小章 ジェーダイト楽器工房
チリンチリンと呼び鈴を鳴らして、扉が閉まった。
バイオリンを習いに来ていた生徒の背中を見送り、ヒスイは店を閉めた。
4年前はどうなることかと思ったが、生業だと言えるくらいまで稼げるようになってしまった。それは、やはり、インジュのおかげなのだろうか。
あの、心の底まで明るい、美しい精霊。彼は、人間に身をやつしてここへ、バイオリンを純粋に習いにきている。未だに髪を切らないのは、まだ父親が封じられたままなのだろうなと、ヒスイは察していた。
彼が通ってくるようになって、半年経った頃から、バイオリン教室はここか?と尋ねてくる者が出始めた。初めは断っていたのだが、インジュが最近道で声をかけられると言い出し、ヒスイなら先生ができるのでは?と言われた。それでも、教室を構える気はなかった。それから更に半年経ち、インジュが大変なことを言い出した。
「楽音収穫祭に、エントリーしません?ボク、スカウト来ちゃうんで一緒には出られないですけど」
スカウトされると、サラッと言えてしまえる彼は大物だなと思いながら、実際そうだろうなと納得している自分がいた。インジュは、噴水広場で自主練習していたら、人だかりになっていて、ビックリして逃げてきたと言っていたことがあった。思えばそれからだ。バイオリン教室はここか?と聞かれるようになったのは。あの頃はまだ、インジュは上手いとは言い難かった。だが、やはり素質というモノは隠せないのだろう。ヒスイも、インジュの弾くバイオリンが好きだった。それを聞いた者が、それを教えたヒスイに興味を持ってくれたことは、素直に嬉しかった。だが、ヒスイは臆した。
「インジュ、わたしはプロになる気はないよ?バイオリンは、趣味だ」
「プロになれって、言ってるわけじゃないです。先生は、人前で弾いた方がいいって思ったんです」
「しかし……わたしがインジュの先生である事は、何となく知れてしまっていて……」
生徒より下手な先生なんて……とヒスイは閉じこもった。
「ヒスイ先生!」
「はい」
「ボクと勝負します?今から噴水広場で交互に弾くんです。それで、どっちがいいか投票してもらうんです」
彼はたまにとても強引だ。行きますよ!と精霊の顔をされて、ヒスイは愛用のバイオリンを手に、インジュと勝負する羽目になってしまった。
あの勝負がなければ、教室を開くこともなかっただろうなと、ヒスイは思わず苦笑した。
勝負の結果は、ヒスイの完敗だった。しかし、人前で弾くことが、こんなに楽しいことだということを、初めて知った。そして、ヒスイの方がいいと、言ってくれる人がいることを知った。
店に戻ると、再び教室の事を聞かれるようになった。踏ん切りがついたのは、子供にバイオリンを教えてくれないかと、常連の男性に頼まれたからだった。彼は、たまたま噴水広場での演奏を聴いていてくれ、インジュが「先生」と呼ぶのも聞いていた。ヒスイがあんなに弾ける事も知らなかったが、教える腕もあることも知らなかったと言い、どうしても身の入らない、息子と娘に教えてやってほしいと言われた。
その2人に教えるようになったのが、始まりだった。彼等は今でも通ってくれていて、インジュが何者なのかも知っている。
初めは週1回1時間だった教室は、それだけでは足りず、今や週3回だ。インジュは、下心のある者が紛れ込むのを避けるために、今では、いつ姿を現すかわからない。もう、彼に教えることはないのだが、それでも彼は週1回は必ず来ていた。古株の生徒達とも未だ交流がある。
ヒスイは何となく、明日、インジュが来るような気がしていた。そして、修理の仕事を終えると、早めに床についた。
その夜、ヒスイは夢を見た。
インファが、鎖に縛られて頭を垂れている。あの、金の輪に封印された姿とは違い、石の柱のようなモノに縛り付けられていた。痛々しいその姿に、思わず駆け出そうとすると、後ろから手を引く者がある。見ると、12才くらいの黒髪の少年がジッと、猫の目のような虹彩の瞳で見上げていた。
「あの人が誰か、知ってるよね?」
彼は言った。危害を加えられそうな、そんな不安を覚える声だった。
「もちろんです!あの鎖を解かないと!」
彼の手を振り払おうとしたが、びくともしなかった。
「解けないよ。あの人自身が、解けないようにしてるんだ。インジュの声も、リティルの願いも届かない」
「インファさん自身が?なぜ?」
「聞いてみれば?おまえ、あれの父親なんだってね」
少年は、ニンマリと悪夢のような笑みを浮かべると、手を離した。
あれの父親?まさか、まだコランが彼を苦しめているのか?とヒスイはハッとして、インファに駆け寄っていた。
「インファさん!インファさん!あなたはまだ、囚われているのですか?なぜですか?あなたの意志とはどういうことですか!」
遠慮なく肩を掴むと、インファはゆっくりと顔を上げた。
「……ヒスイ……」
「コランは……コランは未だそこにいるのですか?」
インファの瞳に、輝きはなかった。ただただ暗く沈んでいた。そして、彼は思わぬ事を口にした。
