ラス。音の力を使うには歌うんだったよな?オレも最近歌ってなかったぜ」
いきなり歌い出すとは思わなかった。
こんな至近距離で、心の準備もなく風の王の歌を聴いてしまったラスは、思わず足の力が抜けて座り込んでいた。
風の奏でる歌――風の精霊と、風の精霊が特別に教えた者だけが歌える、特別な歌。歌う者によって、聴く者の心にもたらす恩恵の変わる、力ある歌。
王の歌声に惹かれ、妖精達が集まってきた。
音が力を持ち、それを操れる魔導士がグロウタースに現れ始めたが、風の管轄にある音という力を、使いこなせる精霊は未だいなかった。
――これ、使いこなしてるって、言わないか?
ラスは、優しく寄り添いながら、ほら、元気出せよ!と言われているような、その歌声に、圧倒されていた。
そう言えば、城の住人が、リティルは魔法に苦手意識があるが、実際は天才だと言っていたことを思い出した。
これが、オレの仕えてる王なんだ……と、ラスは身が引き締まる思いだった。
ラスも、使えないわけではない。これでも、旋律を司る精霊だ。その使い方が、リティルやインサーフローと違うだけだ。
この半年、ラスはエーリュの代わりに音を研究していた。そして、音の力を使って、妖精と会話できるかもしれないことを知った。まだ、会話は成り立たないが、何となく言っていることがわかるときがでてきた。
ちょうどよく、リティルが妖精達を集めてくれた。ラスは、彼等の声に耳を傾けてみた。
精霊か、高位な魔導士でもなければ見ることのできない、妖精達。
彼等は王の歌を喜んでいた。自然を構成する、基本的な元素である4つの力と、光と闇を加えた6つの力の妖精達が集まっていたが、属性を越えて、妖精達はリティルの周りを踊っていた。楽しそうに半透明な体を回転させて、片手の平に収まるくらいの幼女達、形のないただ丸い力の塊が踊る様は、お伽噺に出てくる楽園の風景のようだった。
もっと歌って?歌をねだっているのか。と、ラスは歌いながら、寄ってくる妖精達に手を伸ばしてやるリティルを見ていた。
リティルは、大変だな……とラスは唐突にそう思った。
皆に支えられているが、リティルは1人で風一家を守っている。酷なことを言ってしまったなと、ラスは少し後悔していた。親友で相棒のインジュを案ずるあまり、王に甘えてしまった。彼も、補佐官を傷つけられ失って、哀しく怒りがあるのに、それを押し殺して冷静でいろ!笑ってろ!と言ってしまった。王はこの半年、皆の心の音を守ってきたのに。
出会った時、リティルは導き手で、ラスは精霊というリティルを守れる力を手に入れたのに、未だに心が庇護下にあることを思い知った。
風が吹いた。この歌声の中、その風は、純粋な殺意を乗せてきた。
ラスはハッとして、妖精達を蹴散らしてしまうことにも配慮できずに、リティルに飛びついていた。
「うわ!へ?どうしたんだよ?ラス」
戯れてくる妖精達の姿に、楽しそうに歌っていたリティルは、急に両腕を前から掴んできたラスに、当然の様に驚いた。
「リティル!何かが来る!」
ラスの警告に、リティルの瞳が一瞬で鋭くなった。
どこだと探すまでもなかった。妖精達が逃げ惑う。
リティルとラスの瞳に飛び込んできたのは、靄のような揺らめく黒を纏った、大犬だった。
大犬は、よだれを滴らせ、逃げ遅れた妖精達を食い始めた。
あれは――なんだ?ラスは、自分よりも格段に強いリティルを背に庇いながら、大犬を見つめていた。あれからは、複数の命を感じた。そして、それを繋ぎ止めるかのような音の力も。危険だと思った。あれから早く逃げた方がいいと、ラスの本能が警告していた。
庇ったリティルが、剣を抜くのを感じた。
「リティル!ダメだ!」
ラスは振り向くと、リティルの両腕を掴んで押し止めた。
「あいつが犯人で確定だろ!魂の存在を感じねー。あれは、誰かが作ったんだ!壊してやる!壊して作ったヤツ、あぶり出してやるぜ!」
リティルは地を蹴って、ラスの手から逃れていた。そんな単純な存在じゃない!叫べなかった。ラスは咄嗟に、自身の周りに、6つのそれぞれ異なる力を内包したオーブを出現させた。そのオーブの1つ、緑の葉の舞うオーブに触れると、ドッと中から蔓が飛びだして、大犬に襲いかかったリティルを絡め取った。
「シェラ!ゲートを!」
ラスの叫びに、彼の背後の空間が歪み、ゲートが出現した。
「ラス!」
リティルの抗議の声が聞こえたが、無視した。蔓を操って、リティルを引き戻すと、大犬はリティルを追ってきた。妖精よりも美味しそうだとでも思ったのかもしれない。
させない!と、ラスは蔓をゲートに向かわせながら、太陽のような光の灯ったオーブに触れた。まばゆい光が辺りを照らした。犬の気配が立ち止まるのを感じる。オレも退かなければと、踵を返そうとすると、目くらましの光が去ったそこ、犬の鼻先が目の前にあった。
ハッとして身構えると、背後から知った気配に抱きすくめられた。背後から突き出された手が、犬の顔を突き飛ばしていた。
次の瞬間、ラスは後ろに引かれる浮遊感を味わい、気がつくと風の城の応接間にいた。
心臓が躍っていた。あれに、喰われるかと思った。
あれは……あれは何だ?本能から来る恐怖が、未だ心を支配していて、動悸が止まず息苦しい。助かったというのに、安堵からなのか体の震えも止まらなかった。
こんな風に、怯えたことなど、彼方の記憶にも新しい記憶にもない。
あれは、何なんだ?あれとリティルが交戦していたら、どうなっていたのか……それを思うと、もう恐怖が止まなかった。
「ああ、間一髪でしたねぇ」
ほぼ耳元でした声に我に返り、ラスは、未だに誰かの腕に、後ろから抱きしめられている事に気がついた。
「う、わあ!イ、インジュ……!」
機敏にインジュの腕から逃れたラスは、座り込んでいたインジュと向かい合うように、尻餅をついた。
「あれぇ?ときめいちゃいましたぁ?嫌ですよぉ、ラス。ボクですよぉ?」
「わ、わかってる!で、でも、うわぁ……!」
まだ心臓が高鳴っていた。これは、犬に食われそうだったからか、インジュに抱きしめられたからなのか、わからなかった。
心底嫌そうに見えてしまったのか、インジュはわざと女性的な仕草で拗ねたように「平気な癖にぃ」とからかうように笑った。
ああ、また無理してる……と、インジュの心の音が陰るのを感じたが、ラスにはどうすることもできなかった。
女性と見まごう美形のインジュだが、中身は完全に男だ。漢と言ってもいい。女性的な仕草は、男性恐怖症のあるラスのために、誤魔化すために演じてくれているだけだということを、ラスは知っていた。
「ラス、リティルのことありがとう。怪我はないかしら?」
そっとシェラが寄ってきてくれた。王妃に腕に触れられ、動悸が治まっていった。
彼女の癒やしは凄いなと思う。インファが暴走して、ノインが眠りに囚われてしまい、相棒のインジュが忙しくなったこともあり、ラスと妻のエーリュは風の城に滞在を余儀なくされた。ラスとエーリュを除いて、男性の人数が14人中9人と圧倒的に多いこの城で、ラスもかなり克服できてきたとはいえ、暴走しないのはシェラのおかげだった。彼女がそばにいてくれると、それだけで、まだまだ苦手なゾナと、城の地下にいて滅多に会うことはないが、無常の風・ファウジとも普通の距離で会話ができる。他の者に不意に触れられても、耐えることができるのだった。彼女はそれを知っているのかもしれない。何も言わずに、そばにいてくれた。
「はい。あ!リティルは?」
普段なら、真っ先に飛んできてくれるリティルがいない?守れたつもりだったが、犬に触れてしまったのだろうか。何か、深刻な事態に?と思考が悪い方へ向かって行った時だった。インジュが包み隠さず言い放った。
「ラスにしては荒っぽかったですねぇ。ぶっ飛ばされて、受け身も取れずに床にドンッ!でしたよ」
見事にワンバウンドだったと、インジュは、首を竦めた。
「えっ!リティル!」
犬から早く引き離さなければと、蔓を引きながら光魔法を使った為に、蔓の操作がおろそかになってしまった。ラスは見ていて面白いくらいに、真っ青になった。
「大丈夫。あの人には、あれくらいの方がいいわ。少し脳しんとうを起こして、ソファーで寝ているわ」
シェラが視線をソファーに向けた。ラスは、蹌踉めきながらも慌てて、背もたれで見えない王の下へ走ったのだった。
ソファーに寝かされているリティルを覗き込んで、でも起こすわけにはいかずにオロオロしているラスの後ろ姿を見ながら、インジュは険しい瞳で俯いた。
「インジュ、大丈夫?」
シェラは診察するかのような探るような手つきで、インジュの腕に触れてきた。
体にも霊力にも異常は感じていないのだが、インジュは何となく立てなくて、座り込んだままだった。
