10
目が覚めると、木の天井が目に入った。
まだログハウスの布団の上にいるようだ。ログアウトはしていない。
本当にゲーム世界へ命を移されたのか、実感は湧かない。
元の世界に戻る方法はあるのだろうか……。ひょっとしたら、現実世界の僕は既に死んでしまっている可能性もある。
考えていても答えは出ない。
布団の中から抜けて、階段を降りる。キッチンは静かだった。
リビングに着いたが、誰もいない。
家の中を回ってみる。
昨日は落ち着いて見れなかったが、やはりレトロな温かみのある家だ。中は思ったよりも広い。部屋は七つほどある。
魔女はここに一人で住んでいるのだろうか。僕の母親と名乗るからには、旦那がいて、一緒に住んでいるべきだと思うが、男が生活している気配はない。部屋の飾りつけなどもシンプルながら女性の趣味に見える。
そういえば、この辺りの引き出しには、魔法の鍵がかかっているのだろうか。
魔女が暗号呪文を使っていたことを思い出し、僕は何気なく引き出しに手をかけて、引いてみた。
引き出しはアッサリ開いた。
中身は……黒い布だった。
「…………これは……」
パンティーだ。
特に飾りはない、しかし上質な布でできているシンプルなパンティ。形状は逆三角形というより、アルファベットのYに近い。魔女が履いているところを想像すると……正直、似合う。
不覚にも込み上げてくるモノを感じたので、僕はパンティを畳んで元の位置に戻した。
コレはマズい。ゲームの設定とはいえ、母子だ。そうでなくても女性の下着を漁るのはまずい。
慌てて部屋を出る。
落ち着いたら、少し腹が減った。何か食うものはあるだろうか。家の物を勝手に食うのは気が引けるので、どこか外で買えるといいのだが。
この世界はモンスターを倒せば金が手に入るのだろうか。
初心者の自分でも倒せるスライムのようなモンスターがいれば、金を稼げて、戦闘の練習にもなり、一石二鳥かもしれない。
「よし、討伐に行くか」
魔女の遺伝子を引き継ぐ息子として、戦闘経験を積んでおくべきだろう。
僕は裸足のまま外に出た。足は恐竜のような足で、皮膚が非常に硬く、足裏の感覚が鈍い。靴は不要だろう。
外に出ると、深い森の中だった。
樹齢何百年かわからない古びた木々がそこかしこにある。太さは二メートル以上、下手したら内部で人が生活できそうなものもある。見上げても木の天辺がどこにあるかわからない。それほど枝が生い茂っている。
木漏れ日の光の強さから朝だとわかるが、森の中は全体的に暗い。明暗のコントラストが神秘的であり、不気味でもある。
こんなところにどうやって家を建てたんだ……?
見渡す限り、街のようなものはない。建築資材を運ぶのにも一苦労しただろう。あるいは、木々は森の物を使ったのだろうか……。
おそるおそる外へ出て、数メートルほど歩いた。既に家を見失いそうだ。あまり遠くへ行かない方が良いだろう。
とりあえず家の周りをウロウロと回ってみると、不気味な植物がそこかしこにあった。甘い香りを発しているラフレシアのような花、小動物のような形に絡まっている蔓、トーテムポールのように積み重なっている禍々しい色のキノコ。どれも触れたらダメージを受けそうだ。
これ以上森の中を探索するのは危険かもしれない。
そう思ったとき、奥の木の根元でガサガサと音がした。
そーっと近づいてみると、カマキリ型のモンスターが草むらから出てきた。
僕の膝上ほどの身長、40センチくらいだろうか。カマキリとしては規格外に大きい。リアルな未知の生物を間近で見ると、不気味だ。
茹でた枝豆のようなツルリとした目が僕を見ている。
敵と認識されたか、それとも様子見しているのか、その表情からは読み取れない。
背筋にゾクっとした冷たさを感じた。
襲われたら、勝てるだろうか……。
カマキリの皮膚は緑色で、蛇のそれに近い。針のような毛も生えている。おそらく、昆虫の材質ではこのサイズで生存できない為、部分的に動物のような皮膚へ進化したのだろう。
となると、単純な筋肉量ではこちらに分があるように思える。
また、相手の鎌と僕の恐竜のような手の爪なら、僕の爪の方が硬そうにも見える。
しかし、相手が未知の生物である以上、どの程度の強さなのか判断はつかない。
ひょっとしたら、現実の昆虫と同程度の速度で動くかもしれないし、カマで僕の体を軽々と切り裂くかもしれない。
緊張と恐怖が強まっていく。
僕が人間の体のままだったら、冷汗がダラダラ垂れているだろう。このアバターはあまり発汗しないようだが……。
カマキリがピクリと動いた。
僕の体も反射的に身構える。
お互いの力量を図るような時間。
カマキリがサクリと音を立て、一歩前へ出てきた。
動く速さはやはり、昆虫のそれに近い。地面から足が離れていたのはコンマ1秒程度。気づいた時には間合いを詰められていた。
おそらく、スピードでは敵わない。
僕は頑丈そうな左手を防御に使用する為、ゆっくり前に出した。
その瞬間。
「キシャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッッッッ!!!」
甲高い声を上げて、カマキリが飛び掛かってきた。
鎌が一直線に僕の首筋に振り下ろされる。
ドクン……。
心臓が力強く鼓動した。
全身の血管に血液が充満し、力を溜めたような状態になった。
動ける。
本能的にそう確信した。
僕はカマキリの鎌を左手で受け止める。
カマキリは反対の鎌を振ってきたが、僕はそれも右手で受け止めた。
相手の力は相当強い。しかし、僕の力はそれを上回っている。
両手で組み合ったまま、硬直状態になる。
さて、次はどうすればいいんだ……。
攻撃方法を考えていると。
