「恐れ多きステーキ」
ステーキというものに対する日本人が抱く気持ちは何か。
ふと、考えた。
まずステーキを目にしたとき、我々は何を考えるか。唐突に出された人間は思うだろう、「あれ、今日は何かの記念日かな」と。これはつまり我々日本人にとってステーキというものは常食ではなく、ハレの日の食事だと言える。寿司、スキヤキ、焼肉といった、他とは一線を画すヒエラルキーの高い料理だ。
そしてステーキを食べる際、多くの人は緊張する。襟元や姿勢を正し、硬い表情でナイフとフォークを構える。これはカウンターで食べる寿司はともかく、スキヤキと焼肉には見られない光景である。どちらかといえばこの二つを食べる際は、家族や友人と和気藹々と肩の力を抜いて食べるもの。
つまるところ我々日本人というものは、ステーキに恐れと尊敬。所謂畏怖の念を抱いている。神や鬼、はたまた自然現象に抱く非常に高尚な感情。ステーキはそのような感情を抱く料理である。
無論それに近い料理はいくつか存在する。フランス料理やイタリア料理がそうである。
だがこの二つに人が敬意と恐れを抱く理由はわかる。ここで言うフランス料理と言うのは高級フレンチのことであるが、それらは恐ろしく手間がかかるものが多い。やれ長時間煮込んだり、またそれを長時間かけて作ったソースを少量使って仕上げたり……。素材の味を活かすとはまた別の方向に進化した格式高い料理である。
一方イタリア料理は戦後復興した日本が勝ち取った勝利の象徴、バブル期に持て囃された、言わば勝利の味であり日本人が有り難がるのは実に納得できる。けれども最近はフレンチに比べイタリアンは気軽に入れる店が多く、尊敬はされていても恐れと言うものはほぼなくなったと言えるだろう。
しかしながらステーキというのは、肉を焼いただけという極めてシンプルな料理。もちろん筋切りや叩き、温度管理など多少の工程はある。けれど先に述べたフレンチとイタリアンに比べれば、それは極めて軽いもの。
では人は何故に、ステーキにここまでの感情を抱くのか。
それはやはりアメリカへのコンプレックスに他ならない。戦後の日本が闇市で米を買ったり、僅かばかりのイモを兄弟で奪い合うような貧しさ。しかし海を跨いだアメリカ国内では分厚いステーキをガシガシと食い、恵まれた体格を築き上げる。という、イメージ。
昨今の映画やドラマといったメディアが伝え続けてきた、貧しい日本と豊かなアメリカというイメージがステーキに対する畏怖を作り上げているのだ。
しかし日本という国は今や、そのような矮小な存在ではない。戦後復興から高度経済成長を経て、今や日本は先進国。中国に抜かされたとは言え、名目GDPランキングは3位。加えて文化面においても伝統からサブカルまで非常に独特で、他に類を見ない素晴らしいものだ。
日本人よ、欧米に対する劣等感を捨てよ。日本が、日本全体が私にそう語りかけている。
そのために、ステーキを食う。いや、喰らう。肩の力を抜きリラックスして、普通の飯を食べるかのように。その行為をもってして、勝つのだ。欧米に。世界に。
我が眼前に並ぶは、圧倒的西洋料理の数々。
スープ:冷製コーンスープ
前 菜:スモークサーモンのマリネとカマンベールチーズ
パスタ:雲丹クリームのパスタ
魚料理:白身魚と野菜のブレゼ
肉料理:ビーフステーキ
以上の品。私が考えうる豪華な西洋料理(厳密には正式な西洋料理とは違うが、豪華さという点では引けをとらない)を並べてみた。
しかしながら何という気迫、何たる覇気……! キラキラと輝く眩い煌き。似たような語を重ねて使ってしまう程に足りなくなる己の表現力。まるで万華鏡を見ているかのように、フワとした気持ちになる。
いやいや、何を言っているのだ自分よ。浮かれた気分を沈め、いつものように飯を喰らえ。
まず、コーンスープ。冷製などと洒落た文句が上に付いてはいるものの、所詮はコーンスープ。粉末スープで日本人には随分馴染み深い。冷たくしたからといってなんだというのだ。マリネとチーズも驚くべきものではない。カタカナにするから悪いのだ。ただの刺身と珍味だ。酒の肴だ。晩酌の御供だ。
雲丹のパスタがどうした。寿司で食い慣れている(言うほど寿司屋で雲丹を食べているわけではない)んだ。小麦麺に和えるなぞ、それに比べれば洗練されたものではない。しかしまぁ、良い状態に腹は膨れてきた。白身魚と野菜のブレゼは今回の中でも箸休め的存在。ブレゼなぞと気取った言い方をしていても、実際はただの蒸し料理。レモンと胡椒、オリーブの香りが少し地中海を醸し出しているくらい。こんなもの恐るるに足らず。タラと豆腐を蒸してポン酢で食べるのとほぼ同義じゃないか。ただのコピー品に過ぎない。
西洋料理敗れたり。今や数々の刺客を倒し、この胃に収めた身。最後に待ち受けているのは、これから出てくるであろうステーキ。ステーキなぞと気取ったカタカナをしていようと、その実はただの焼いた肉。何を恐れる理由があるというのだ。
……ダメだ。最後の皿を前にして、心が浮足立つのを感じている。デカい肉というのはそれだけで、嬉しい。どうしても祝いの席を意識してしまう。
食べてみるとやはり、美味い。一口で食べきれぬほどの大きな肉を、ナイフとフォークでキコキコと切り、口へ運ぶ。これが、ただこの行為が楽しい。嬉しい。気分が良い。この食事はいつもとは違う、ハレの日の食事。脳がそう認識せざるをえない。
悔しいが、私は敗者だ。西洋料理のコースを落ち着いた気持ちで食べれない貧しき民。さらに言えば、以上の料理は店で食べたものではない。家で私が用意したものだ。一人で寂しく、浮かれ気味に用意し食べた。
しかもカタログスペックこそ良さげに見えるコースだが、実際は違う。コーンスープは紙パックに入った出来合いのものだし、スモークサーモンも割引品。ウニのパスタもただのレトルト。本日の主役であるステーキに至っては100グラム98円のもの。鶏もも肉並みの恐ろしき安さの牛肉にウキウキする、小市民たる己。
これが意味することは何か。
私は、西洋コンプレックスを抱く日本人。悲しい事実をこのフルコースは教えてくれた。
デザートのアイス(これもまた、1カップ100円のもの)を食べていると、私の頬を涙が伝う。
少し、アイスがしょっぱくなった。