「はい。今のところは。でも、ちょっと迷惑かけるかもです」
「具体的にはどんなことかしら?」
「あの犬に、ロックオンされたかもです。壊してやるつもりだったのに、あの犬、反属性返しが効きませんでした。リティルにラスをつけて、正解でしたねぇ。あの人、男性恐怖症のせいで、警戒心半端ないんです。撤退一択だって、瞬間決めてくれて助かりました。あのままだったらリティル、喰われてたかもです」
そう……と、シェラは安堵するように、恐怖するように息を吐いた。
「あれは何かしら?」
「うーん、お父さんの意見が聞きたいです。その前に、ゾナ!これ、分析できません?」
暖炉のそばの肘掛け椅子に、お伽噺の魔女のような出で立ちの、青年というには年が少し行った男がいた。時の魔道書・ゾナだ。彼は魔道書が本体という、特異な精霊だ。本体の魔道書には、時の魔法の他に、魔道書の筆者の得意としていた魔導が記されていて、時以外の力を操ることができる。研究者気質で、本の虫。風の城の知識の宝庫だ。
ラスの手前、近寄れなかったのだろう。声をかけられたゾナは、やっと席を立ち、座り込んだままのインジュのそばに来てくれた。「立てないようだが、大丈夫かね?」と気遣ってくれるゾナが、インジュは好きだなぁと思わず思って「腰抜けてます」と冗談めかして笑った。
インジュが、握っていたモノをゾナに手渡すと、知的に整ったコバルトブルーの瞳が、一瞬潜められた。ゾナの手の中には、封をされた短い試験管があった。その中には、何やら黒い靄のようなモノが入っていた。
「犬に触ったとき、毟ってやりました」
「では、これは、その犬の一部ということかね?」
「はい。何なのかわかります?」
「生命になる前の混沌。これからは、ドゥガリーヤの力を感じるよ」
「源の力ということ?わたしやインジュの扱う力と同じ?けれどもこれは、とても禍々しいわ」
恐る恐るシェラが、ゾナの持っている試験管を見つめた。
「穢れているようだね。この穢れが、何によるモノなのかは、もう少し調べが必要だがね」
「血の穢れじゃないんです?リティルが、妖精の大量消失の原因だって、言ってましたよね?」
応接間に待機していたインジュ達は、リティルの歌声に気がつき、その歌が自分達に向いていることを感じて、水晶球でリティルのライブを見ていたのだった。その後、犬が出現してほぼすぐに、ラスからゲートの要請があった。インジュがラスを助けられたのは、水晶球で状況が見えていたからだった。
「命を奪っているのはわたしも同じよ。けれども、わたしが使う力は透明だわ」
「それは、リティルが浄化してるからじゃないんです?風だって弱いですけど、浄化能力ありますから。だってシェラ、霊力の交換、しょっちゅうしてますよねぇ?」
インジュにそう言われ、シェラはサッと顔を赤らめた。え?まだ照れるんです?と、インジュは不意打ちの可愛い反応に、ドキッとしてしまった。
ちなみに霊力の交換とは、婚姻を結んだ精霊が行える、特別な魔法なのだった。
「そ、そうなのかしら?リティルが起きたら、聞いてみるわ」
この手の話題は、シェラに振っちゃダメだなと、インジュは何百年も夫婦をやっているのに、初心な反応の可憐な美姫に、なんだかドキドキしてしまった。こんな反応するくせに、いつも人前でイチャイチャしてるのに!と強く念じて、動悸を誤魔化した。
インジュは、過去に2人の女性と付き合ったことがあったが、清い関係だった。その後は浮いた話は皆無で、妃もいない。誰にも心が動かなくなって久しいのに、こんな心にも波風立てるなんて、花の姫……侮れない!とインジュは、2人も子供がいるのに清浄な魅力の風の王妃を、マジマジと観察してしまった。
「ゾナ、それの解析お願いしますね。ボク、お父さんに連絡とってみます。ちょっと、気が引けるんですけどねぇ」
インファの今日のパートナーはセリアだ。「早く帰ってこなくていいですからねー」と言って送り出したのに「デートですね!」と母をからかったのに、邪魔することになるなんてー!と、インジュはなんだか悔しかった。
そんな、インジュが大いに気乗りしていない時だった。
「インファ?……うん、え?わかった。シェラ!インファがゲートを開いてほしいと言ってるんだけど」
え?お父さん?水晶球で連絡を受けたらしいラスが、こちらに声をかけてくるのを聞いて、インジュは驚いた。あの人、どっかで見てたのか?と思えるほどのタイミングの良さだった。頷いたシェラは、インファに座標指定してサッとゲートを開いた。
インジュ達は、ゲートを越えて帰ってきた雷帝夫妻の姿を見たのだった。
――ああ、お父さん……
そんな、心身に負担かけるようなこと、した覚えないのに。インジュの意識は、意図せず暗転していた。
インファは、半分冗談のつもりだった。
さすがのリティルでも、そんなに都合良く、手がかりに遭遇するとは思っていなかった。とは思ったが、インジュが不安がっていた。過保護にはできないと、突き放す方を選んだが、インファはゾナと通じていた。有事の際は、ゾナの視界を共有できるようにしていたのだった。
そうしてインファは、営業用の笑顔――インフロスマイルのインジュを置いて、狩りに出たのだった。
期待などしていなかった。だが、風の王という釣り餌は、手がかりではなく、本命を釣り上げてしまった。そしてラスとインジュは、糸を切り本命を逃がす方を選んだ。
ラスは本当に優秀だなと思った。故意に逃がした獲物を、追ってしまいそうなリティルの意識を一撃で奪い、退却だけを選択した。
そして、インジュも、ただラスに糸を切らせただけではなかった。
相手の組織片を奪い取るなんて、オレ達には考えつかない戦い方だなと、インファは思った。そして息子は、すんなり父親を頼る素振りを見せた。では、帰るかと、インファの実況を聞いていたセリアと共に帰還すると、インジュは昏倒してしまった。
相棒の名を叫んで、ラスがインジュに駆け寄った。そこへ、インファとセリアも駆けつけた。
「ラス、どうですか?」
「体や霊力の事はよくわからないけど、心の音がかなり陰ってる。あの犬に触ったとき、力を奪われたのかもしれない。リティルも起きないし……インファ、どうしよう?」
ラスは、リティルの意識を奪ってしまったことを、気に病んでいるようだった。インファは、落ち着きなさいと彼の肩を叩いた。
「あなた方が、精霊として力を司るようになったことで、心労が可視化できるようになっただけです。少し休めば回復しますよ。インジュのこの無意識の癒やしを、そろそろ何とかしなければなりませんね。彼は、この城の皆の心を守り癒やす盾ですからね。その癒やしを、常に垂れ流しているので、皆が疲れている今、いつもより力を使ってしまっているんです」
「心労なら、オレも癒やせるらしいぜ?」
声に皆は一斉に顔を上げた。そこには、声の主――リティルが立っていた。
「あらリティル、早い目覚めね?」
「はは、そんなに怒るなよ!ラス、助かったぜ?ありがとな!」
そばに寄ってきたリティルに、ラスは立ち上がると深々と頭を下げた。
「風の王!申し訳――」
「かしこまるなよ!オレ達は、結果良ければすべてよしなんだよ。それにオレは、暴走気質なんだ。……とりあえず歌うよ。シェラ、みんなに紅茶淹れてやってくれよ。君の紅茶も癒やしだからな!」
夫の頼みにシェラは、花が綻ぶような笑みを浮かべて頷いた。それを見ていた皆の心の音が明るくなるのを感じて、風の王妃も凄い癒やしだなと、ラスは思った。
微睡む意識の底に、降るような歌が聞こえる。
さっき聞いたばかりだが、リティルの歌を、最近聞いていなかったなと、インジュは思った。以前は、遠慮なく歌ってとねだっていたが、最近はそんなことも忘れてしまっていた。
四天王――任命されたわけではない。皆がそう、認識してしまっただけだ。精霊としては、劣等感しかないインジュは、唯一自信のある歌うことも忘れてしまった。
ノインの為に歌うことになって、いくらか気分は晴れたが、補佐官の不在は容赦なくインジュの肩にのしかかった。
殺戮の衝動を暴走させられた父を――インファを守りたくて、鬱陶しがられるのを承知でベタベタしたが、それは、真面目故に傷心な父のためではなかったのかもしれない。インジュ自身が、不安だったからだ。掴んでいないと、この手をすり抜けてしまいそうな不安を、ノインの不在はインジュに植え付けていた。揺るがない精神の風の騎士。彼はいるだけで、皆に安心を与えていた。涼やかに動じないノインを、インジュは精神的支えにしていたのだ。それに、今更気がついてしまった。
ああ、リティルの声が心地いい。野性味を帯びた、漲る若さの明るい声。
