「オシャレアボカド」
皆さんはアボカドを食べたことがありますか?
植物のものとは思えない濃厚な味。油分によるコク。メイン料理の食材に使用しても文句は無い。
それほどアボカドという果物は、食材において不思議な存在である。何が不思議かというと、植物由来で、これほど醤油と相性がいい食材。もしアボカドが戦国から江戸時代に日本に伝承していれば、精進料理はもっと幅が広がっていたことだろう。
そんなアボカドは現代ではどう扱われているか。
オシャレ代表食材。そう言って良いだろう。
実際「アボカド オシャレ」で検索すると 約576,000件の検索結果が出る。参考までに「コボちゃん」で検索すると、約 428,000 件の検索結果が出る。誰もが知っている国民的漫画を、余裕をもって上回る結果。
それほどアボカドとオシャレは切っても切れない関係なのだ。ホームパーティ、カフェランチ、パスタ。様々なオシャレワードがアボカドと結びつく。
だがしかし、私は今までアボカドをオシャレに食べてこなかった。
アボカドを切って、並べてわさび醤油に付けて食べる。そしてご飯を食べる。美味い。
美味いのだが、オシャレではない。
もうまず、「美味い」という感想がオシャレではない。しかも表記では「美味い」と書いているが、心の中では「旨い」と思って食べている。オシャレがどんどん遠のいていく。
なんというか野暮。漢の料理といえば聞こえは良いが、洗練された料理をたまには食べたい。
なら作ろう。洗練されたオシャレアボカドを。
そうとわかれば再び「アボカド オシャレ」で検索だ。さらに今回は画像の検索結果を出してみる。これにより、視覚的イメージから料理を考えていく。
なるほど、実際に見ていくと数々のオシャレアボカドが出てくる。
そして僕はある一定のカテゴリを見つける。それは「器が皮」カテゴリ。アボカドの皮を器にしているものが少なくない。
食材の皮を器にしている料理というものは、なんともオシャレである。
例えばトマト。
トマトの中身をくりぬき、そこに冷製パスタを詰め込む。
オシャレ!
例えばかぼちゃ。
煮物が代表的などこか野暮ったい食材だが、中身をくりぬき、皮ごとグラタンにする。
オシャレ!
例えばサルの頭。
いつぞや映画で……、これは違うな。
やめておこう。
ただ中身をくりぬいて活用しているだけなのだが、これが何とも洒落ている。東京のOLがカフェで食っている感が半端ではない。脳内OL達がキャッキャッと言っている。
そんなわけで、皮を器にした、美味しいオシャレアボカドの料理。頭の中でイメージを巡らせる。
アボカドに合う食材とは……。エビ、マヨネーズ、玉ねぎ……。
上に合わせていくとツナも合うだろう。
それらをどうするか。やはりアボカドの土俵というのは前菜だ。火を通すのも悪くないが、そのままの方が持ち味を活かせている。
よし、決まった。まず、ツナ缶を開く。油をきってボウルに移し、そこにスライスオニオン、小さく切った茹で海老を入れマヨネーズと和える。
そしてアボカドを半分に切り、種を出す。この種がなくなったことで、ポッカリと穴が開いた寂しそうな部分に先ほどの和え物を詰め込む。
こんもりとなるほど、和え物をアボカドに詰め込んだ後は、黒コショウを振り、オリーブオイルを垂らす。そして軽く醤油を回しかける。
完成である。オシャレである。
オシャレアボカドである。
前菜としての見た目も良い。
アボカドの緑にマヨネーズの黄味がかった白。エビの鮮やかな赤。そこに黒コショウと醤油の黒で、上記だけでは浮かれすぎな色彩を引き締めている。
実際に食べてみても美味しい。オシャレで美味しい……。オシャ……、オシャしい?……美味しい。
一瞬結構IQが低そうなことを言いそうになったが関係ない。まず、こんなに美味しい料理を作れる自分のIQが低いはずがない。
そして、こんなにもオシャレであるにも関わらず自分の口に合う。
正直アボカドも海老もツナも、マヨ醤油で食べたことがあるのだからそこまで奇想天外な味わいではないのだ。いつもの慣れ親しんだ味に、少しオリーブと黒コショウのオシャレ風がそよいでいる。
スプーンでアボカドを掘り進んで食べるのも、どこか楽しさがある。
そんなアボカドの濃厚な味わいに舌鼓を打ちつつ、ペロリと食べてしまった。
これでこの後ステーキ、もしくはパスタなどあれば完璧だろう。オシャレディナーである。
それにあと半分アボカドが……。
残ってしまった、アボカドが。
そうなのだ。半分で一人前のこの料理は、必然的にアボカドが半分余る。このことを「なんだ、もう一回食べれるじゃないか。良かったね」と思っている読者の方がいるかもしれない。
甘い。甘い考えだ。
カスドースのように甘い。
半分残ったアボカド。
これが僕に訴えかけてくる事実がある。
一緒に食べてくれる人がいないのか、と。
そうなのだ。一人でオシャレを演出してもしょうがないのだ。ただただ虚しいだけ。
心にぽっかりと空いた穴。それはまるでアボカドの種の跡のようではないか。
そんな悲しみが冷蔵庫を開けるたびに襲ってくるのだ。
恐ろしきオシャレアボカド。
一人の人間に、愛する人のいない虚しさというのをこれほど再確認させられる食べ物があるだろうか。
僕は結局、残ったアボカドを慣れた手つきでササッと切り、ごはんに海苔とわさびと一緒に盛り付けて醤油をかけて掻っ込む。
目から出てくる涙はわさびのせいだ。決して独りの寂しさからくるものではない。
まるで邪魔者を片づけるかのように、僕は、アボカドを食べきった。
これを読んでくださっている皆様に一つ忠告する。
オシャレなアボカド料理を作って食べるときは、愛する人と一緒に二人で。
※ 本文内の「オシャレ」使用回数 24回