「キシャァアアアアアアッッ!」
カマキリが首を前に出し、僕に噛みつこうとしてきた。
僕は少しだけ首を後ろに下げて、それを躱す。
大丈夫、届かない。
「キシャァアアアッッ! キシャァアアアッッ! キシャァアアアッッ! キシャァアアアッッ!」
カマキリは執拗に首を前に出し、牙を向けてくる。
しかし、その牙は僕の顔の数センチ前までしか届かない。
カマキリの攻撃は止まらない。野生の本能なのか、同じ攻撃を繰り返し続ける。
これはつまり、カマキリが攻撃パターンを出し尽くしたということなのだろう。
この状態を維持していれば、僕が殺されることはない。僕の体力はまだ余裕がある。反射神経も腕力も、カマキリより上だ。初見で敵の攻撃を完封しているので、おそらく負けることはない。
落ち着いて、反撃の方法を探ろう。
僕は膝で手首をタップし、ウィンドウ画面を開いた。半透明の黒いスクリーンが浮かび上がる。
ゲームのシステムは正常に作動しているようだ。
身長、体重、筋肉量といった基本的なステータスの画面。装備情報の画面。マップ画面。アイテム画面。検索システム。呪文の一覧。
これだ……。
魔女の息子なら、魔法を覚えているかもしれない。
僕は呪文の一覧をタップした。
新規のウィンドウが開くと、画面上部に1/3490857と表記されていた。全呪文の内、僕が現在覚えている呪文は一つということだろう。初期技を覚えていたことに安堵する。
呪文一覧のほとんどは黒く塗りつぶされていたが、一番上だけは金字になっていて、読むことができた。
説明図を見ると、口から吐く系統の技のようだ。いわゆるブレス系というやつだろう。これなら魔女のような杖無しで発動できるかもしれない。
僕はカマキリの目を見つめる。口は自然とカマキリの首元をロックオンする。
技は何発発動できるかわからない。無駄打ちはしたくない。慎重に撃とう。
狙いを定めると、カマキリの動きが鈍った。
僕の目を見て、恐怖を感じたような、奇妙な反応だった。
その隙に僕は呪文を呟く。
「宝石箱の石礫」
喉の奥から込み上げてくる異物感を感じた。
自然と口が大きく開く。
ほぼ同時に、僕の喉から散弾銃のように小石が飛び出した。
不快感はない。むしろ、ゲロを吐いているときのような、奇妙な爽快感がある。
「キシャァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア……!!!!」
小石がカマキリの全身を貫通していく。
カマキリは叫びながら、穴だらけになっていく。
よほど生命力が高いのか、カマキリは全身がボロボロに崩れるまで断末魔の叫び声を上げ続けた。
やがてその声が途絶えると、僕が握っていた鎌と、地面に散らばった緑の肉片が残った。そのどちらも乾燥している。
カマキリの血と思われる黒い汁は、僕の喉から放出された小石に吸われたようだ。
「倒した……」
最初の敵を倒せたことに安堵する。
弱い敵だったのかもしれないが、戦闘方法すら知らない状態で倒すことができた。これで一つ戦闘経験を詰むことができた。ゼロと一は大きな差だ。手を防御に、宝石箱の石礫を攻撃に使うという戦法は効果的のように思える。
先ほどの攻撃からすると、僕は土属性なのだろうか。地味な僕に相応しい地味な属性だが……先ほどの技は優秀に思える。
技を宣言した直後に発動する発動速度、散弾銃のような攻撃範囲、カマキリの皮膚を貫通する貫通力、敵を粉々にするまで攻撃し続ける持続力。これがゲームの水準から見てどの程度なのかはわからないが、おそらく強い部類に入るだろう。魔女の息子として才能を授かっているという話の真実味がグンと増した。
高揚を感じながら、先ほどの技の消費MPを確認する為に、ステータス画面を開いた。
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Lv:15
HP:10000/10000
MP:3900/5000
AT:150
DF:8000
AGT:1500
SPC:――
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最大MPが5000、消費MPは1100……最大で4発か。先ほどのようなタイマンなら足りるかもしれないが、複数の敵を次々と倒していくには心もとない。
HPが四桁、防御が8000というのは高そうに見える。
先程カマキリの鎌を素手で受け止めたが、ノーダメージだったようだ。そういえば、怪のハンマーを肩で受けたときも、低レベルの割りに硬いと怪が呟いていた。防御力は平均値より上だろう。
速度は平凡。カマキリの鎌に反応することができたものの、他のステータスと比べて高いようには見えない。
攻撃力は絶望的。これはもう明らかに低い。一つだけ桁が違う。強そうな爪は見掛け倒しなのだろうか。おそらく素手での戦闘になった時点で負けだ……。MP消費を抑えて魔法攻撃で止めを刺すことが立ち回りの鍵になりそうだ。
SPCはスペシャル……特殊なアビリティだろうか。まだ何もない。
そして気になるのは『15』というレベル。
初期値を確認してなかったので何とも言えないが、最初から15だったのか、それともカマキリを倒した時点でレベルアップしたのかが気になる。
MPが回復していないところを見ると、レベルは最初から15だったと考えるべきだろうか。
あるいは、初期レベル1で、レベルアップしてもMPは回復しなかったのだろうか。
いずれにしてもMPはまだ余裕があるので、もう一匹くらいモンスターを倒して経験値を積んでおきたいところだ。
そんなことを考えてていたとき。
ストッ……。
背後に何かが落ちた音がした。