そんな声なのに、優しく歌うと、心に染みこんで和んでしまう。狡いなー上手くてと、インジュはなんだか頬に温かくて、でももう少し柔らかい方がいいなと、思いながらぬくもりにすり寄った。
「くすぐったいですよ、起きていますか?インジュ」
――え?真上から降ってきた声に、インジュは心地いいまどろみから、強制的に連れ出されていた。
「ひっ!お、お父さん?何してるんですかー!あ、ちょっと!押さえつけないでください!あああもお!何なんですかー!」
インジュはインファに、膝枕されていることに気がついて、大いに慌てた。こんなこと、インファのキャラではない。インジュもそれを恥じらう心くらいある。だのに、逃げようとしたインジュをインファは押さえつけた。
「生と魔の変換を応用して、あなたの心の音に力を送っています。オレにしかできませんから、もう少し大人しくしていてください」
「ひ、膝枕以外に方法ないんですかー!」
「そうですね……心臓の辺りに手を置く、というのも有効ではありますよ?」
「どうしてそっちにしなかったんですかー!明らかにミスチョイスですよ!」
しかも、ここ応接間だし!とインジュは恥ずかしさで半泣きだった。
「あなたは弱ると、何かに抱きつく癖がありますから、とりあえずオレで我慢してください」
リティルは歌っているからと、インファは言った。そんな癖、あったかな?と合点がいかなかった。確かに、リティルにはよく抱きついているけど……と思いながら、インファが心配してくれたんだなと思うと、ただ嬉しいだけで、手を振り払う気も失せた。仕方なく大人しくすると、インファの温かい手が肩に置かれた。リティルの歌は、まだ続いていた。
「お父さん、顛末聞きました?」
「ええ、大体は。1人で抱えてはいけませんよ?オレ達四天王は5人で1つです。オレ達に余裕がなければ、風の城は崩壊してしまいますから」
「それ、お父さんが言います?リティルも、ノインもですよね?ボクは1番我が儘です」
「自覚しているのならば、個性を大事にしてください。誰も欠けずに、永遠を生きる。それが風の城です。その為に、信念ある命を狩るとしても、オレ達は生きます」
インファの指が、インジュの顔にかかったキラキラ輝く金色の髪に触れる。
インジュは、幼い頃もインファにあまり触れてもらったことがなかった。副官である父は忙しくて、臆病で引っ込み思案だったインジュは上手く近づけず、インファも父親というモノに不向きで、2人はすれ違った。もうとっくに和解して、インジュにとってインファは、頼りになる副官で、大好きな父親で、インサーフローのピアノの方だ。
父が怖かった記憶など、何百年も前の話だ。23才という精霊的年齢では、父親に今更甘えることなどできない。なのに、父に、気高く強い父に、今助けてほしかった。幼い子供に戻って、怖いモノから守るように抱きしめてほしくなってしまった。
「お父さん……怖いです……怖いです!」
もう、押さえられなかった。インジュは体を起こすと、インファに抱きついて泣いた。人目をはばからずに泣くなんて、200年くらいなかったと思う。
「大丈夫ですよ。あなたを、1人戦わせたりしません。大丈夫です。インジュ……」
そう、耳元で囁く父の優しい声に、インジュはよけいに泣いた。
この、頭を撫でてくれる手を、守れて良かった。ボクよりも格段に弱いのに、この人の手はボクを守ってくれる。インジュは、やっと安堵した。
あの犬に触れたとき、身の危険を感じた。
あれはダメだ!そう思った。咄嗟に抱きついて引き戻したラスも、同じ事を思って、ラスほどの精霊が恐怖に震えていた。それを、彼の魂の声が教えてくれた。
あれに、固執されたかもしれない。ボクがあれに触れてしまったばっかりに。城の皆があれに襲われたら?恐ろしかった。恐ろしくてたまらない。皆を危険に晒さないために、1人城を出なければならないかもしれない。そんなことが頭をよぎってしまって、インファから離れられなくなった。
怖い……1人は嫌だ!
「インジュ、何が来ても、オレが負けさせません。相棒もやっとお目覚めのようです。戦いますよ?オレ達のやり方で」
不意に歌が止んだ。インジュが顔を上げると、髪の長いままのノインに、腕を掴まれているリティルが目に入った。
リティルは、背にした扉の向こうから、怒りの気配が近づいてくることを感じていた。
――やっとお目覚めかよ?待ちくたびれたぜ。けど、どうしてあいつ、あんなに怒ってるんだ?
扉は、思いの外ゆっくりと開いた。入ってきた気配は、ビュンッと飛んでくると、ひったくるようにリティルの両腕を掴んでいた。
「リティル……!何だあれは……あれは何の真似だと聞いている!」
「へ?お、おい、落ち着けよノイン。何のことだよ?」
「とぼけるな……おまえなら、オレを殺さず無力化できたはずだ!それを……自虐が過ぎる!」
自虐?自虐……何だっけ?とリティルは、久々に補佐官に会って、もう何百年か向けられたことのない怒りを向けられて、本気で戸惑っていた。
「………………ああ」
ややあって思い至ったリティルに、ノインは更に怒りを募らせて、その切れ長の瞳で容赦なく睨んできた。
「リティル!オレは真面目な話をしている!」
「落ち着けよ、ノイン。おまえ、今がいつかわかってるか?おまえ、半年寝てたんだぜ?」
「………………半年?」
ノインは、その年月を理解することに時間を要した。跡がつくくらい掴んでいた両手が、やっと離れた。
「そうだぜ?半年だぜ?あとなぁ、おまえを殺さず無力化って言われてもなぁ。すっげー攻撃力で、すっげー硬かったぜ?おまえも承知の上じゃなかったのかよ?とりあえず、大地の領域は守ったんだ。偉いだろ?」
リティルは、腰に両手を置くと胸を反らした。「褒めてもいいんだぜ?」と笑ってみた。
「褒めるか!バカ者!」
「つれねーなぁ。結構痛かったんだぜ?」
リティルは「あんなにボコられたの、久しぶりだぜ?」と意地悪に笑った。
「リティル……もう2度と、あんな真似はするな。おまえの身を優先しろ」
「へいへい。今度は風の城に強制連行して、思う存分ボコるから安心しろよな!」
明るく笑うリティルを見て、ノインはやっと安堵したのだった。
ノインが意識を取り戻したとき、目の前にいたリティルは激しい攻撃の中にいた。為す術なく体を貫かれながら耐えるリティルに、攻撃をしているのがオレなのだと悟ったとき、ノインは心臓が止まりそうになった。なのに、体が言うことを聞かなかった。
悪夢だった。地獄でしかなかった。リティルの必死に叫んでくれた言葉だけが、ノインを辛うじてこの世に繋ぎ止めた。
「ああ、そうしろ」
リティルは笑いながら頷くと「おかえり、ノイン!」と言ってくれた。
「……ところで、インジュはどうした?」
インファに抱きついて、泣きながらこちらを窺っているインジュに気がついて、ノインは首を傾げた。彼が抱きつくのは、リティルにだけでは?とその瞳が言っていた。しかも、あんなに泣いて、久々に彼の精神状態が心配だった。
「ああ、お父さん充電中だ。さて、作戦会議始めるぜ!」
説明してやるから来いよ!と現状に置いてけぼりのノインを促して、リティルはソファーまで来たのだった。
一通りの説明を受け、現状を理解したノインは、険しい顔だった。そんなノインを、ラスがジッと見つめていた。
「ラス、体質、だいぶ克服したようだな」
ノインに涼やかに微笑まれて、ラスは慌てて視線をそらした。
「ご、ごめん!本当に、インファに似てるんだと思って」
「ノインの方が、いい男だと思いますよ?オレの方が年下ですからね。色々勝てなくて、腹立たしいですね」
「下だ上だと関係あるのか?明日には髪を切って、仮面も新調する。今はこのままで許せ」
紛らわしいだろう?と言われたが、纏う雰囲気がこうも違えば、間違えようがないのでは?とラスは思った。
「髪を切ってしまって、姿を偽ることにならないのか?精霊は姿を偽ると、霊力が下がる」
「おまえの知っているオレが、オレの姿だ。この姿は、前世のオレだ。ノインではない。殺戮の衝動は、どうやらこの姿だったようだが。混乱させたのならすまない」
ラスは慌てて首を横に振った。
「もう、ちょっと疲れちゃいましたけど、ノインが戻ってくれて良かったですぅ」
どうやら立ち直ったらしいインジュの安堵した声を聞き、ノインはキッと鋭い瞳を彼に向けた。
「インジュ……情緒不安定になる前に、リティルに抱きついておけ!」
引き合いに出されたリティルは、お鉢が回ってくると思っていなかったようで、驚いた。
「はあ?オレか?オレでいいのかよ?」
「おまえの固有魔法・無償の愛なら、インジュの禊の癒やしを補佐できるだろう?」
「無償の?愛って何だよ?」「禊の癒やしって何です?」
隣のリティルと、向かいのインジュに同時に詰め寄られ、ノインは思わず顎を引いた。