「オレ達は、1つです」
「違う!違います!インファさん!あなたはコランを、弔うと言って引き受けてくれたのです!その子を放してください!コラン!もうこの人を苦しめてはいけない!そこから出てくるんだ!」
インファは力なく首を横に振った。
「オレは……さほど強い精霊ではありません。オレには、コランの執着から、オレ自身を守る術がありませんでした。コランを葬送するには、オレごと風の刃で斬るしかありません」
「そんな……あなたは、諦めると言うのですか?インジュ……あなたは、インジュよりも他人の子を選ぶというのですか!」
インファは、哀しそうに微笑んだ。
「インジュに、バイオリンを教えたのはあなたですか?」
「……おこがましいとは思ったのですが、断りきれずすみません……」
「いいえ、ありがとうございます。インジュには、ギターを教える約束だったんですが、果たせそうにないので、助かりました」
「聞こえて、いるのですか?」
「たまに、聞こえてきます。封じられた世界では、何も感じることができません。ですが、不思議とインジュのバイオリンの音だけは聞こえるんです」
インファは、顔を上げた。臨終間際のような穏やかな顔で、ヒスイはただただ不安になった。
「4年です。あなたがこんなことになって、外では4年経っているのです!わたしはグロウタースにいるので、風の城の事はわかりませんが、インジュは、諦めてはいません!あなたと同じ髪型で、験担ぎに切らないと言っていました!あなたが戻ると、信じているんです!だのに、諦めてしまうのですか?」
怒るようなヒスイの声に、インファは力を失った瞳で、ルキを見た。
「ルキ、お願いがあります。聞いてくれませんか?」
「内容によるね。ボクは、リティルを悲しませることはできないんだよ」
ルキと呼ばれた少年の頭に、黒猫の耳が、尻に毛足の長い黒い尾が生えた。
「今ここで、オレを殺してください」
「インファさん!」
「精霊封印陣。この魔法は、精霊を永遠にそのまま保存できます。今ここでオレを殺しても、石化したオレの体は永遠に残ります。ただ、永遠に解けない封印になるだけです。オレがすでに死んでいることを、皆が知るのはもっとずっと後、忘れ去られた先でしょう。その頃にはもう、世界にオレは必要なくなっているでしょう。インジュは、風の王の副官になれるだけの力がすでにあります。城が困ることはありません」
ルキはハアとため息をついて、やれやれと首を横に振った。
「……インファ、どうしちゃったの?その、コラン?だっけ?君の心をそんなにするくらい強力なのかな?君が死なないなら、今、解剖してでも取り出したいね」
フンッと、嫌悪感を隠さずにルキは腕を組んだ。
「インファ、君の価値は、上級とか最上級とかまったく関係ないところにあるよ?君の存在価値に、世界は関係ない。リティルに必要かそうでないのかが、一番重要なんだ。インジュが副官?冗談やめてよ。あいつはどこまで行っても、風の城の清掃係だよ。皆がかぶった穢れを綺麗にする、雑巾だよ。それをあいつは、理解してるじゃないか。インジュ、ここに呼んであげるから、今君が言ったこと、ソックリそのまま伝えてやりなよ」
「そうですか。では、仕方ありませんね……」
インファの暗かった瞳に、光が宿った。ヒスイはハッとして、ルキを咄嗟に引き離した。あの瞳は、決意だ。ヒスイは身の危険を感じていた。
「あなたが首を縦に振ってくれるまで、ここにいてもらいます。幻夢帝といえど、長く体から離れては危険ですよ?」
ヒスイは、現れた気配に振り向いた。そこには、数羽の透き通るような金色のイヌワシがいた。大人の男が背に乗れそうなほど大きなイヌワシ達は、獲物を見据えた眼差しで、こちらを窺っていた。
「インファ……何を隠しているのさ?それとも、コランのせい?」
「ただ、オレの意志ですよ。風の城に必要なのは、オレがここにいるのだと信じることだけです。雷帝・インファは、役目を終えています。オレがいなくとも、風の王・リティルは永遠の風の王で居続けますよ。ここにいるのだという希望だけで、生きていけます」
「インファさん!あなたは、こんなにも、皆に自分が必要であることを、わかっているではありませんか!だのに、なぜです?」
「オレが、さほど強い精霊ではないからです。オレが、誰かに死を見せるわけにはいかないんです。この封印が解かれないこと、それが重要なんですよ」
「もっともらしいことを……でも、これでわかったよ。ヒスイ、このことインジュに知らせてやって」
「逃げられませんよ?」
「ヒスイは出られるさ。コラン、君は雷帝・インファの本当の恐ろしさを知らない。支配したつもりだろうけど、それでも!インファは抗う!さほど強くないって?そうだよ、インファは弱いよ?でも、勝てないんだよ、彼には。風の王の副官の強さは、そんなものじゃ計れないんだよね」
ザアッと金色の歌うような風が、ヒスイを包んだ。イヌワシが襲いかかるよりも早く、風はヒスイを攫い上げて、まばゆい光の先へ放り出していた。




