6
魔女が消えた後、僕らは無言でログアウトした。
現実世界で目覚める。元の部屋だ。
そういえば、ログアウトすると、アバターはその場所に残り続けると妖精が言ってたな。
平和な田舎の野原とはいえ、放置されたアバターは無事でいられるのだろうか。
いや、関係ないか。僕はもうこのゲームにログインすることはない。才能あるアバターを手に入れたのは、束の間の夢だったのだろう。
「ふざけるなよ、ザコ!」
ヘッドマウントディスプレイを外した怪が僕に詰め寄ってきた。やはり怒りは収まっていないようだ。
僕がゲーム世界でそうしたように、胸倉を掴んでくる。
「わかってんだろうな? お前を殺すのも生かすのもオレ次第だ。明日、兵隊にリンチさせてやる!」
情けないことに、リアルの怪の迫力に僕は震えた。
僕は臆病で、運動が苦手で、喧嘩をしたこともない。怪と一対一で喧嘩しても勝てないだろう。ゲームの世界と同じように一方的にやられる。
怪は温室育ちのおぼっちゃまで、歯向かう人間など周囲にはほとんどいなかった。そんな怪に、僕は無謀にも喧嘩を売ってしまったのだ。明日学校に行ったら、僕は間違いなくボコボコにされるだろう。下手すれば入院もあり得る。
兵隊というのは、怪が飼いならしている三年生の不良グループのことだ。
噂では、怪の父親が経営上の揉め事を解決する為に雇っている組織があり、その組員が僕らの学校の不良に一声かけているらしい。
つまり、怪を敵に回すということは、学校の不良はもちろん、それらがお遊びに思えるような相手まで敵に回すということだ。
「明日、学校で制裁だ。男なら来い。休んだらどうなるかわかってるだろうな」
僕はその場しのぎで頷いた。明日学校にいくべきかどうか、正解はわからない。
異様な空気を悟った取り巻き達は、「ザコ何したの?」「兵隊呼ぶの久しぶりじゃね」「カメラ持ってくわ」などと勝手なことを言ってる。
ゲーム内で死んだ高野は誇らしげに、僕が怪に喧嘩を売ったことを説明している。
「クソザコが」
怪に突き飛ばされた。
無言で部屋を出る。
隣の部屋に戻り、荷物を手に取る。
まだ手を付けてないケーキが目に入ったが、食べる気にはならなかった。
廊下に出ると、ステラさんと出くわした。
「あら、お帰りですか?」
「まぁ……はい」
無邪気な目で見つめられて、気まずくなる。
僕と怪が喧嘩したと知ったら、この人はどういう反応をするのだろう。
そもそもこの人は、怪の性格の悪さをどこまで把握していて、どのように受け止めているのだろう。
「では、玄関までお連れしますね」
断るのも面倒だったので、僕はステラさんの後ろについてく。
今は何も話したくない。話を振らないで欲しい。そんな願いが通じたのか、ステラさんは一言も話さなかった。
玄関で靴を履いて、お邪魔しましたと言う。
「また遊びに来てください。それと、こちらはお土産です。よかったらどうぞ」
洋菓子らしき箱の入った紙袋を渡された。おそらく有名なブランドなのだろう。ロゴのセンスが一般的なお菓子メーカーのそれとは異なる。
お土産に深い意味はないのかもしれないけど、住む世界が違うと思わされる。
力の差を思い知らされる。
僕は明日、ここの家の坊ちゃんにリンチされる予定です。
そう言ったら、この人はどんな反応をするのだろうか。
「どうかしましたか?」
ステラさんが首を傾げた。
紙袋は差し出したまま、綺麗な姿勢をキープしている。
「あなたはなぜこの家で働いてるんですか?」
自分でもわけがわからない質問をしていた。
ますます首をかしげるステラさんに、僕は続ける。
「怪は自己中心的な奴で、生意気で、大人なあなたにとってはクソガキですよね。あいつなんかの世話をしてるのは……なぜですか?」
他人が口を出すようなことじゃない。言った直後に後悔する。僕はなんて生意気な質問をしているのだろう。
こんなの、ステラさんを非難しているようなものだ。
あるいは、構って欲しいとSOSを投げているようなものだ。
そんな思いが浮かんで、情けなくなる。
「私は怪お坊ちゃまのことは嫌いじゃないですよ。彼のおかげで……正確には彼のお父様のおかげで、お仕事をいただいて、生活できているわけですから」
やはり給料が一番のモチベーションのようだ。わざわざ“お父様のおかげ”と言い直したのは、怪が無力な子供であることを暗に仄めかしているように聞こえた。
ステラさんは建前を取り繕いながら、さりげなく僕に共感してくれたろだろうか。
もっと歯の浮いた言葉ではぐらかしても良かったのに。
無難な答えを返しても良かったのに。
ステラさんは正面から僕の質問に答えてくれた。
そんな小さなことが、少しだけ心の重みを軽くしてくれた。
「……すみません、変なこと聞いて」
「いえいえ」
ステラさんは何でもないように言って、もう一度紙袋を差し出した。
「これ美味しいんですよ。何があったのか知りませんけど、元気出してください」
「ありがとうございます」
ステラさんはやはり、僕が怪と喧嘩したことに気付いていたようだ。そっとしておいてくれたことに心の中で感謝する。ステラさんは僕が思っていたよりずっと大人だった。
僕は紙袋を受け取り、お辞儀をして怪の家を出た。
急に食欲が戻ったので、帰り道で箱を開けてみた。
シュークリームだ。ふわふわした一般的なシューではなく、クッキー生地に近い。真っ白な砂糖がかかっている。
学校帰りに肉まんを買い食いするような手つきで、高級そうなシュークリームを食べる。
「美味っ!」
白雪のような外側とは裏腹に、中身は真っ黒なチョコレートクリームだった。
朝から何も食べてなかったことを思い出す。
口の中にビターなカカオの味と上品な甘味が広がり、糖分が胃に染みる。ほんの少し幸せな気分になった。
いつの間にか僕は、明日どうやってリンチを逃れるかという思考から、別の思考へ至っていた。
どうすれば、あのゲーム世界に戻れるだろう。
どうすれば、僕の母親と名乗った魔女にもう一度会えるだろう。