「……おまえ達、まさか無自覚なのか?」
「この人達、自分のことには無頓着ですからね」
リティルの隣に座っていたインファは、リティルの向こうに座っているノインに、困った笑みを向けた。
「父さんは……オレが教えるまでもないですから、いいですね。問題はインジュですかね?」
「ああ、インファに抱きつく精神状態は、あまりよくはない」
「オレはいいのかよ!」というリティルの声は「知っても知らなくても、おまえは大して変わらない」と、ノインに一蹴されてしまった。
「禊の癒やしとは、オレ達が命を奪うことで受ける、血の呪いを浄化してくれる力だ。おまえが浄化してくれるおかげで、オレ達は戦い続けることができる。シェラ、君も持っているだろう?」
「ええ。インジュほど強力ではないけれど。禊の癒やしは、元々風の王を守るための魔法なの。花の姫も、原初の風も、風の王の為にあるのだから」
1人席にいたシェラが、ノインに答えた。
「シェラ、自分を物みてーに言うなよな!あのな、生き物は、命を失うことにものすげー抵抗があるものだろ?自分を殺す相手に対しては、恨みを抱いて当然なんだよ。だけど、風は命を狩る。世界を守るって、大義名分のためにな。けど、そんな物はオレ達を、恨みや憎しみ、呪いなんかからは守ってくれねーんだ。インジュとシェラは、一家が受けるそれを慰めて、消してくれてるんだよ。昔はオレが、血の呪いを一手に引き受けてたんだ。それを、誰かが、一家に及ぶようにしちまったんだ。だからなインジュ、おまえはこの城の最強の盾なんだよ。頼って悪いけどな、おまえがいねーと困るんだよ」
「えっ!ボクって、そんな重要な精霊なんです?」
「あなたは、長らく不安定でしたからね。教えられなかったんですよ。今はラスとエーリュがいますし、自信もついたでしょう?」
「今、お父さん助けて!って精神状態ですけど」
「ハグしましょうか?」
「ひっ!遠慮します!」
「立ち直っていますよね?あなたの場合は、自覚すればいいんです。自分の力への理解力が高いですからね。オレが導くまでもありません。さて、本題に戻りましょう」
今、未解決の問題は2つだ。
風を狂わせる、バイオリンの音の出所。
妖精を喰らう、源の力を使う犬。
「あのぉ、あの犬、リティル怖くなかったんです?ラスもボクも、生理的嫌悪っていうんです?本能的に怖いっていうかそんな感じでした」
「ん?べつに何も感じなかったぜ?ああ、オレの獲物だなってそれだけだったぜ?じゃあ、あいつはオレがヤルって事でいいか?」
「あのですねぇ、もっと危機感持ってくれません?懐かない猫属性のラスと、どうあっても殺されないボクが、怖いって言ってるんですよぉ?」
「それ、魂の数が尋常じゃねーくらい、多かったからじゃねーか?どれもあいつのじゃなかったけどな」
フンッと嫌悪するようにリティルは腕と足を組んで、ソファーに背を預けた。
「リティル、オレも6つの魂を持つ精霊だ。あれからは、もっと根源的な恐怖を感じたよ」
「捕食者――あなた達は、喰われると思ったのではないですか?父さんは、もとより無謀にできていますから、何も感じなかったとしても不思議はありません」
「ハハハ。まあな。その自覚はあるぜ?なあ、あいつ、どうして妖精達を喰ってたんだ?腹でも減ってたのか?」
「食欲での捕食だったとするならば、風の獲物ではない。精霊を喰らう、新種の生き物だというだけだ。もっとも、降りかかる火の粉は払わねばならないが」
「まあそうなんだけどな、風の王の本能は、あいつを敵だって言ってたぜ?」
「ゾナが、力が穢れてるって言ってましたけど、それと関係あるんです?源の力って、透明ですよねぇ?」
「ええ。源の力は、透明な力とも言われているわね。あれは、真っ黒だったわね」
だから黒い犬に見えたのかと、ラスは思った。だとしたら、あれはもともと目に見えない?そもそも、形がない?逃げることで精一杯で、全く観察できなかったなと、ラスは苦々しく思った。
皆、考え込んで黙ってしまった。その沈黙を破ったのは、リティルだった。
「捕まえるか」
リティルの言った言葉に、ラスは鋭く反応していた。
「え?捕まえるって、あれを?城に入れるのか?オレは嫌だ!」
「いっそ、食べられるっていうのはどうです?」
インジュも怖がっていたのに、食べられるってなんだ?食べられるって!と、ラスは耳を疑った。
「インジュ!何言ってるんだ!」
「ボクなら、食べられても平気です。エンド君がいるんで、しばらく代わってもらえば、相手に精神で潜入、なんて事もできるかもです」
「ダメだ!危険だ!そんなことやめてくれ!あんたに何かあったら、生きていけない!」
「ラス、イヤですよぉ。こんなところで、愛の告白しないでくださいよぉ」
「インジュ!」
「わかってますよ。ボクも、ラスとエーリュの手、放すつもりないです。ただ、もう1度会いたいですねぇ。ボクの存在意義を問われてるみたいで、イラッとするんですよねぇ」
顎を引いて笑ったインジュの瞳が、血に飢えたオウギワシのそれだった。
「調子が戻ったようで、何よりです。こちらは少し保留にしましょう。もう1つの問題、バイオリンの音はどうですか?」
気を取り直して、インファの問いにラスが口を開いた。
「オレには効かないから、何がインファ達に作用したかわからないんだ。ただ、翳りの音だ。暗く沈んでて、あまり聞いていたくない音だった」
「オレが聞いてみましょうか?」
「お父さん!ダメです!」
「聞けば暴走する者が聞かなくては、実験になりません。もう暴走イヌワシの攻撃は、見切っていますよね?目覚めたばかりのノインに、やらせるわけにはいかないでしょう?」
そうですけど……と言い淀むインジュの様子に、仕方ないなとリティルは、苦笑しながら助け船を出してやった。
「はは、インジュの精神状態が悪くなるから、却下な。エンドは何か言ってるか?」
リティルに問われたインジュは、うっと息を飲んだが、観念した様子でポツリと言った。
「……リティルかボクならって……」
「じゃあ、オレだな」
「そうなっちゃいますよねぇ?はあ……だから、言いたくなかったのに……。お父さんとノインは絶対にダメです!エンド君もそう言ってます!」
「リティル、1つ提案があるわ」
リティルがインファとノインを暴走させた音を聞くことで決まったその場に、シェラは冷ややかに硬質な声で口を開いた。
「ん?何だよ?」
危険なことをしようとしているというのに、まったく危機感のない夫の様子が腹立たしい。シェラは、わたしの心配も知らないで!と哀しいやら憎らしいやら心が乱されたが、それを押し殺して、リティルの顔をジッと見据えた。
「翳りの音を聞くのなら、あなたの目の前にわたしを立たせて」
「はあ?そんなの許可するわけねーだろ!何考えてるんだよ!」
そっくりそのまま返したいと、シェラは思った。しかし、誰かがやらなければならない。それならば、オレがと思うのは、シェラが同じ立場だったとしても同じ選択をする。この城の頂点に立つ者として、一家を守ることは最低限の義務だからだ。
「ならば、暴走しないで耐えて。耐えられないなら、行う意味はないわ。そうでしょう?うちの副官と補佐官が暴走して、2人とも何も得ていないのよ?2人が、何も得ていないの。それがどういうことか、わかるわよね?」
「……そりゃ……転んでもただじゃ起きねー、オレの優秀な鳥がそろって為す術ねーのに、オレが何か掴めるわけねーってことだろ?わかったよ。君のために耐えてやるぜ」
「信じているわ。わたしの風の王」
シェラはおそらく怒っている。わかればいいのよとツンッとすまして、紅茶を飲んだその姿にリティルはそれを感じた。
そんな冷ややかな王妃に苦笑しつつ、リティルは努めて明るく言った。
「ラス、頼むな!よし、じゃあ早速行くか!」
「もお……少しは躊躇いましょうよぉ!シェラ、ボク、とりあえず部屋に入らないんで、死なないでくださいよ?」
「リティル次第よ」
ツンッと視線をそらして、シェラはモルフォ蝶の羽根を広げると、先に行ってしまった。リティルは王妃の名を呼びながら、彼女を追っていった。
「……もう少し、ノンビリしてから行きますか」
そう言ってインジュは、立ち上がろうとしたラスの腕を掴んだ。腕を引かれて、ソファーに再び腰を下ろすしかなかったラスは、インジュの言葉に驚いていた。
「え?待たせていいのか?」
「いいんですよぉ。風の王夫妻のキスシーン、見たいなら止めませんけど。あの2人のラブラブっぷりは、イシュラース1ですからね。お父さん、この後仕事です?」
「いいえ。今日はもう城にいますよ。どうしました?」
「リティルの遊びが終わったら、ボクと飛んでくれません?」
「かまいませんが、どこへ行くんですか?」
「秘密のデートしてください。危険はないです。デートですから」
インジュは、本当に可愛い笑顔を浮かべるなと、ラスは改めて思った。だが、これは本当の笑顔ではない。インフロスマイルだ。
笑顔ですべてを覆い隠した息子に「そうですか」と、インファはニッコリ微笑んだ。
この親子、無駄に美形だなと、ラスは今更だが思わずにはいられなかった。
そろそろ行こうと促され、ラスは言われるがままソファーを立ったが、相棒が何を考えているのかわからず、それを教えてもらえない様子に、不安を感じていた。
リティルは、鼻先で扉を閉められるなどの妨害を受けながらも、シェラに追いつき、彼女の承諾なしに後ろから攫い上げていた。
「リティル!」
背後から抱え上げられたシェラは、抗議の声を上げたが、逃げる気はないようでリティルの腕の中に収まったままでいてくれた。たぶん、リティルが、そういう行動に出ることをわかっていたのだろう。
「逃げられねーように捕まえねーと、話してもくれねーだろ?なあ、怒るなよ!」
「怒るわ。危険がわかっているのだから。それを、わたしは止められないの。怒るくらい許して」
「はは、エンドが、オレかインジュならいいって、言ったんだぜ?あいつは、オレに絶対服従なんだろ?大丈夫だ」
「……暴走しないで……」
「心配するなよ。君を絶対に傷つけねーからな!」
風を使って、修練の間の扉を開いたリティルは、中に入ってからシェラを下ろした。
シェラはリティルの首に回した腕を解かないまま、シェラより背の低いその顔をグイッと引き寄せると、自ら夫の唇に唇を重ねた。そんな王妃に応えながら、リティルは抱きしめ返した。
「――リティル、何が起きているの?」
顔を離し、首に回していた腕をリティルの背に回し直したシェラは、不安そうに答えの出ない問いをしていた。
「代償だな。これは、オレが始めちまった戦いだ」
「どういうこと?」
「オレの我が儘で、ラスとエーリュを精霊にしたからだよ。新しい力の司っていう存在理由を用意してな。もともと、歌には力があった。風の奏でる歌が、それを証明してた。けど、それを司る精霊が産まれたことで、今まで風だけが使えたその特別な力は、風だけのモノじゃなくなっちまったんだ。オレ達は、風の奏でる歌を、悪用した事なんかねーよ。でも、多くの心ある者が使うとなると、話は違う。心には、いろんな形がある。世界は無防備なまま、無意識の悪意に晒されたんだ。ラスが言ってた翳りの音が、それだ。使ってる者はその意識がねーんだと思うぜ?狂わされたのは、インファとノインだけで、それ以上仕掛けてくる気配がねーからな」
リティルは、シェラをギュッと抱きしめた。
「音楽夫妻が司として認められるのか、これは試練だ。制御できなかったら、あいつらは存在を失って、歌は力を失う。世界は何事もなかったかのように、歌を得る前に戻るんだ。負けられねーんだよ。勝たなけりゃならねーんだ」
「どうなれば、勝ったことになるの?制御とはどういう状態なの?」
「今、歌は無意識に、傷つけたり、癒やしたりしてるんだ。それを、意志がねーと使えねーようにするんだよ。グロウタースの民が魔法を使うには、呪文がいるだろ?呪文がねーと、力は発言しない。そういう状態にするんだよ。産まれた力を手懐けるんだ。あの黒い犬は、試練の獣なのかもな」
「試練の獣?力は具現化するの?」
「精霊は、肉体より精神の生き物だからな。オレも、インファも、インリーも、それからインジュも殺戮の衝動と1度は戦ってる。歌は未知の力だからな、どんな戦いになるのか、見当もつかねーよ」
シェラから手を放したリティルは、灰色の石を組んで作られた、殺風景な部屋の中心へ向かって行った。そこには、床から生えた円柱の台座の上に、水晶球が乗ったモノがあった。修練の間は、何代か前の風の王が、魔法開発用に作った部屋だ。魔導暴走も見越して、かなり強固な守りの魔法に守られている。リティルの代で、この部屋に傷をつけることができたのは、インファの操る、白い恐ろしく切れ味のいい、風花の剣だけだ。
「オレは、殺戮の衝動から逃げた。あいつらは今でも、オレの敵だ。けど、向き合う方法がなかったんだ。殺戮の衝動を刺激して狂わせる音、か。オレはあいつらに会えるのか?オレの、憎しみと怒りに」
リティルは過去2回暴走している。
2度目の暴走の時、リティルは彼等の声を聞いた。正義という、一見正しいようなことをひけらかし、リティルに憎むままに殺せと囁いた。燃えるような熱さで、笑わない暗い声。
シェラが止めてくれなければ、リティルは憎しみの炎に相手も巻き込んで、自分自身も焼き尽くして消滅していただろう。
「リティル……」
背中から抱きついてきて、腹に回ってきた手に、リティルは手を重ねた。癒やしその者なのに、かつて歴代最弱だったリティルを守るために、死神家業の風の王と共に、シェラは命を奪う方を選択してくれた。救いだったのは、花の姫が、血の呪いにかからない精霊だったということだった。彼女の持つ、無限の癒やしが、彼女自身も浄化していた。本当に、何もしてやれないなと、リティルは与え続けてくれるシェラに頭が上がらない。そして、愛しくて手放せない。
「ハハハ!これでも上手くやってるんだぜ?あいつらは、オレが正しさを貫けるか、いつも見張ってるんだ。オレは、間違えられねーからな」
間違うと、大変なことになるからなと、リティルは笑った。
トントンッと、木の扉を叩く者があった。シェラはサッとリティルから離れた。
ああ、ラスとインジュが来たのかと、リティルが声をかけると、ラスが控えめに入ってきた。後ろにインジュがいたが、部屋の中へは入ってこなかった。
「始めても、いいかな?」
「ああ、いいぜ?インジュ!2人を殺す前に、止めてくれよな!」
「イヤです。暴走しないように、リティルが頑張ってくださいよぉ!」
そう言うとインジュは、扉を外から閉めてしまった。そんなインジュの様子に「あいつ、ズケズケ言うようになったよな?」とシェラに笑った。シェラは、困ったように笑い返して「頼もしくなりすぎたわね」と言った。
リティルは部屋の奥から、扉に向かって水晶球を両手で掴んだ。そんなリティルと向かい合って、シェラは夫の間合いギリギリ外に立った。
「リティル、危ないと思ったら、手を放してくれ。じゃあ、行くよ」
ラスは右手を差し出した。手の平に何か暗い靄の様なモノが入ったオーブが出現した。ラスがそのオーブを水晶球に軽く当てると、暗い靄が水晶球の内部に入り込んだ。
「……ああ、バイオリンの音だな。すげー上手いけど、聞きたくねー音だ。心の奥底を、掻き乱すような不快な音だな。弾きたくないのを、無理矢理弾かされてる?いや、弾くと、誰かの死を思い出すんだ。大事な人――失いたくなかったのに、裏切られたような……シェラ!そこにいるよな?」
瞳を閉じて意識を集中しているリティルが、瞳を開かないまま顔を上げた。これ以上近づけないシェラは、不安げに叫んでいた。
「いるわ。わたしはここにいるわ!」
「ああ、大丈夫だ。すげー不安にさせる音なんだ。ああ、なるほどな。インファとノインが狂わされたのは、守りたいヤツが、いなくなったような気持ちにさせられたんだな。とすると、オレ達の殺戮の衝動を、狙ったってわけじゃなさそうだな」
「リティル、そんな冷静に分析できるのか?影響のないオレでも、エーリュがいないと厳しかったのに」
「はは、これでも頑張ってるんだぜ?目の前にシェラがいなかったら、即ドカンだったな。オレのオオカミとオオタカは、シェラがいると起きねーんだよ」
リティルは「どうしてだか知らねーけど」と、苦笑した。
「オオカミ?」
「ああ、オレ、生まれがちょっと特殊なんだよ。知りたかったら、インファにオレの過去教えてくれって言えば、本、貸してくれるぜ?……これ弾いてるヤツ、やっぱり無意識だな。こっちに心が向いてねーよ。誰かに聞かせてるのか?こんな音聞かされて、喜ぶヤツいるのか?場所も、風の城と、大地の領域だったか?バラバラで、唐突だったな。誰が弾いてるのか見つけるには、地道に観測しかねーな。もう、エーリュがやってるんだろ?」
「うん。グロウタースの歌う緑の魚大陸だ。そこまでは突き止めたんだけど、その先がまだなんだ」
「歌う緑の魚か。厄介だな。あそこは、音楽に溢れてるからな、イシュラースからじゃ聞き取りにくいな。小鳥達に、バイオリン弾けるヤツのリスト作らせて、片っ端から当たろうぜ?」
リティルは、水晶球からすんなり手を放した。リティルの間合いの外からリティルをずっと見ていたシェラは、安堵して、こちらに視線を向けてくれた彼に向かって、1歩を踏み出した。シェラの足が、リティルの間合いに踏み込まれていた。
――どうして……勝手に決めて、勝手に逝ったんだ!
ビシッと大きな音が響いて、バイオリンの音を移していた水晶球にヒビが入った。咄嗟に水晶球の乗った台座を飛び越え、リティルはシェラを抱きしめた。その背中めがけて、黒い死神の鎌が振り下ろされていた。
――あれは何?
リティルに庇われながら、シェラの瞳は、水晶球から立ち上った黒い靄を見ていた。殺意?嘆きがハッキリとシェラに向いていた。
シェラの体から、彼女の髪に咲く、花のような丸い光の粒が立ち上った。光の花びらは、黒い死神の鎌にまとわりつくように飛んでいた。リティルの背中に振り下ろされていた、その刃が止まる。
「花?あなたは、花の精霊に縁があるの?」
「シェラ!やめろ!」
リティルの声に、黒い死神の鎌が我に返ったような気がした。次の瞬間、シェラは突き飛ばされていた。再び、振り下ろされた切っ先が、リティルの背中を貫く。
「――止めるに、決まってますよねぇ?」
飛び込んできたキラキラ輝く金色の風が、リティルの背後に舞い降りていた。インジュの手の平は、確実に反属性を返し、リティルを貫く前に黒い鎌を消し去っていた。
「ふう。大丈夫です?2人とも」
間に合ったー!と振り向いたインジュは、安堵していた。
「ああ、助かったぜインジュ!まあ、初めての魔法は、暴走がつきものなんだ。気にするなよ?ラス」
リティルは、突き飛ばしてしまったシェラを助け起こしながら、安心させるように明るく笑った。
「……リティル、今、何か声が聞こえなかったか?」
ボンヤリしていたラスは、リティルの声で我に返り、咄嗟に質問していた。
「ん?いや?何も聞こえなかったぜ?何か聞こえたのかよ?」
リティルは、本当に聞こえていない様子だった。ラスはなぜか、リティルに聞こえた言葉を言わなかった。そんなラスを、シェラは注意深く見つめていた。ラスは、シェラの視線に気がついた。
――あなたは、聞こえた?
シェラは、ラスにそう言われた気がした。
インファが、インジュに誘われて連れてこられたのは、イシュラースにある神樹の森だった。
次元の大樹・神樹は、3つの世界に存在しているが、そのすべてが同一だ。
「オレの我が儘に付き合ってくれて、ありがとよ、雷帝」
「用があったのはあなたでしたか。エンド君」
そびえ立つ大樹の前で、こちらを振り返ったインジュの雰囲気が、殺意に溢れていた。柔らかな切れ長の瞳が、抜き身のナイフのように鋭く変わっていることに、インファは気がついた。
「ハッハア!オレの殺気の中、顔色一つ変えねぇあんたは、慕うに値するなぁ。親父殿」
もの凄い威圧感ですよ。と、ニッコリ微笑みながらインファは、こんな者と対峙できるほど強い精霊ではないのになと、内心トホホだった。もちろん、強がり通すが。
「これでも、長く生きていますからね。それにしても、あなたが表に出てこられるとは、知りませんでしたよ」
クッと、インジュの殺戮の衝動の人格であるエンドは、顎を引いて微笑んだ。
「事前通達なし、イシュラースの神樹の前、雷帝と2人っきり。それが条件だ。今後ともよろしく、親父殿」
エンドは片手を背中に、大げさに片手を大きく回して胸に置くと一礼した。
「そうですか。それで、何ですか?インジュを切り刻んだことを、責めにきたわけではないでしょう?」
「殺戮のイヌワシ。オレに理性がある分、オレでも無傷で勝つのは難しい強さだぜ。加えて、ハンターとしての多才さは、親父殿のほうが上だ。オレの助言がなければ、インジュは負けてたぜ。あんた、ホントに上級精霊か?最上級の間違いじゃねぇのかよ」
「疑いようもなく、上級精霊です。戦闘能力に、それほどの差があることが、その理由でしょう。彼を使いこなすことはオレには無理です。しかし、そうですか、あなたが助けてくれたんですか。ありがとうございます。あなたがいなければ、オレは息子を殺していました」
「フッ。オレがいなくても、親父殿はインジュを殺せねぇ。散々躊躇った癖して、よく言う。親父殿はインジュをいたぶったんじゃねぇ。急所を、どうしても攻撃できなかっただけだ。そうでなければ、最初の一撃で、心臓を抉られて終わってたさ」
エンドは見せつけるように、自分の胸に爪を立てて引っ掻く仕草をした。その仕草に、インファは客観視した記憶を思い出した。体術を使うインジュを、殺戮の衝動に支配されたインファは、素手で嬲った。体術など知らないのに、インジュを上回って彼の体を見えない爪で切り裂き続けた。四肢を切り飛ばすでもなく、彼の超回復能力が瞬時に癒やせるギリギリの力で――。
「そうは、見えませんでしたよ……」
「オレは本物の殺人鬼だぜ?快楽か、そうでないかくらいわかる。親父殿の理性は、ちゃんとインジュを守ったさ。おっと、本題はそれじゃねぇ。インジュが触った黒い犬のことだ」
黒い犬と聞いて、インファは伏せた視線を上げた。
「あれは、生きても死んでもいねぇ。妙な物体だ。ただ、生きるか死ぬかどっちを選ぶかっていうと、生きる方らしい。インジュの心臓が、ガッツリ狙われてるぜ」
「インジュはそれを知ってるんですか?」
エンドは首を横に振った。
「本能的な恐怖は感じてるが、気がついてねぇな。あいつ、ウッカリだからな。どうする?インジュなら、心臓くれてやってもどうってことねぇ。与えて生き物になったところで、狩るって手、使えるぜ?」
「エンド君、あなたはあれを理解しているんですか?」
「さてね。理に反してて、風の敵だってことだけだな。ただ、今のまま滅するのはジ・エンド・オブ・ザ・ワールドを使わねぇかぎり、無理だ。そこにいるのに、存在してねぇ物体なんか、インジュの反属性返しでも壊せねぇ。あと可能性があるとするなら『音』ってヤツか」
「音ですか?」
「ああ、感じる事には感じるんだ。ただ、オレはあんま頭良くねぇ。インジュが理解してる事以上の事はわからねぇ。軟弱王子と、可愛子ちゃんが突き止めてくれねぇと、なんともなぁ」
「ジ・エンド・オブ・ザ・ワールド……いえ、ダメですね。ラスとエーリュが越えなければ、彼等の消滅は免れません。あの犬に、接触するしかなさそうですね……」
「親父殿、あんたじゃ死ぬぜ?やるなら、インジュにしてくれ。陛下は近づけさせるなよ?あのお方は、何しでかすかわからねぇからなぁ」
もとよりリティルをぶつける気はない。本人がやると言い張っても、誰もが止める。残念だが、リティルはあれに届く刃を持ち合わせていないのだ。
「しかし、インジュは……」
心労が溜まって不安定だったとはいえ、インジュはハッキリ「怖い」と言って、泣き縋ってきた。元気にはなったようだが、もともとインジュは臆病だ。そんな息子に、1人で戦えとはインファは言いづらかった。
インファの采配の仕方は、その事案に赴く者が、命を失わないように、獲物の大きさ、特徴等を見極めて、主力と補佐を組み合わせる事が基本だ。
あの犬と対峙するには、インジュが主力にならざるを得ないが、彼を守れると言い切れる布陣を、まだ思い描けなかった。
尻込みするインファを見て取って、エンドは再び口を開いた。
「じゃあ、こうしようぜ?インジュに戦わせて、親父殿が診てくれ。音魔法の理解、進んでるんだろ?心配すんな。煌帝・インジュは、そう簡単にゃ負けねぇ」
「考えさせてください。今のオレには、インジュを犠牲にする未来しか見えません」
「犠牲、上等じゃねぇか!オレ達は道具だ。道具は役立ててこそだろう?」
「あなた達はオレの息子です!インジュもあなたも、道具ではありません」
「オレ達は原初の風だ。4分の1っきゃねぇが、オレ達は体を失うだけで、原初の風自体は陛下の中へ戻るだけだ。オレ達だったモノが失われるわけじゃねぇ」
「オレの認識では、それを死というのだと思いますよ?」
「もう1度、産み出せばいいだろう?オレ達が、失われたわけじゃなし。オレ達がここにこうしているのは、インジュがそう望んだからだ。その為に、インジュは親父殿を利用した。インジュは何度でも望むさ」
「インジュが望んだとしても、オレは2度と、産み出すことはありません」
「なぜだ?」
「そうやって、もう1度産み出したとしても、それはもうインジュではないからですよ。オレは、あなた方を失う気も、傷を負わせる気もありません。エンド君、あなたのことも、オレには大事ですよ?」
「オレ達は原初の風だ。あんたらのいう死は、オレ達には当てはまらねぇ。それでも、ダメだっていうのか?」
「精霊が精神の生き物だということは、認識しています。ですが、オレ達にも確かに肉体があるんです。あなた達は、純血二世でしょう?グロウタースの民と同じように、産まれてきた精霊です!もう1度、同じ方法を使って産まれたとしても、それは、インジュではありません!オレも、風の王・リティルと花の姫・シェラから産まれた純血二世です。オレと同じ方法で産まれたインリーは、オレと同一ですか?違うでしょう?同じ方法を使っても、兄弟という存在が産まれるだけで、インジュが再び産まれるわけではありません」
「心が同じでも、違うモノだっていうのか?同じ両親、同じ精子と卵子を使って、同じ原初の風を媒介にしてもか?なぜ、違うモノになるって言い切れる?」
「この世界に、同じ者がいますか?同じ手順を踏んでも、2度と、失った存在を取り戻すことはできません。オレは、原初の風という精霊がほしいわけではありません!」
「……インジュも、同じようなことを言ってる。だから、親父殿や陛下を、あの犬に会わせたくねぇとな。だがなぁ、あいつは来るぜ?原初の風は、受精させる力――産む力の塊だ。あの、存在しない存在は、存在するためにインジュのヤツを捜してる。不定期ゲートが歌う緑の魚に開くのは、3ヶ月後だ。あいつは、イシュラースに来る。それまでにどうするか決めてくれ」
「3ヶ月もあるんですね。了解しました。エンド君、オレは完全勝利しかさせません。オレ達一家に喧嘩を売ったこと、後悔してもらいます」
「ハハッ!親父殿、あんたのそういうとこ大好きだぜ?ああ、オレのような化け物のことまで、大事だと言ってくれて、ありがとよ。オレは、死ってヤツを理解できねぇ。けど、親父殿に会えなくなるのは嫌だ。期待してるぜ?親父殿」
エンドはそう言って男性的に豪快に笑うと、そのナイフのような瞳を閉じた。
彼が瞳を開く頃には、あれだけ握り潰されそうなほどだった殺気が、唐突に消え失せ、丸い、日だまりのような雰囲気が戻っていた。
「――お父さん……あのー、エンド君が色々すみませんでした。ボク、死ぬ気ないです。ボクっていう存在が、唯一無二だってこともわかってます。お父さんと……もっと……一緒に――居たいです!」
泣くまいと堪えていたのだろう。だが、強がることは叶わず、インジュの瞳から、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。ガクッと頽れそうになったインジュの体を、インファは受け止めた。そして、しっかり抱きしめる。
「ボクは――お父さんの子供として産まれたかったんです……!リティルと、お父さんの関係に、憧れてたんです。お母さんみたいに、宝石を核にして具現化すれば、不死身の精霊になることだってできました!そしたら、こんなとき、気兼ねなくこの体を使えたのに!雷帝・インファ……あなたが、格好良すぎるからいけないんです!」
「インジュ……産まれてから20年あまり、オレのことが、恐怖の対象だったはずですよ?引きこもって、散々避けられたと記憶しています。説得力ありませんね」
「それ今言います?それは、思いの外お父さんが強かったからです!最上級より強い上級って、何なんですかー!産まれたボクは、臆病っていう心を持っちゃってましたし!予想外です!こんなはずじゃなかったです!ううう……怖いの克服したはずなのにぃいいい!」
「恐怖を、侮ってはいけません。臆病なこと。それが、あなたの強さでもあります。ゾナが、何かを掴めるかもしれませんし、絶望しないでください。慎重なこと。それがオレの強さです。何とかします。必ず!」
「お父さん……」
「はい」
「格好いいです……惚れちゃいます」
「……知っています。セリアが、ことあるごとにそう言いますから。だた、言わせてください」
言葉を切ったインファに首を傾げて、インジュはやっと顔を上げた。
「格好良くあることにも、無理が必要なんですよ?エンド君のあの殺気の中、平然としていろとは、久しぶりの苦行でしたよ。オレは、さほど強い精霊ではありません。知識を駆使して、何とか体裁を整えているだけです。見栄と、はったりと、強がりです。見えないところでは泥まみれですよ。それが、雷帝・インファです。それでも、格好いいですか?」
「あははは。お父さん、本当に格好いいです!大好きです!だからボク、負けませんよ!」
リティルに似た、明るい笑顔で笑って、インファを解放したインジュは、グイッと涙を拭った。
――強く、なってしまいましたね。あなたにはもう、庇護する手は、必要ではありません。あなたの手を、引いてやることはできません。オレは、さほど強い精霊ではありません。そんなオレがあなたにできること。それは、前を行くあなたの背中を、守ることです。例え、肩を並べて戦えなくても、あなたの後ろに、オレはいますよ
皆、すでに完成されてしまっているインファを置いて、行ってしまう。そんな皆の背中を、インファは風の城で見送る。そのポジションに、不満があるわけではない。インファには、インファの戦い方があるのだから。今までは、何も感じる事はなかった。
けれども、インジュのことになると、違う感情が働いてしまう。
彼を認めている。その能力も把握している。だのに、案じる心がなくならない。
もう、とっくに手が離れているのに、駆けつけたくなってしまう。そんな心に蓋をして、インファはインジュを見つめていた。
ラスがインジュの相棒となって、50年。
インサーフローとして歌えなかったのには、理由があった。
時間が極力重ならないように、インファはインジュを避けていた。確かに、仕事は忙しかったが、こんなにすれ違うほどではなかった。皆の仕事の割り振りをしていたインファならば、その時間を確保することは容易かった。だのに、インファはそうしなかった。
インジュに、手を差し伸べてはならない。
ラスと2人、切り抜けられなければ、今後仕事を任せられなくなってしまう。命に関わらない、小さな失敗を積み重ねさせ、2人で乗り越えさせなければ務まらない。
インファは、実働もしながら城で、皆の様子を見守ってきた。だが、インジュのことは見守ることさえできなかった。顔を合わせ、言葉は交わすが、ずっと避けてきた。
涙脆く、怠け者で、強いくせに弱々しい彼の姿を、冷静に見守る自信がなかった。
大事なのだ。可愛いのだ。インジュという息子が。その心を、消化できない。
あなたを父と、選んで産まれてきた!
ずっと昔に、インジュがそう教えてくれた。
インファはどう接すればいいのかわからなくて、臆病が前面に出ていたインジュはインファに近づけずで、親子はわかりやすくすれ違った。
セリアを愛しているが、恋愛には不向きで、多くの精霊に師と仰がれるほどなのに、父親には不向きで、幼いインジュの姿を殆ど思い出せないほどの、名ばかりの父親だった。
だが、インジュは力を手に入れて、歩み寄れないインファの前に立ってくれた。
あなたは憧れの人だ。あなたのようになりたいんだと、インジュは赤裸々にぶつかってきた。急浮上しては、急降下する不安定な精神で、長らく力が安定せず、なかなかに危うかった。歩み寄ってくれたインジュを、インファは手を引くように守ってきた。
その手を、放すときが来た。けれども、放すことができない。そうやって迷っているうちに、インジュは命の危機に直面してしまった。
まだ、インジュの手を放さなくてもいい。インファは心の底で、そのことに安堵していた。
転機は、90年あまり前の、歌う緑の魚での事案だった。
人間の歌い手として潜入するという、リティルでさえ初めての試みをしなければならない、そんな仕事だった。精霊としての力を制限され、風の城のサポートも受けられない、危険な仕事だった。
困難なその仕事に、インジュは、すでに決まっていたインファの相棒となる歌手に立候補してきた。内心驚いた。命令がなければ動かない、下っ端でいることを望んでいたインジュが、猛練習して、インサーフローのヴォーカルの座を勝ち取りに来たのだ。
今までにない行動だった。自ら望んだことだったからか、歌う緑の魚でのインジュの精神は驚くほど安定していて、むしろそれ以上の力を発揮した。
歌の精霊・エリュフィナと旋律の精霊・ラスを救えたのは、彼の功績だ。インファとリティルは、インジュをサポートしたにすぎなかった。
あの事案の後、インファはインジュから手を放すことを決めたのだ。決めたはずだった。
ずっと、見守ってくれていたリティルも、インジュを一人前と認めた。そして、インジュをさりげなく誘導して、四天王にしてしまった。
「父さん、父さんがオレを一人前と認めたのは、いつだったんですか?」
久しぶりだった。リティルと差しで、酒を飲むのは。
「ん?んー?おまえの場合、決定的にはいえねーな。ハハ、おまえ、可愛げのねー子供だったからな!」
リティルは、ウイスキーと氷の入ったグラスを傾けた。
「何だよ?インジュとデートして、何かあったのかよ?おまえが急にオレと飲みてーって言うのも珍しいしな」
ここは、鳥籠と呼ばれている、温室だ。夜とはいえ、応接間を占領するわけにはいかず、お互いの自室は寝室と兼用だ。お互い王妃のある身、部屋を使うわけにもいかなかった。
テーブルのない真ん中のヒメイワダレ草の上に腰を下ろし、お盆の上にグラスを置いて、2人は飲んでいた。
「オレとデートしたかったのは、エンド君でしたよ」
「エンド?あいつ、出てこられるのかよ?」
思った通りの反応をしてくれたリティルに、インファは笑って頷いた。
「条件付きだそうです。インジュは本当に何でもアリですね」
インファは、ウイスキーの水割りを呷った。そして、リティルに顛末を伝えた。このことは、ノインとも共有しなければならなかったが、その前に、リティルと話がしたかった。
話を聞き終えたリティルは、遠慮なく笑いだした。
「ハハハハハ!あいつ、ホントに二重人格なんだな!ご苦労さん。まあ、よかったじゃねーか、インジュが生きること死ぬことを理解してて。あいつまでわかりません!だったら、ヤバかったぜ?」
「父さん、インジュは独断で動きませんよね?心配になってきましたよ……」
「おいおい、インジュはおまえを裏切らねーよ。一緒に生きてーって、泣いたんだろ?おまえの采配を、誰よりも信頼してるぜ?おまえが後ろにいねー状態で、動かねーよ」
心配するなと、笑うリティルを見ていると、安心してしまう。
「インジュを、信じてはいるんです。ですが、心配なんですよ」
「ハハ、あいつ、問題児だったからな。まあ、心配はオレもしてるぜ?」
「インジュは、妙なことを思い付きますからね」
やれやれと、インファは困りますとため息を付いた。そんなインファの姿を、ジッと見守るような笑みで見ていたリティルが口を開いた。
「いや、心配してるのは、おまえのことだぜ?インファ」
「はい?もう、暴走しませんよ?」
「そういうことじゃねーよ。親ってヤツは、心配する種を探してるのかもな」
リティルは、ニヤニヤと笑った。
「オレの息子は、優秀すぎるからな、注意して見とかねーとな!まあ、酒飲むとかそんなことくらいしか、してやれねーけどな」
「それで、十分ですよ」
「そうだ、それで十分なんだぜ?インジュと一緒に、インフロしてやれよ。インジュも、それで十分なんだよ。それで、たまに泣かせてやれよ」
「最近、抱きつかれてばかりですよ。抱きしめるだけで守れるなら、いくらでも抱きしめますけどね」
「ハハハ、おまえ、インジュに感化されてねーか?あいつ、可愛い顔してるけど、男だぜ?ゴツいオウギワシだぜ?オレと2人で黒犬に殴り込みだぜ?」
「ラスがもれなく巻き込まれますから、やめてください」
リティルは楽しそうに、声を上げて笑った。
「なあ、エンドのヤツ、存在してねー存在って、黒犬が何なのか、ホントはわかってるんじゃねーのかよ?」
「インジュにも聞いてみましたが、わからないそうです。源……命……命の水……父さん、またロックでいいですか?」
「へ?ああ、そろそろ水割りにするよ。なあ、酒って、どうして命の水なんて言ったりするんだろうな?」
リティルは、グラスを掲げて、その琥珀色の液体を透かしてみた。
「正確には、ウイスキーなどの蒸留酒のことです。魂は、燃える炎のように見えなくないですからね。この喉が焼けるような感覚は、その炎を体に取り込むようで、神秘的な飲み物と考えられていたんです。もっとも、アルコール濃度の高さがそうさせるだけで、実際には炎も命も宿ってませんけどね」
「へー、おまえ、物知りだなー。イシュラースで命の水っていえば、ドゥガリーヤの底にあるっていう混沌のことだよな。体と命の源だって、言ってたっけな」
「そうですね。受精した卵子に、命が宿って子供が産まれるんです。父さん、産まれられなかった命は、どうなるんですか?別の卵子に宿るんですか?」
「おまえ、酔ってるだろ?えっとな、風が回収して、ドゥガリーヤに戻るはずだぜ?宿った者の遺伝子情報が入っちまってるからな、リセットしねーと使えねーんだよ」
「なぜ、産まれられない命があるんですか?」
「与えられた命を、育むだけの力がないか……おまえ、産まれる前の命、見たことねーか?ものすげー薄いガラスかシャボン玉みてーなんだよ。触っただけでも壊れそうなくらいなんだ。見た目通り繊細らしくて、衝撃にものすげー弱いんだよ。育まれる途中で壊れることもあるんだ。だからな、セリア、あいつ危なかったんだぜ?ひっくり返ってただろ?インジュが腹にいたとき」
「覚えています。あれにはオレも青くなりましたよ」
セリア本人はケロッとしていたが、シェラは本当に心配して、かなり長いこと治癒魔法をかけていた。
「セリア、見た目に反してがさつなんだよなー。それがあいつの魅力だけどな」
「ええ、可愛いですよ。父さん、産まれられなかった命は、鬼籍に載るんですか?」
「載らねーよ。命としてカウントされねーんだ。そこらへんが、魂の数の把握が難しいところなんだよな。送り出したのに、鬼籍に載らねーから、鬼籍の数とあわねーんだよ。だから悪用されたんだけどな」
リティルは参った参ったと、両手を後ろ手につくと、高いドーム状の天井を見上げた。隣のインファは、リティルとは逆に片手を口元に当てて俯いていた。
「存在したはずなのに、存在した記録がない……記録がない存在……あの犬は、死産の子供……」
「ん?死産の子供?面白れー仮説だけど、命になってねー命は、風じゃねーと捕まえられねーぞ?風の精霊以外、認識すらできねー儚さなんだ。繋ぎ止められるものじゃねーよ」
「精霊にも、引き留められないんですか?黒い源の力の正体さえわかれば、インジュを守れます」
「……インファ、この件はオレが引き受けるぜ。命を弄ることになったら、オレの権限でも危ういからな。心配するな、命の専門家がいる。シェラに相談してみるさ。ってことで、オレとシェラは明日ドゥガリーヤな!」
「オレは結果待ちですか?」
「ああ。こっちは関わるな。オレも父親なんだよ。おまえは、エーリュの方頼むな!例のバイオリンの音だ。そっちも、歌う緑の魚なんだよな」
「犯人の目星がついたら、接触してもいいですか?」
「ノインとインジュと話し合ってくれ。エーリュのおかげで、暴走しねーとは思うけどな。慎重にな」
「了解しました。父さんも、無茶しないでくださいよ?」
「ああ、大丈夫だ。シェラが一緒なんだぜ?無茶のしようがねーよ」
明るく笑うリティルに、安堵する。風の王夫妻――頼もしい両親。
オレは?インジュにとって、どういう父親なのだろうか。
――お父さん、本当に格好いいです!大好きです!
そう言って笑うインジュは、役者だ。彼の言葉を信じることができないのは、役者な彼を知っているが故なのだろうか。
――心にもないことを、言わないでくださいよ。インジュ……
また明日な!とリティルと別れ、けれどもインファは鳥籠に引き返していた。
息子に、好かれるはずのない父親だった。今のインジュの柔らかな笑顔に、幼いインジュの怯えた瞳を思い出す。幼い自分を思い出すとき、そこにあるのは、リティルの明るくて、優しい笑みなのに。同じモノをインジュには、与えてやれなかった。
泣いて縋ってきたインジュは、あの日の穴を埋めたいのではないか?そんなことを思ってしまう。身の危険を感じて、怖いと泣くインジュに、どういう行動をとればいいのか、思考がまとまらない。
今、インジュを見守っていればいいのか、掴んで放さないほうがいいのか、インファはわからなくなっていた。